言えない言葉
ここから第2章です。第2章はヒロイン回になります。
その日の朝、目を覚ましたディアナは、見慣れているはずの天井にほっと息をついた。
(……不思議ね。毎日見ているのに)
起きたばかりで、まだ少し頭がぼんやりしている。何か長い夢を見ていたのかもしれない。
どんな夢だったかしら、と思い出そうとして、反射的に体がふるりと震えた。
「……っ」
寒さにさらされたような震えだった。思い出したくないと、体が拒んだようだった。
「きっと……とても、怖ろしい夢だったのね」
自室の天井を見て安心したくらいなのだから、そうなのだろう。独りごちたところで、ちょうど部屋の扉がノックされた。
「おはようございます、お嬢様。マリアです」
「お入りなさい」
腹心の侍女であるマリアの声。寝台から身を起こしつつディアナが応じると、マリアが部屋に入ってきた。
「おはよう、マリア」
「えっ、お嬢様!? どうなさいました!?」
「え?」
顔を合わせるなり悲鳴のごとく叫ぶマリアに、ディアナは怪訝な声をあげる。瞬きをした拍子に、目尻から頬に水滴が一粒転がり落ちた。
「あら……?」
そっと頬に触れる。濡れていた。
「目が真っ赤です。すぐに冷やすものを!」
マリアがぱっと身を翻し、入ってきたばかりの扉から部屋を出ていく。
(わたくし、泣いていたの……?)
目を閉じまぶたに触れると腫れぼったくなっているのがわかった。マリアが悲鳴をあげるはずだ。
寝台で身を起こした状態のまま、呆然とマリアを待つ。
マリアはすぐに戻ってきた。
「冷やしたら腫れが少しでも治まるかもしれませんから」
そう言って、冷水で絞ったタオルをあててくれる。
「それに、今日は第一王子殿下とお茶会でしょう? あの方は心配性でいらっしゃいますし」
そう言われて、今日は久しぶりにギルバートと過ごす時間があるのだと思い出す。延期の連絡がない以上は予定通りのはずだ。回数こそ取れないものの、ギルバートが一度決めたディアナとの予定を覆すことは、まずない。
「……そうね」
ギルバートは幼い頃に目の前で母親を亡くしたからか、身近な者に甘い。婚約者であるディアナはことのほか大切にされていると、ディアナ自身も感じている。
十三歳になる年だったか。ディアナは王子妃教育の最中に倒れたことがある。王宮の客室で目が覚めたとき、寝台の傍らにはギルバートがいた。
『頼むから、二度と無理はしないでほしい。何かあったら私に言うんだ』
ディアナが目覚めたことにほっと息を吐いて、静かに寝台の傍らに膝をついたギルバートは懇願するようにそう言った。
『ギルバート様……? 何か、あったのですか?』
ディアナの問いにギルバートははっとして、それから急いで首を横に振った。
『何でもない。……何でもないんだ』
あのときのひどく思い詰めたギルバートの顔を、ディアナは今でも覚えている。
「これくらいで心配をおかけするわけには、いかないわね」
もしこんな泣き腫らしたような顔で会えば、あの青い瞳はあの日のように陰るだろう。きっと、「何があった」と尋ねてくる。そしてその優しい声とは裏腹に、彼が納得できるまで引き下がらないに違いない。
優しくて、穏やかで、信念は曲げない。誰よりも高潔な人なのにどこか脆い、自分の価値をわかっていない人。
「ギル様……」
ぽつりと呟くと、マリアがはしゃいだ声をあげた。
「まあ! ようやく愛称でお呼びになるんですね! 仲睦まじいご様子で、マリアも嬉しいです」
ディアナよりふたつ年下のマリアはよく仕えてくれているが、年相応の娘らしく恋愛物語が大好きだ。以前から、「おふたりは婚約者同士でいらっしゃるんですから、もっと甘い雰囲気になっていいんですよ!」とよく発破をかけてくる。
「あと一年ですものね、ご成人して、ご結婚の日取りが決まるまで!」
マリアの明るい声に、ディアナははっとする。
(わたくし、今どうして)
ギルバートを愛称で呼んだことなど、まだないはずだった。
「お嬢様? どうかなさいました?」
ディアナが黙り込んだことに気づき、マリアが顔を覗き込んでくる。
「いいえ……なんでもないわ」
ディアナは笑みを返した。
「今日もお願いね、マリア」
不安になるのは、きっと怖い夢を見たからだ。今はもう何も思い出せない夢だけど。
(ギルバート様にお会いすれば、きっと)
この恐怖は消えてくれる。
そう、思っていたのに。
◆ ◆ ◆
いつもどおりの、和やかなお茶会だった。
「婚約を、解消しよう」
ギルバートが、唐突にそう言い出すまでは。
「え……?」
かけらも予想していなかったことに、ディアナの思考が止まった。
「ギルバート様。それは、いったいどういう、」
そう疑問を返すのが精一杯だった。
「私たちはお互い、他の異性をろくに知らない。私とディアナの相性が本当に良いものなのかも、わからない」
ギルバートはらしくなくも、ディアナにはよくわからない理屈を返してくる。王族と貴族が絡む政略結婚に、個人的な相性など考慮されないのは当然だ。
「わたくしたちの婚約は、その、陛下のご希望だったのでは……?」
それなのに、ベルナールの名を出しても、ギルバートは「今さら気にしないでいい」などと言う。ベルナール――ギルバートの父である国王が亡くなったのはもう五年も前だ。気にしないでいいという話そのものが“今さら”で、不自然だった。
(どうして?)
ギルバートが婚約のような重大ごとを、こんな中途半端な理由で決めるとは思えない。
許されるなら、婚約解消などせずこのままギルバートに嫁ぎたい。許されるなら、この人の隣でずっとこの人を支えていたい。
「あなたには自由になってほしい。だから……婚約の、解消を」
けれどギルバートは、もう一度ディアナに婚約の解消を促した。何かを読み上げるかのような、感情の読めない淡々とした声で。
このまま婚約解消なんてしたくない。
『本当の理由をお話しください』
ディアナはそう言うつもりで口を開いた。
「それが……ギルバート様の、お望みなら」
それなのに。
気がついた時には、自分の口は既に空っぽの言葉を落としていた。己の声に、ディアナは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
(今……わたくしは、何を言ってしまったの?)
呆然としたまま、ギルバートを見る。ギルバートは、ディアナの答えにわずかに目を見張って――その目を、そのまま伏せた。
(ギルバート様)
自分の無意識の答えは、ギルバートを傷つけた。ディアナにはそう見えた。
(どうして……? 何が起きたの?)
ギルバートが婚約解消を言い出したのに。そして、ディアナはそんなことを言うつもりはなかったのに。
そんな顔を見たかったわけじゃない。
「ギル、」
「あなたに非は一切ない。公爵と義母には、私からそう伝える」
混乱する中でもかろうじて出せたディアナの声は、ギルバートの発した、いっそ冷ややかと言っていいほどの暗い声で塗りつぶされた。
ディアナが口を開きかけたことに気づかず、話は終わったとばかりにギルバートは立ち上がる。無言で背を向けるギルバートを追うように、ディアナも立ち上がった。
(行かないで!)
そう言って引き止めたい。はしたないと思われようと、その腕に縋りついて訴えたい。それなのに、それ以上喉も手も動かない。
自分の中に別の人間がいて、体の動かし方を乗っ取られたようだった。
そんなディアナに。
「今までありがとう――ディー」
小さな、空耳かと思ってしまうほど小さな声が届いた。その人には初めて呼ばれるはずの愛称に、ディアナの胸がどきりと高鳴る。
その声に導かれるように、一歩だけ、足が前に出た。息を吸って、口を開いた。
「……っ」
ギルバートを呼ぶ。それだけが、何故かどうしてもできないまま。
ディアナはギルバートの背中を見送った。
その帰りの馬車。
「どういうことですか、お嬢様!? 婚約を解消だなんて……!」
いつもより早く終わったお茶会を不審に思ったマリアに問われるまま、ディアナはギルバートとのやりとりを打ち明けた。驚愕の叫びを上げるマリアに、首を横に振る。
「わからないわ……」
マリアと話すうち、ぐちゃぐちゃだった心は少しずつ落ち着いてくる。
「でも、ギルバート様からのお申し出だもの」
あの時ギルバートが傷ついたように見えたのは、婚約を解消したくなかった自分がそう思い込んだだけなのかもしれない。
「それは、王子殿下からそう言われたら……お嬢様は反対なされなかったでしょうけど」
マリアはそう言って、ディアナが婚約解消を受け入れてしまった理由をくれる。
「いいえ。……あの方が仰るのだから、本当はこれで良いはずなのよ」
納得できない自分がおかしいのだ。
ディアナの胸中を知ってか知らずか、急にマリアはギルバートに矛先を向けた。
「いいえ、お言葉ですけど殿下が有り得ないんですよ! だって殿下はいらしたとき、あんなにもお嬢様に見惚れていらっしゃったのに!」
そうだっただろうか、と思う。確かに、名を呼んだのに返事もなかったのは珍しかった。エスコートの際に椅子の音を立ててしまったことも。
「寝不足だ、とはダリエ卿がおっしゃっていたけれど」
今思えば違う気がする。ひたとこちらを見つめる青い瞳は、何か激しい感情を押し殺していたようだった。
その時から婚約を解消することを、ギルバートは決めていたのだろうか。
(きっと、そうよね……)
あの人がただの思いつきで動くはずはないのだから。
それなら、彼はいつ婚約の解消を決めたのか。
(それだけ、わたくしはギルバート様に我慢させていた……そういうこと、よね)
何も気づかなかった。
ならば、やはり婚約解消を受け入れたのは、正しかったのだ。
「そうですよ! ですから殿下はきっと寝ぼけていただけですって! そのうち頭を下げにいらっしゃいますよ!」
それなのにマリアがそんな言いぐさでギルバートを評するものだから、ディアナは思わずふふっと笑いを溢した。
「マリア。寝ぼけていた、なんて不敬よ」
「それじゃあ、マリッジブルーです! お嬢様のお美しさに、却って不安になっちゃったんですよ! そうでもなきゃ、あの殿下がお嬢様と別れるだなんて……っ!」
「マリアったら……」
マリアを窘めながら、けれどディアナは“別れる”という単語が胸に深く刺さるのを感じた。
この婚約は、亡き国王からの命令だった。そもそも貴族の婚姻は家同士の問題。その意識が強かったから、婚約解消という言葉にはぴんと来なかったけれど。
「ああ……、わたくし、ふられたのね。ギルバート様に」
だからこんなに悲しいのだと、ようやく頭が感情に追いついた。
「っ、申し訳ありません、お嬢様。そんなつもりじゃ、」
笑っていたディアナの声が震えたことに気づき、マリアはさっとハンカチを取り出した。
(……やっぱり、わざとだったのね)
マリアはディアナを慰めようと、わざとギルバートを冗談めかして悪く言ったのだ。そんな優しい侍女に、ディアナは思わずすがりつく。
「ねえマリア……」
一度自分の気持ちに気がついたら、もう止められなかった。視界が滲み、頬に涙が滑る。
「わたくし、あの方をお慕いしていたの。きっと、ずっと前から……」
隣にいられなくなってから気づくなんて、なんと愚かなのか。
「お嬢様……」
久しぶりに会えることが嬉しかった。今朝の悪夢の余韻も、ギルバートに会ったら消えると信じていた。そんな甘えがいけなかったのか。
それとも、もう内容も覚えていないあの夢は、こうなることを暗示していたのだろうか。
『婚約を、解消しよう』
あんな突き放すような口調。あんな声音でギルバートがディアナに話すのは、覚えている限り初めてだった。
「お支えしたかった。おそばにいたかった! どんなことがあっても! それなのに……!」
どうして承諾してしまったのだろう。どうして呼び止めることができなかったのだろう。
ぽろぽろと涙が溢れる。こんなに声を上げて泣き叫ぶなんて、幼い頃以来だった。マリアがそっとディアナの背中をさすってくれている。ひく、ひく、と幼子のように震える喉は、これ以上言葉を紡げない。
(どうして、わたくしの名を口にされたの?)
ディー、と。去り際に聞こえたかすかな囁き。
あの呼び声に今からでも応えたいのに、何故か自分にはその資格がないように思えて。
(どうして、わたくしは……!)
胸が押し潰されたように、ただただ苦しかった。




