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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第三章 桔梗の微熱

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第十七話 夕立の温室、重なるロゴスとパトス

 往診の帰り道、帝都の空は急速にその色を、不吉な鈍色へと変えていった。


 久遠寺邸の広大な庭園を抜け、正門へ至る途中のことだ。突如として、天を割るような雷鳴とともに、銀の礫のような夕立が降り注いだ。


「――っ、綾子さん! こちらへ!」


 健吾は咄嗟に自分の上着を脱ぎ、見送りに外へ出ていた綾子の肩を覆った。二人は、庭園の隅にある、古びた鉄と硝子の「温室」へと逃げ込んだ。


 明治の頃に建てられたというその温室は、今は手入れも疎かで、蔦が這い、湿った土と腐りかけた花の芳香が、熱帯の夜のように立ち籠めている。


 硝子屋根を叩く雨音は、数千の指先が外界を拒絶するように激しく鳴り響いていた。


「……申し訳ありません、藤木先生。わたくしが、外までお見送りなどしたばかりに……」


 綾子は、濡れて透けた水色の着物を抑え、寒さに小さく肩を震わせていた。彼女の唇は、急激な冷えによって青ざめている。


「謝る必要はありません。今は、体温を奪われないことが先決です。……君の肺症に、この湿気と冷えは天敵ですから」


 健吾は、温室の隅にあった古びた椅子に綾子を座らせ、自分もその傍らに膝をついた。


 薄暗い温室の中。雨音に包まれた、二人きりの密室。健吾が彼女の濡れた手首を取り、脈を測ろうとした、その時だった。


 ――ドクン


 指先に伝わる拍動が、不自然なほどに跳ね上がった。


「……あ、……ぁ……」


 綾子の喉から、熱を帯びた吐息が漏れる。


 彼女の瞳から、清楚な光が急速に溶け落ち、奥底から紅蓮の焔がせり上がってきた。首筋を、黒い桔梗の影が蔦のように這い回る。


「……ふふ。酷い雨だな、藤木。……まるで、天が私に、お前を閉じ込める機会を与えてくれたかのようだ」


 宵闇の顕現。彼女は、健吾に貸されていた上着を無造作に床へ落とすと、濡れて肌に張り付いた着物のまま、猫のようなしなやかさで健吾の膝へ這い上がってきた。


「宵闇……! 駄目だ、今の君の身体は冷え切っている。まずは乾いた布で……」


「そんなものは要らぬ。……寒いのだ。お前の、その忌々しいほどに温かい、血の通った『生命』をよこせ」


 宵闇は、健吾の白衣の襟を掴み、力任せに自分へと引き寄せた。


 濡れた着物越しに、彼女の――綾子の――柔らかな曲線が健吾の胸板に押し付けられる。冷たい雨水と、宵闇から発せられる熱い桔梗の香りが混ざり合い、健吾の脳を麻痺させた。


「……お前、昨夜の蜜よりも、ずっと熱いぞ。……心臓の音が、まるで太鼓のように私の腹に響いている」


 宵闇は、健吾の胸に耳を当て、恍惚とした表情で瞳を閉じた。その姿は、おぞましい怪異などではなく、凍える雨の中で唯一の暖炉を見つけた、孤独な少女のようだった。


「……離れなさい。……私の理性(ロゴス)が、これ以上の近接を禁じています」


 健吾の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。だが、宵闇は離れるどころか、健吾の首筋に冷たい鼻先を擦り寄せ、クスクスと喉を鳴らして笑った。


「嘘をつけ。お前の身体は、こんなに私を求めているではないか。……ほら、お前の手だ。昨日、私の唇を拭ったその指先が、あの子の肌を、私の影を、撫でたくて疼いているのが分かるぞ」


 宵闇は健吾の右手を取り、自分の濡れた頬へと導いた。掌に触れる、ひんやりとした肌と、その奥で脈打つ魔性の熱。


 健吾は、指先が彼女の耳元、そして後れ毛をなぞるのを止められなかった。


「……君は、狡い人だ」


「狡くて結構。私は人間ではないのだからな。……藤木、お前のその『理知的な鎧』を、この雨で洗い流してしまえ。……そして、私だけに溺れればいい」


 宵闇は、誘うように上目遣いで健吾を見つめた。昨夜の「あんみつ」で見せた無邪気な可愛らしさは影を潜め、今はただ、雨音の静寂の中で、一人の男を闇へと引き摺り込む妖艶な魔性が、温室に満ちていた。


 健吾は、ゆっくりと顔を近づけた。硝子戸の外では、雨がさらに激しさを増し、世界を白く塗り潰していく。


 もはや、ここには「主治医」も「患者」も存在しなかった。


 ただ、互いの体温を唯一の真実として求める、二つの孤独な魂が、熱帯植物の影で重なろうとしていた。


「……お前の唇は、蜜よりも甘いか? 藤木……」


 宵闇の囁きが、健吾の唇をなぞる。


 理性の堤防が、音を立てて決壊した。

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