幕間1 オズワルドの忠誠
ギルバートの侍従、オズワルド視点の章になります。
「聞くなと言っている!」
主であるギルバートが激昂し、常にはあり得ない怒鳴り声を上げた。鋭い声音とは裏腹に、その青い瞳の奥が揺れる。それは、ギルバートが何か大切なもののために、己の本心を握り潰したときの顔だった。
(いったい、どうなさったんだ?)
オズワルドは、年下の主を見つめる。
横暴とは対極にある性質のギルバートが、何度もオズワルドの言葉を遮り、声を荒げる。
あれほど、手放したくないと言っていた女性との婚約を、解消してきたと言う。
「……オズ、仕分けが終わったならそれを貸せ」
無理やり感情を抑え込んだギルバートが、平静を装ってオズワルドに命じる。その様子が痛ましい。
ギルバートは誠実な主だ。だからこそ、言えないことは嘘をつくのではなく、黙り、隠してしまう。
(私は……俺は、いつになればこの方に恩を返せるんだ)
オズワルドは自分の無力さに、静かに歯噛みした。
◆ ◆ ◆
オズワルドがギルバートを知ったのは、九歳のときだった。
「お前より、三つも下か」
祖父がぽろりと呟きをこぼした。王宮から帰ってきて鞄を下ろし、待っていたオズワルドを見下ろしての呟きだった。
「何が?」
「第一王子殿下じゃ」
オズワルドの祖父、オリバーは知識が深く技術もあり、平民ながら貴族たちから信頼厚い王宮専属医だった。
「そうだったっけ? え、第二王子は?」
平民であるオズワルドにとって、王宮内のあれこれは遠い世界の話だった。祖父はほぼ毎日王宮に赴くが、そこで何が起きたかなどは絶対に家では口にしない。患者は王族や、王宮に勤める貴族ばかり。家族であっても、職務中のことを軽々しく話すようでは専属医は務まらない。
「第二王子殿下も第一王子殿下と同じお年であるが……いや、これ以上はやめじゃ。忘れてくれ、オズワルド」
だから、たったそれだけとはいえ、オリバーが家で王宮の話をしたことがオズワルドには意外だった。
「じいちゃん、鞄の中、整理しとくよ」
「おお、頼むぞ」
自分より三つ年下のふたりの王子。しかも祖父は、その片方だけを妙に気にかけているらしい。
王族に会ったことはないが、貴族はときどき見かける。豪奢な服を着て、護衛を引き連れ、高価な店に入っていく。場合によっては平民は道を譲ったり、多少の金と引き換えに便宜を図ったりしないといけない。当時のオズワルドにとって身分の高い人間とはそういう横柄な者たちで、あまり良い印象はなかった。
だからこそ、孫である自分よりも祖父の気を引いているであろう、年下の第一王子に興味が湧いた。
オズワルドは頭の回転が早く、既に近所でも「将来はお祖父さんの跡を継ぐんでしょう?」、「頑張れよ」などと期待されていた。祖父もそれを否定せず、簡単な道具の手入れや、基本的な薬品の補充などはオズワルドに任せてくれていた。
だから、驕りがあったのだろう。
(ちょっと見てやるか)
そんな軽い気持ちで、三日後、オズワルドは王宮に向かった。
「祖父が必要な薬を家に忘れたので、届けに来ました」
よく祖父を見送りに来ているオズワルドを見知っていた門番は、その言い分を疑わなかった。
「おーそりゃあご苦労さん」
直接祖父に薬を渡したい、と言うと、門番は祖父の居場所である医務局までの行き方を教えてくれた。
「ただ、第一王子殿下がまた寝込んでおられたらしいから、医務局にいらっしゃるかはわからないなあ。殿下の離宮に行っているかもな」
「その殿下の離宮って」
「あっちのほうにある建物なんだが、さすがにそっちは教えてやれんぞ。王族の居住区域なんだから」
やはり、簡単に王子に会うことはできないらしい。それは想定していたので、オズワルドは素直に頷いた。
祖父に見つかったとき、あと敷地内で誰かに見咎められたときのために、本当に薬瓶をいくつか入れた鞄を持ち直す。
「よし」
ここは通いの使用人や下働き、商人が使う平民用の通用門だ。小間使いや見習いも出入りするので子供であるオズワルドがうろついていても特別目立ちはしないが、本宮までは遠い。
「医務局は……あっちか」
王宮は広い。言われた通りの道をとりあえず進んでみる。すると運良く、部下らしき若い男といる白衣姿のオリバーを見つけた。
「――では、わしは殿下のご様子を拝見してくる。お前はこれの在庫を見て、足りんようなら調合をしておいてくれ」
「わかりました」
部下を見送り、ふう、と息を吐いて別方向に歩き出す祖父の後ろを、オズワルドはこっそり追いかけた。
本宮には入らず、ぐるりと回り込むように庭園を進む。足早に進んでいく祖父のあとを必死でついていく。
気がつけば、本宮の裏手に来ていた。王家の庭園とはいえ、華やかな草木が少ない。どこか寂しい雰囲気が漂っていることに気づく。
(なんか、変だな)
不意に気づく。王子ほど身分が高いなら、普通はもっと派手なところにいるのではないだろうか。確かに離宮とは言われたが、何故祖父はこんな裏手に進んでいくのだろう。
王子のところに行くんじゃないのか、と祖父を疑いそうになった頃。
「殿下! 起き上がってよろしいのですか」
生垣の角を曲がった祖父が慌てる声が耳に届き、オズワルドは素早く生垣の合間に身を潜めた。しゃがみこんで、そっと覗き込む。
二階建ての建物が見える。建物は王宮の中では小さめだが、玄関らしき扉のドアノッカーは竜の頭の形をしていて、王族専用の建物であることはわかった。
目的の離宮であろうこの建物の庭に、テーブルと椅子が二脚出ている。いずれも端のほうの塗装がわずかに剥がれており、整備が行き届いていないことが見て取れた。
その椅子の片方に、小さな黒髪の子供が座っているのが見えた。祖父はその子供に足早に近づいていく。
(あの子か)
「外のほうが落ち着くんだ」
子供はそう言いながら、膝に乗せていた妙に分厚い本のページをめくった。
「あまり、ご無理はなさいますな。まだ横になっておられたほうが」
「もうすぐ父からの試験があるんだ。あまり休んではいられない」
優しく諭す祖父に対し、子供の声は淡々としていた。生け垣の葉が邪魔で、オズワルドには第一王子であろうその子供の顔はよく見えなかった。しかし、衣服から覗く腕や脛は白く、細い。
また寝込んでいた、という門番の話からして、あまり体が丈夫ではないのだろうと思った。
(あ、だからここに隔離されてるのか)
ひとりで納得していたそのとき、本宮の方角から複数の足音が聞こえた。ぬっと現れたのは、豪奢な衣装を着た中年の男。その両脇には護衛なのか、騎士が控えている。
その男はオリバーを見て、嬉しそうな声を上げた。
「おお、オリバー。ちょうどよい、ここにおったか」
「陛下」
やって来た人物の姿を見るや、オリバーは素早くその場に膝をつき、頭を下げる。
隠れているオズワルドはどきりとした。現れた男の服に縫い取られている竜の紋章の意味を思い出す。
(へいか……って、まさか、国王陛下!?)
この国の最高権力者。オズワルドは見つからないよう、さらに身を小さくする。それでも、聞こえてくる会話に耳を澄ませ、見える光景に目を凝らした。
「陛下におかれましては、」
「挨拶はいらん。それよりこれを見よ」
国王ベルナールはオリバーの口上を遮り、茶色く透明な瓶をオリバーの目の前に突き出した。子供のオズワルドの片手に収まるような小さな瓶。それに、おそらく白色であろう粉末が詰まっている。オリバーの肩が揺れた。
「陛下。これは……」
「先日手に入れたグレイリコリスの根の粉末だ。神経を侵すものらしい。これに対する耐性をギルバートにつけさせよ」
ベルナールはオリバーにそう命じた。
「おそれながら、陛下。殿下はネムリグモの毒から回復なされたばかり。これ以上は……」
「回復したのだろう。ならば次だ。できぬとは言わせぬ」
有無を言わせない口調。しかし、言っていることの異常性は盗み聞きしているオズワルドにも理解できた。
(暗殺されたりっていうのを防ぐってことか? ……いや、でも)
祖父なら、そういった事情など百も承知だろう。
毒の耐性をつけるには、わざと毒を少量ずつ摂取して体を慣らす必要がある。ただ計算上では致死量に満たないはずの毒でも、体質や体調によってはどうなるかわからない。慎重に慎重を重ねるべき行為だ。
そして祖父は、身分に構わず国王を諫めようとしている。つまり、あの王子の痩せた体には負担が大きすぎるのだ。
(自分の子供相手に、そこまでするもんなのか?)
側妃が亡くなってから、国王はご乱心らしい。そんな噂話も相まって、オズワルドには国王が本当に狂っているように見えた。
「もう充分でございましょう。既に殿下は、」
「何が充分なものか! この世に毒物がどれだけあると思う? おぬしがやらんのなら、私が自分でこれをギルバートに投与する」
「おやめください、陛下はお子を殺すおつもりですか!」
積もりに積もった感情が爆発したかのようなオリバーの叫びには、悲痛さが滲んでいた。
「これまでどれほど殿下が苦しまれたか……!」
「ならばおぬしは、どこかの刺客が毒を盛り、ギルバートが死んだとしたら責任が取れるのか!?」
対して、ベルナールは充血した目で唾を飛ばす。やはり正気などなくなっているのではないかと、オズワルドの背に冷や汗が伝った。
「そのようなたらればを語ったところで何になりましょう! わしはそれ以前の話をしておるのです!」
「私に歯向かうつもりか!」
ベルナールの背後、少し離れていた位置に立つ騎士が、その言葉に反応して剣の柄に手をかけた。
(嘘、だろ?)
祖父は、王子の身を案じているだけだ。それなのに、こんな狂った命令をひとつ拒否しただけで、まさか祖父は罪人になるのか。
王宮専属医とはいえ、平民なのだ。国王の機嫌を損ねたら、あっさり殺される。
オズワルドに母はいない。オズワルドが物心つく前に出ていったらしい。父も、先日事故で死んだ。そんなオズワルドにとってオリバーは残された唯一の家族であり、尊敬する師匠でもあった。
「何度でも申し上げましょう。 殿下にはまだ養生が必要でございます。なにとぞ、ご容赦を」
その祖父が、平伏し頭を地につけながらも、頑として国王の命令を拒んでいる。
「オリバー、貴様……!」
地を這うような低い声で国王は呻いた。歯ぎしりさえしそうな勢いで、護衛を振り向く。
「いやだ……」
思わず声がこぼれ、オズワルドの体がかたかたと震えた。心臓がばくばくと鳴る。今すぐ祖父に駆け寄りたいのに、足が竦んで動けない。
そのとき。
「お待ちください、父上」
幼くも静かな声が割り込んだ。
「ぼくは構いません。……やってくれ、オリバー」
ずっと黙って座っていた少年が立ち上がって、そう言った。弾かれたようにオリバーは王子を見上げる。
「っ、殿下……!しかし、」
「耐性をつけるなら、あなた以外には任せたくない。だから、頼む」
そう言いながら、王子は国王の手から毒入りの瓶を自ら取り上げた。
「父上、この毒はどれだけ飲めば良いのですか?」
「うむ、待て。後で資料を届けさせる。ではオリバー、頼んだぞ」
これまでの怒りが嘘のように狂気的な様子を収め、満足そうに言ったベルナールは護衛を引き連れ、いともあっさりと去っていく。
(じいちゃん、助かったのか……?)
まだ心臓はうるさい。それでも、去っていく国王の後ろ姿に少しずつ落ち着いてくる。オズワルドは王子に視線を移し――目を離せなくなった。
王子が立ち上がったことで、さっきまで隠れていた顔が見えていた。しばらく前に亡くなったと公表された側妃の絵姿に似た、知的で整った面差し。ただ、無言で父親を見送る青い瞳は、子供らしい感情などなく冷めきっている。
(あんな目してんの、貧民街の孤児くらいだぞ)
王子なんだから贅沢な暮らしをしているのだろう、というオズワルドの思い込みはもはや木端微塵に砕け散っていた。希望を手に入れる方法さえ知らないような、荒んだ目。
その足元に、オリバーが両膝をつく。
「殿下、何故です!? こんな老いぼれを庇うなど……っ」
(かばう?)
祖父の言葉に、一拍遅れてオズワルドは王子の行動の意味に気がついた。
王子が自ら毒を飲むことを受け入れ、その処置を祖父に頼んだから。だから国王はオリバーの反抗を見逃してくれたのだと。
王子は、ゆっくりとオリバーに向き直った。冷えた瞳に、わずかに体温が戻ったように見えた。
「オリバー。ぼくは嘘は言っていない。あなたのおかげで、ぼくは今も生きている。だからこれを飲むのなら、あなたの力は必要だ」
「ですが、それでは殿下が……!」
「ぼくが構わないと言ったんだ。だから、もうこれ以上言わなくていい」
王子という身分に関わらずその場にしゃがんで、平伏すオリバーと目線を合わせる。
(本当に、俺より年下かよ……)
祖父がおののいていた理由も、今のオズワルドにはわかる。確かにオズワルドより小さな体。しかし滲み出るその覚悟は、とても六才だとは思えない。
(それに、じいちゃんは第二王子のことは言わなかった)
ならば、王子だから、が理由ではない。目の前にいるこの王子だけが異質なのだ。
(あいつが、ギルバート第一王子殿下)
祖父が、職務の枠を越えて案じる少年。王族のくせに、専属医とはいえ平民でしかない祖父を守ってくれた王子。
(いつか、俺もこの方に仕えるのか)
将来自分は祖父の後を継ぎ、王宮専属医になる。そのとき、自分の上に立つのはこの王子でいてほしい。自然とそう思った。
遠い将来だと思ったその“いつか”は、しかし別の形で、それも次の日にやってきた。
オズワルドが王宮に忍び込んだ翌日。王命で、オズワルドにギルバートの侍従になるよう通達があった。それも、王宮に住み込みで。身元が保証されていて、それなりに優秀で、ギルバートと年が近い。そういう理由だった。
「すまんな、オズワルド。わしのせいで……」
出仕が決まったことを伝えながら、祖父はそうオズワルドに詫びた。
祖父が国王に意見したことが放免とはならず、自分が人質のために召し上げられたのだとオズワルドが気づいたのは、それから数年経ってからだった。
そして、王宮に上がったオズワルドは知ることになる。
ギルバートが護衛もなく、使用人さえ最小限にしか置かれていない離宮でひとり暮らしているのは療養のための隔離などではなく、王妃からのただの嫌がらせであること。
父親である国王はそれを黙認し、それどころか頻繁に毒を持ち込み、厳しい剣の修行や勉学をギルバートに強いていること。
六歳でなくとも異常と言える環境下で生きながら、ギルバートは愚痴や文句を言うことは決してなかった。反抗することも、逃げ出そうとすることもなかった。そんなことをすれば、数少ない使用人や教師など、周囲の人間が罰を受けることになると知っていたからだ。
オズワルドは、日々を生き抜くギルバートを一番近くで見続けた。初めのうちはオズワルド自身もギルバートに何度も庇われた。
(じいちゃんだけじゃなく、俺まで……)
ずっとギルバートを見守っていただろうオリバーたちだけでなく、仕え始めて間もない自分にすら、ギルバートは手を差し伸べるのだ。
無力な自分が悔しかった。
だからオズワルドは努力した。ギルバートに劣らぬ知識を身につけ、言葉遣いを正し、体を鍛えた。
その頃には、既に憧れと恩義だけでは自分の感情を説明できなくなっていた。
◆ ◆ ◆
「お前ならどこに行こうとやっていけるだろうが、もし紹介状が必要なら早めに言ってくれ」
頬と手に怪我をして王妃のもとから戻ってきたギルバートは、オズワルドに王宮を出ると告げた。だからオズワルドは解雇になると。
それは、いくら敬愛する主の言葉でも、オズワルドには到底承服できるものではなかった。
(ふざけないで頂きたい)
あまりの有り得なさに、口に出さないのを良い事に胸の内で言葉を荒げる。
この主の下を去らねばならなくなる理由など、ひとつたりとも欲しくはない。
「紹介状など不要です」
オズワルドの返答をどう受け取ったのか、ギルバートはついと目を逸らした。
「……まあ、無能と謳われる私の名がどこまで通じるかはわからない。紹介状など、ないほうが良いかもしれないな」
ギルバートはそう嘯いた。そして礼を述べながら、臣下であるオズワルドに対して頭を深く下げる。本当にひとりで出ていくつもりなのだと、直感的に理解した。
オズワルドは迷わなかった。迷うことを思いつきもしなかった。
(あなた様がそうなさるのなら)
答えは、決まっている。
「それでは殿下、私は今後、自由にしてよいということでよろしいですか?」
「そうだ」
主の肯定に、内心ほくそ笑む。オズワルドの真意を知れば、ギルバートは怒るだろうか。それでも一度口にした以上、ギルバートが今後言葉を翻すことはない。
ギルバートの意図はどうあれ、これでオズワルドがギルバートの命令を聞く必要はなくなった。
(まずは)
その権利を持って、オズワルドは跪いた。絶対的な忠誠を主に捧げる。
「私の主は一生涯、ギルバート・ウィリア様ただおひとりでございます」
オズワルドの言葉に、ギルバートが息を呑んだ気配がした。跪くオズワルドにその表情は見えないが、聡明な主は、オズワルドの言葉の意味を正確に理解したに違いない。
ギルバートが、本気か、と呟く。けれどそれは、オズワルドを疑っているものではない。
「っ、しかしオズ、私は……。私はお前に、何も返せない」
(いつもの殿下ならば、おそらく)
オズワルドは主の様子を窺いながら思考を続ける。
『何を企んで……いや、いい。私が先に言ったことだ。好きにしろ』
そう呆れるか、あるいは。
『私が言ったのはそういう意味ではない。お前ともあろう者が、勝手な解釈をするな』
そう叱るかだっただろう。
(どちらかといえば、前者だろうか)
しかし今のギルバートは戸惑ったままだ。呆れることも叱ることもしない、いや、できないでいる。ある程度予測はしていたが、そんな余裕もないのかと焦燥がオズワルドの中で燻った。
その代わりのようにギルバートが溢したのは、『返せない』という言葉。かすかに震えたその声に、ギルバートが自分の価値をどれだけ低く見積もっているのか察せられる。
(こんな時くらい、ご遠慮なさらずともよろしいのに)
オズワルドは、自分の口元に苦い笑みを浮かべた。
主に聞かせる必要はない。けれど、あえて小さく呟く。
「あなた様は、恩人でいらっしゃいますので」
返さねばならないのは、こちらのほうだ。いや、もし返しきれたとしても、この立場を降りるつもりはない。
恩義だけで、オズワルドはここまでしない。
師でもある祖父の命を救ってもらった。貴族の身分となり年を経るごとに、あの時のギルバートの行動が貴族としてどれだけ異質なものだったか理解した。
「オズ? 何と言った?」
ギルバートが、オズワルドに合わせて膝をついた。ギルバートが当然のように行う動作に、オズワルドの胸は震える。
(ああ、これだ)
目下の人間を人として対等に扱い尊重する、そんなことが自然にできる王族が、貴族が……いや、人物が、いったい何人いることだろう。
そんな主に仕え続ける。これ以上の誉れがあるだろうか。
『自由にしてよい』と権利は得た。ならば、その権利を存分に振るうまでだ。
「殿下、王宮を出られたところで、庶民の暮らし方などご存じないでしょう」
わざとらしく話題を変える。ギルバートは虚を突かれたように数度瞬いて、オズワルドが言うつもりがないことを察したか、それ以上問い詰めることなく素直に話題に乗った。
長年仕え続けたおかげか。オズワルドは、ギルバートの多少の隠し事なら見抜けるようになっていた。今日だけでなく、普段から王妃に暴力を振るわれていることなどとっくに知っている。これ以上隠し事が得意になってほしくないから、気づかないふりをしているだけだ。
だから、ギルバートがどれだけディアナを深く愛しているのかも、オズワルドは本人以上にわかっていたつもりだった。
「それとは性質が違います。商会などを――」
庶民の暮らしぶりを語りながら、オズワルドは昨日までの主の様子を思い返す。
ディアナと会う日は、ほんの少しうわの空になり、その表情が優しく緩む。
ディアナからの贈り物があれば、ずっと眺めるか、肌身はなさず持ち歩く。
ディアナへの贈り物は、どんなに忙しかろうと自分で選び、手配する。
そしてディアナの身を守るために自身の名誉すら捨て、成人して婚姻が認められる日を指折り数えるようにして待っていた。
そんな主の姿を。
「なるほどな」
ふとギルバートが立ち上がる。今朝のお茶会の終了時以後ずっと張り詰めていた表情は、ほんの少しだが和らいでいた。オズワルドは跪いたまま主を見上げ、ギルバートの気を多少なりとも紛らわせたことに胸を撫で下ろす。
(やはり、あなた様はわかりやすい。だから)
それだけに、今回のギルバートの行動の意図がわからないのだ。ギルバートの頬にできた痣が、オズワルドの目を引く。
(王妃殿下にいったい何を言われたのか……いや、)
王族であるギルバートが怪我を負った以上、普段より暴力は激しかったのだろう。しかし順番が違う。婚約解消のほうが先だった。
ならば、理由は他にある。
この主が、ここまで思い詰めてしまった理由が。
『私は、お前にそうするよう命じたか?』
かつて、たった一度だけ。ギルバートから本気の叱責を受けたことがある。そのときの主の怒りを思い出すたび、正直今でも生きた心地はしない。
しかし、もうあの頃のように未熟ではない。
「ご英断です」
表向きは軽く頭を下げながら。
(必ず、お救いいたします――お命だけでなく、そのお心も)
自ら選んだ主に向けて。オズワルドは、己の胸に刻むようにそう誓った。
今後は2~3日に一度の更新頻度になりそうです。




