第二十話 百花繚乱の試着
「サロン・ド・リュミエール」の内部は、大正のモダニズムを象徴する、光と香水の洗礼に満ちた聖域であった。
高い天井からは、幾千もの水晶が連なるシャンデリアが垂れ下がり、磨き抜かれた寄木細工の床が、訪れる者の足音を上品な響きへと変換する。壁一面を埋め尽くす巨大な三面鏡は、銀座の街並みを映し込むのではなく、ここにある「美」という名の幻想を無限に増幅させていた。
「いらっしゃいませ。藤木先生、お待ちしておりましたよ」
店主の九条院が、音もなく近づいてきた。彼は健吾に一礼し、その視線を隣に立つ綾子へと向けた。
「……ほう。これは、また。……磨き甲斐のある、極上の『器』をお連れだ」
九条院の、どこか血の通っていないような、人形を思わせる冷ややかな賞賛に、健吾は不快感を露わにしながらも、綾子を促した。
「彼女に、最新の洋装を。……本人の希望、といいますか……まあ、医学的な『気分転換』の一環です」
健吾が言い終わるか否か、綾子の瞳に、あの紅蓮の光が僅かに宿った。
「藤木。もたもたするな。……九条院と言ったか、お前の持っている最も『文明的』な布を、すべて持ってこい。……私とあの子が、お前の理屈を木っ端微塵にしてやる」
宵闇の挑発的な言葉。しかし、それを聞いた綾子の意識が、ふわりと表層へ戻ってくる。彼女は顔を赤らめ、宵闇が勝手に動かした唇を恥ずかしそうに抑えた。
「……先生、わたくし……そんなに贅沢をしても、よろしいのでしょうか」
「構いません、綾子さん。今日は、君が主役なのですから」
健吾は、自分の声が微かに震えるのを自覚した。
これから始まるのは、一人の医師が「患者」に施す治療ではない。一人の男が、愛しい女性の変化を「観察」し、そしてその美しさに、ただ無力に跪くための、甘美な処刑であった。
試着室の重厚なカーテンが開くたび、健吾の「理性」という名の堤防は、一段ずつ、確実に崩落していった。
一着目。
カーテンの向こうから現れた綾子は、サフラン色のシルク・ドレスに身を包んでいた。大正の最先端を行く、ローウエストのサック・ドレスだ。歩くたびに、繊細なプリーツが膝元で揺れ、彼女の白磁のような脚をチラつかせる。
「……先生。なんだか、裾が短くて、落ち着きませんわ。……わたくし、おかしくありませんか?」
綾子は、サフラン色の生地を細い指先でぎゅっと握りしめ、不安そうに健吾を見上げた。
健吾は、絶句した。
サフランの色は、彼女の透き通るような肌の白さを残酷なまでに際立たせ、揺れる裾は、彼女の中に眠る「少女の躍動」を可視化している。
「……い、医学的に見て、色彩の彩度と君の顔色のコントラストは……極めて、良好です。……いや、完璧だと言わざるを得ない」
「ふふ、先生ったら。……次は、もう少し落ち着いたものに致しますね」
二着目。
今度は、アール・デコ調の幾何学模様が施された、真珠色のイブニング・ドレスであった。首元には、何重にも巻かれた長い真珠のネックレスが揺れ、彼女が動くたびにカチカチと乾いた、しかし優雅な音を立てる。
その姿は、大正の銀座を闊歩するモダンガールというよりは、月光から滴り落ちた雫を纏う、水の精霊のようであった。
「……藤木。お前、鼻の下が伸びているぞ」
ふいに、声のトーンが下がる。宵闇だ。彼女は真珠のネックレスを指に絡め、健吾の耳元で囁いた。
「……あの子は、自分を綺麗に見せることしか考えていないが……私は、お前がその瞳の奥で、どれほど不純な衝動を抑え込んでいるか、すべて視えているぞ」
「……黙れ、宵闇。……私は、美学的な分析をしているだけだ」
「嘘をつけ。……お前、今、この真珠をすべて引き千切りたいと思っただろう?」
宵闇の酷薄な、しかし甘い指摘に、健吾は顔を真っ赤にして視線を逸らした。その動揺を愉しむように、宵闇は再び綾子の意識に主導権を返した。
三着目。四着目。
深紅のベルベットのケープを羽織った、冬の街角のヒロインのような装い。レースの縁取りが施された、菫色のクロッシェに合わせた、膝丈のスーツ。
着替えるたびに、綾子は「女」としての自信を、蕾が綻ぶように深めていく。
彼女は鏡の前で、自分の姿を不思議そうに見つめ、それから健吾を振り返る。その瞳には、羞恥と、それ以上に深い、健吾に「見つめられている」ことへの、言葉にならない悦びが宿っていた。
「……先生。わたくし、こんなに幸せで、バチが当たりそうですわ。……この服を着て、先生と歩く銀座は、きっと一生の宝物になります」
綾子の、純粋で、可憐な告白。
健吾は、往診鞄を握る手に力を込めた。この美しさを、この無垢な魂を、自分の論理の届かない場所へ行かせたくない。彼は不覚にも、九条院に「すべて買う。この店にある、彼女に似合う服を、すべてだ」と叫び出しそうになっていた。
「……最後の一着です、お嬢様」
九条院が、黒い漆塗りの箱から、一際異彩を放つドレスを取り出した。
それは、漆黒のオーガンジーに、銀の糸で『桔梗』の刺繍が施された、透き通るようなドレスであった。大正の最先端と、和の情念が、狂気的なバランスで融合した逸品。
「これは……」
「『夜の女王』と名付けた一着です。……さあ、奥の特製更衣室へ。そこにある三面鏡の前で袖を通せば、貴女は、ご自身さえ知らない『真実の姿』に出会えるでしょう」
九条院の言葉に、綾子は吸い寄せられるように、店の奥にある薄暗い更衣室へと足を踏み入れた。
健吾は、背筋に走った冷たい針のような予感を無視できなかった。
更衣室の重厚なベルベットのカーテンが閉まる。
その瞬間。
店内のシャンデリアが、激しく瞬いた。幾千の水晶が不快な擦過音を立て、鏡の中の世界が、まるで水面に石を投じたように、大きく歪み始めた。
「……九条院。君、今、何を――」
健吾が振り返ったとき、店主の姿はどこにもなかった。代わりに、静まり返った店内に、カツン、カツン、と。展示されていた、首のないマネキンたちが、硬い関節の音を立てて動き出し、更衣室を取り囲むように包囲し始めたのである。
「……綾子さん!!」
健吾の叫びは、歪んだ鏡の中に飲み込まれ、返ることはなかった。更衣室の奥底から、無数の硝子が割れるような笑い声が響き渡る。
大正の贅を尽くしたサロンは、一瞬にして、出口のない硝子の迷宮へと変貌を遂げようとしていた。




