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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第四章 銀座の虚飾

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第十九話 銀ブラの誘惑、銀翼の邂逅

 大正十年、初夏。

 帝都・銀座は、文明開化の残り香と、急速に発展するモダニズムの熱狂が交差する、万華鏡のような街であった。舗道を歩く紳士のパナマ帽、女学生の振るう日傘の色彩、そして新装なった煉瓦造りの建物から流れてくる蓄音機の音色。


 藤木健吾は、仕立ての良い鉄色のスリーピースに身を包み、隣を歩く久遠寺綾子の歩調に合わせ、ゆっくりと四丁目の交差点を進んでいた。


「……先生、見てくださいませ。あちらのショーウインドウ……なんて煌びやかなんでしょう」


 綾子が、レースの手袋をした指先で、百貨店の窓を指差した。


 今日の彼女は、健吾が選んだ、若草色の銘仙に白いレースのショールを羽織っている。清楚で控えめな装いながら、銀座の喧騒の中でも彼女の周囲だけは、清涼な水が流れているかのような透明感があった。


「ええ、確かに。ですが、綾子さん。あまりキョロキョロと視線を動かすと、情報の過剰摂取で脳が疲弊しますよ。……それに、ここは人混みが激しい。私の腕から離れないように」


 健吾は、努めて事務的な口調で言った。だが、その実、彼は周囲の男たちが綾子の美しさに目を奪われていることに、激しい不快感を覚えていた。

 医学的に言えば「保護本能」の表出。しかし、その本質が、もっとドロドロとした「独占欲」であることを、彼は認めようとしなかった。


(……それにしても、静かすぎる)


 健吾は、綾子の影を盗み見る。


「明日は銀座のパフェを献上しろ。さもなくば、お前の診療録に墨をぶちまけてやる」


昨夜、離れで豪語していた「宵闇」が、今のところ鳴りを潜めているのだ。


「……ふん。お前、さっきから私のことばかり気にしているな。……この銀座という場所は、実にお前の心音を乱すのに適している」


 不意に、綾子の唇から、あの艶やかな、湿り気を帯びた声が漏れた。


 一瞬だけ、彼女の瞳が紅蓮に揺らめく。宵闇だ。


「……宵闇か。今は綾子さんの意識が表に出ている時間だ。勝手に表層へ干渉するのは控えていただきたい」


「いいではないか。あの子は今、この煌びやかな景色に夢中だ。……それより藤木。あの看板を見ろ。……『資生堂』。あそこに、例の甘い蜜の最高傑作があるのだな?」


 宵闇は、綾子の体を借りて、健吾の袖をぐいと引っ張った。その仕草は、完全に甘味を欲しがる子供のそれであったが、彼女が放つ魔性の色香が、周囲の紳士たちを釘付けにする。


「……ああ、もう!じっとしていなさい!騒ぎになります!」


 健吾が宵闇の肩を抱き寄せ、足早に歩き出そうとした、その時だった。


「――おやおや。銀座のど真ん中で、えらく『上等な毒』を連れ歩いている先生様がいるねぇ」


 人混みを切り裂くように、独特の、紫煙の香りが漂ってきた。


 健吾が足を止め、振り返る。


 そこには、人混みの中で明らかに浮いている男が立っていた。


 着崩した黒い和服に、書生羽織を無造作に羽織り、口には銀の装飾が施された煙管を咥えている。前髪は少し長く、その隙間から覗く瞳は、すべてを嘲笑うような、不敵な光を湛えていた。


「……何者ですか、君は。……診察の予約なら、病院へ来なさい。ここは往診の場ではありません」


 健吾が冷たく突き放すと、男は煙をふぅ、と健吾の顔に向けて吐き出した。


「おっと、失礼。俺は土御門(つちみかど)土御門鏡介(つちみかどきょうすけ)だ。……医者先生。あんた、そのお嬢さんの後ろに憑いてる『真っ赤な影』が、見えてないわけじゃないんだろう?」


 健吾の心臓が、跳ね上がった。鏡介と名乗った男は、ニヤリと笑い、煙管の先で綾子の影を指した。


「普通の奴が見りゃ、ただの美人の箱入り娘だがな。……俺の目には、その影から『数百年分の怨嗟』と『極上の蜜』の匂いが混じって漂って見えるぜ。……あんた、それを知りながら、科学だの医学だので飼い慣らそうってのか? 傑作だね」


「……非科学的な妄言を。私は、彼女の主治医として……」


「医者様が、怪異にパフェを貢ぐのが、最新の医学なのかよ」


 鏡介が肩をすくめて笑った。健吾は絶句した。この男、今の宵闇との会話を「視て」いたのか。


 その時、健吾の隣で、宵闇がゆっくりと顔を上げた。紅蓮の瞳が、鏡介を射抜く。


「……ふん。鼻の利く小僧がいたものだ。……お前、陰陽師の末裔か。……土御門。なるほど、平安の世から続く、死者の影を弄ぶ一族か」


「へぇ、お目が高い。……宵闇の姐さん、かな? ……あんまりこの医者先生を弄んでやるなよ。理屈が服を着て歩いてるような男だ。……脳みそが沸騰して死んじまうぜ」


「私の勝手だ。……この男の脳を煮詰めて蜜にするのも、私の自由。……お前のような小僧に、口出しされる筋合いはない」


 宵闇は、健吾の腕に自らの腕を絡め、鏡介を威嚇するように胸を張った。その姿は、独占欲の強い猫のようであり、健吾は不覚にも、その仕草を可愛いと思ってしまった。


「……藤木。行こう。……こんな不潔な煙を吐き出す小僧より、私に『洋服』と『パフェ』を見せる方が、主治医としての責務だろう?」


 宵闇は健吾を促し、再び歩き始めた。背後で、鏡介の愉快そうな笑い声が響く。


「あぁ、せいぜい楽しめよ、先生!……だが、気をつけろ。銀座の虚飾は、時に『鏡』を狂わせる。……鏡の中にはな、あんたの理屈じゃ説明できない『美への怨念』が腐るほど詰まってるんだ」


 鏡介の言葉が、不吉な予言となって健吾の耳に残った。


 二人は、銀座の最高級ブティック「サロン・ド・リュミエール」の重厚な回転扉を潜った。外の喧騒が嘘のように消え、豪奢なシャンデリアと、香水の香りが満ちた空間。



 壁一面を覆う、巨大な三面鏡が、健吾と綾子――そしてその背後に潜む宵闇の姿を、無限の奥底まで映し出していた。


「……さあ、藤木。……私を、世界で一番『文明的』な怪物にして見せろ」


 宵闇は、鏡の中の自分を見つめ、不敵に、そしてどこか幼く微笑んだ。


 健吾は、これから始まる「ファッションショー」という名の戦いと、鏡介が残した不気味な予感に、冷たい汗を流しながらも、彼女をエスコートするために一歩を踏み出した。


 大正の光と影。

 理知的な医師と、魔性の乙女、そして不気味な陰陽師。三人の運命が、銀座の硝子迷宮の中で、複雑に絡み合い始めていた。

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