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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第四章 銀座の虚飾

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第二十一話 硝子の迷宮

 更衣室のベルベットのカーテンが閉ざされた瞬間、世界から一切の温度が消え去った。


 綾子が足を踏み入れたその場所は、もはや高級ブティックの内部ではなかった。四方を巨大な三面鏡に囲まれた、無限に続く光の牢獄。九条院が「夜の女王」と称した漆黒のドレスは、彼女の肌に触れた瞬間、氷の蔦のようにその四肢を締め付けた。


「……あ、……先生?先生、どこにいらっしゃるの?」


 綾子が震える声で呼びかけるが、返ってくるのは三面鏡の中に映る、無数の「自分」の戸惑う表情だけだった。


漆黒のオーガンジーに銀糸で縫い取られた桔梗が、鏡の中で妖しく蠢いている。ふと見ると、鏡の中の自分たちの背後に、いつの間にか「それ」が立っていた。


 首のない、しかし精巧な肌の質感を持ったマネキンたち。それらは関節をきしませ、木材と蝋が擦れる不快な音を響かせながら、鏡の表面を内側から叩き始めた。


「……美しい……その……若さを……器を……よこせ……」


 硝子が割れるような、掠れた女たちの声。銀座の華やかさに憧れ、贅沢に身を滅ぼし、あるいは美を追い求めて力尽きた女たちの「執着」が、マネキンという偶像に宿り、器としての綾子を求めていた。


「いや……!来ないで……!」


 綾子が後ずさりした拍子に、三面鏡の一つが、内側からマネキンの手によって粉砕された。砕け散った硝子の破片は、床に落ちる前に宙に浮き、鋭い切っ先を綾子の喉元へと向ける。


 一方、カーテンの外側では、健吾が狂ったようにベルベットを掴んでいた。だが、布地は鋼鉄のように硬く、いくら力を込めても、その先の「歪み」へは届かない。


「綾子さん!綾子さん!!返事をしてください!」


 その背後で、再びカチリ、と銀の煙管が何かに当たる音がした。


「無駄だよ、先生様。そこはもう、現世(うつしよ)の理屈が通る場所じゃねぇ。……銀座の地下に溜まった『欲』の泥濘に、お嬢さんは引きずり込まれちまったんだ」


 振り返ると、土御門鏡介が、不敵な笑みを浮かべて壁に背を預けていた。彼は懐から、蓄音機の針のような鋭い形状をした錫製の「釘」を取り出し、指先で弄ぶ。


「……土御門!君の術で、彼女を助けられないのか!」


「助ける?へっ、高くつくぜ。……だが、俺が動く前に、あっちの『姐さん』が黙っちゃいないだろうよ。……ほら、見てみな。あんたの理屈が一番嫌う、ドス黒い奇跡の始まりだ」


 更衣室の深淵。


 無数の硝子の刃が、綾子の白い頬をかすめようとしたその刹那。綾子の薬指にあるアメジストが、鼓動を打つように激しく、そして深く、禍々しい紫の光を放った。


「――お前たち、誰の許しを得て、私の『器』に触れようとしている?」


 空気の密度が、一瞬にして数倍へと跳ね上がった。


 綾子の細い肩が、ゆらりと揺れる。顔を上げたその瞳は、清楚な令嬢のものではなく、地獄の底で燃え盛る業火を宿した、紅蓮の輝きを放っていた。


「……宵闇……!」


 鏡の中の自分と目が合う。宵闇は、漆黒のドレスに身を包んだ自分の姿を鏡越しに一瞥し、酷薄な笑みを浮かべた。


 彼女が指先をひらりと振る。


 それだけで、宙に浮いていた硝子の破片は、意思を持った散弾へと変わり、鏡から這い出そうとしていたマネキンたちの胴体を次々と粉砕した。


「……美しい器が欲しいか?贅を尽くした布を纏いたいか?……ならば、私の胃袋の中で、永遠にその渇きを癒してやろう。……お前たちの『執着』という蜜、なかなか芳醇な匂いがするぞ」


 宵闇は、怯えるマネキンの一つの喉元を、優雅な動作で掴み取った。彼女の影から、桔梗を模した影の触手が無数に伸び、マネキンたちの木製の四肢を絡め取る。


「藤木!そこにいるのであろう!私のこの姿を見ろ!」


 宵闇の叫びと共に、更衣室を隔てていたベルベットのカーテンが、真っ赤な焔に焼かれて霧散した。健吾の目の前に現れたのは、漆黒のドレスを纏い、砕けた硝子の雨の中で、マネキンの残骸を踏みつけにして微笑む、究極の「美」を体現した怪物であった。


 銀糸の桔梗が、宵闇の魔力を受けて、まるで血を吸ったかのように淡い紅に染まっていく。そのあまりの妖艶さに、健吾は恐怖を忘れて立ち尽くした。


「……宵闇……君は、なんて……」


「どうだ、藤木。……あの子が選んだサフラン色も良かったが、この『死の色』こそ、私に相応しいとは思わないか?……お前のその、純白の理性(ロゴス)を汚すには、この黒が最も適している」


 宵闇は、破壊された鏡の中から、一際大きな怪異の核となる「美の結晶」を摘み取ると、それを宝石のように弄んだ。


 鏡介が、口笛を鳴らしながら歩み寄る。


「……恐れ入った。銀座の怨念を丸ごと『おやつ』にするとはな。……宵闇の姐さん、あんた、最新の流行りよりも、よっぽどタチが悪いぜ」


「黙れ、小僧。……この蜜は、私のものだ。……そして、この医者の魂も、私のもの。……お前のような不潔な呪術師に、分ける端切れなど一枚もない」


 宵闇はそう言い捨てると、手にした核を、無造作に自分の口へと運んだ。パリッ、と硝子が砕けるような音が響き、彼女の唇から、青白い光が漏れる。


 怪異を喰らう怪異。


 その背徳的な光景を前にして、健吾は激しい眩暈を感じた。


 彼は気づいていた。このサロンで綾子が着替えたどの洋服よりも、今、目の前で怪異を貪り、残酷に微笑むこの宵闇こそが、彼の心を、魂を、救いようのない深淵へと誘っていることに。


「……さあ、藤木。……デザートは済んだ。……次は、約束の『本物の蜜』を処方してもらおうか」


 宵闇は、健吾の首筋に冷たい指先を這わせ、耳元で甘く囁いた。


 彼女の瞳に宿る熱は、もはや怪異の空腹によるものではなく、一人の男への、歪で独占的な「愛」の形を成し始めていた。


 大正の夜。

 虚飾に満ちた銀座の街で、理知的な医師の敗北は、より深く、より甘美なものへと確定していく。

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