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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第三章 桔梗の微熱

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第十八話 解けない処方箋

 温室の外で雨音が止み、雲の切れ間から差し込む月光が、硝子屋根を透き通るような青に染め上げた。


 健吾の胸元で、宵闇の激しい熱がふっと和らぎ、彼女は満足げな溜息を一つつくと、そのまま意識を手放した。


「……綾子さん?」


 健吾が呼びかけると、そこには紅蓮の焔を消し、静かに寝息を立てる本来の「久遠寺綾子」がいた。


 健吾は、乱れた彼女の着物を整え、自分の上着で包むように抱き上げると、濡れた庭園を横切って離れへと戻った。


 ――そして、翌朝。


 健吾は、久遠寺邸の応接間で、当主である綾子の父と向き合っていた。本来であれば、昨夜の「密会」の責任を問われてもおかしくない状況だが、健吾の顔は、別の意味で真っ青だった。


「藤木先生。娘の容態が安定しているのは、偏に先生の献身的な往診のおかげです。……ところで、先生。今朝、娘が妙なことを申しておりましてな」


 当主が不思議そうに首を傾げる。


「昨夜、先生が『特別な滋養強壮剤』として、白い丸い食べ物を与えてくださった……と。それも、先生がわざわざ口まで運んでくださったと、娘が夢見心地で語るのです。……一体、どのような新薬を処方されたのですかな?」


「――ッ、ゲホッ、ゴホッ!!」


 健吾は、飲んでいた紅茶を激しく吹き出しそうになった。


 宵闇のやつ、記憶を共有しないはずの綾子の深層心理に、あの「あーん」の記憶をこびりつかせたのかと。


「い、いえ!それは……最新の、その、糖質による脳機能活性化療法の一環でして!け、決して、私的な感情が混じったものでは……!」


 健吾が必死に弁明していると、奥の部屋から、着替えを終えた綾子が顔を出した。彼女は健吾の姿を認めると、頬を林檎のように真っ赤に染め、俯きながら指先を弄ぶ。


「……先生。わたくし、目覚めましたら、なんだか無性に『あんみつ』が食べたくなりまして。……あの、また今夜も、往診に来てくださいますか?」


 その純粋無垢な瞳は、明らかに宵闇の影響を受けていた。健吾は頭を抱えた。あの魔性の乙女は、綾子という器を使って、健吾を公式な「甘味運び屋」に仕立て上げようとしているのだ。


 その時、綾子の影が、一瞬だけ健吾に向けて「あっかんべー」をするように揺れた気がした。


「……藤木先生?顔色が優れませんが、大丈夫ですか?」


「……大丈夫です。ただ、私の『理性』という名の処方箋が、一晩で紙屑に変わったことに気づいただけですから」


 健吾は諦めたように溜息をつき、往診鞄を手に取った。中にはすでに、帰りに寄るべき浅草の和菓子屋のリストが書き込まれている。


「綾子さん。今夜は……豆大福にしましょう。医学的に、非常に『粘り強い』精神力が養われますから」


「はい、先生! わたくし、楽しみにお待ちしておりますわ」


 清楚に微笑む綾子。その背後で、魔性の高笑いが聞こえたような気がして、健吾は足早に屋敷を後にした。

 大正の青空の下。

 エリート医師のプライドは、たった一粒の白玉と、魔性の乙女の気まぐれな可愛らしさの前に、完膚なきまでに敗北したのであった。

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