悲しみと無力さと
その夜、ディアナの父であるエンフィールド公爵、ゲオルグの普段より早い帰宅が知らされた。まさか、と思っていると、案の定呼び出される。ディアナは重たい気持ちのまま、父親の部屋に向かった。
「失礼いたします」
執務室には執事や他の使用人の姿はなく、ゲオルグがひとりで立っていた。ディアナと似た紫の、しかしディアナとは違う冷たい光を浮かべた瞳が睨むように娘を見る。
「お前の婚約は解消になった。……その顔は、既に知っていたか」
父の言葉に、ディアナは婚約解消が正式に受理されたことを察した。
『あなたに非は一切ない。公爵と義母には、私からそう伝える』
ギルバートはあのお茶会の後、その言葉通りにジャネットとゲオルグに婚約解消を伝えたのだろう。その迅速な行動をギルバートらしいと思う反面、ギルバートに婚約への未練なんてなかったのだと、ディアナの胸は悲しみに冷えていく。
「……午前のお茶会で、ギルバート殿下から直接お話を頂きました」
ゲオルグは体面を大事にしている。それを知るディアナは悲しみに蓋をして、父に向けて頭を下げた。
「婚約を解消となり、申し訳ありません」
第二王子であるセドリックに婚約者がいないため、まだ同世代に未婚約の者は多い。それでも、成人まであと一年というこの時期に婚約を解消すれば、貴族内では傷物扱いされる。
「いや、それは構わん」
「え……?」
父はさぞかし怒るだろう、そう思っていたディアナの予想は外れた。ゲオルグは苛立たし気にどかりと椅子に腰を下ろす。あらかじめ執事に用意させていたのか、卓上のゴブレットにワインを注ぐ。
「あのような無能王子など、こちらから願い下げだ。亡き陛下が是非にと仰ったから婚約を結ばせたが……陛下があれほどにまで早く崩御なされるとはな」
頭を上げられないまま、ディアナは体を固くした。
ギルバートは、王家がエンフィールド家に無理に婚約を持ちかけたように思っていたようだが、実際はそうでもない。
父の言葉が、その証拠だ。
ベルナール王が存命の頃、ベルナールの寵愛深いリリアナの子であるギルバートが次期国王になるのではという噂があった。次期王妃の実家として今以上の権力を手に入れる。ゲオルグはそのためだけにディアナをギルバートと婚約させた。
ぐび、とゲオルグがワインを呷る。
「自分の未熟、などとほざきおって。その上あのような無様を晒して、王族としての自覚がないにもほどがある」
しかし今のギルバートが国王になることはほぼ絶望的だ。国王ベルナールは王太子を決める前に亡くなった。それ以降は王妃ジャネットの実子セドリックが王位を継ぐと目されるのは当然の流れだった。
「お父様……」
父が延々垂れ流す愚痴を聞いて、ディアナは気づいた。
ゲオルグは、母親の実家の爵位が低いギルバートをずっと見下していた。ゲオルグが怒りを向けているのは“娘の婚約解消”ではない。
ギルバートから申し出があるまでこの婚約に甘んじなければならなかった現実だ。
「婚約解消にあたり、お前に非はないと言質は取れている。向こうの全面的な有責だ。ふん、“無能王子”のわりには気が利くわ」
「お父様!」
無能、無能と。何度もギルバートを詰る言葉を聞きたくなくて、ディアナは顔を上げて思わず口を挟む。
「第一王子殿下に対して何を仰るのです!?」
「功績もない、学院の成績も下、極めつけに後ろ盾となってやっていた公爵家の娘を捨てると言うのだ、無能以外何と呼べと言うのだ!」
しかし、ゲオルグはディアナ以上の勢いで言い返した。
「お前が婚約者となり我が公爵家の派閥がついていてなお、運が良ければ王冠に手が届くかもしれぬ、という程度の体たらくぶりだ。評価すべきところなど何ひとつとして無い!」
「ですが、ギルバート殿下は民の声をしっかり聞くお方です。以前同行させていただいた視察先でも、」
「それがどうした!? 平民がひとりふたり付き従おうと国は動かせん。王族がその程度で満足してどうする!?」
「ひとりふたりどころではございません!」
『国を支えているのは貴族ではない。平民なんだ』
ギルバートはよくそう言った。貴族よりもずっと数が多く、税を支払う平民がいてくれるから国は成り立っているのだと。そのためギルバートは丁寧に平民に接し、彼らの生活に心を配っていた。
平民は、自らの命や生活を左右する力をもつ貴族や王族を厳しく評価しがちだ。そんな彼らから心からの支持を得る。それを自然とやり遂げてしまうギルバートが無能であるはずがない。
実際、ギルバートが視察し平民たちと交流を持った後、その地区や領地からの税収は徐々に上向く傾向にある。それを、ディアナは王子妃教育で見た資料で知っている。
むしろ、王宮に勤める父がこれほどまでに何も知らないことに愕然とした。
「ギルバート様は、」
「いい加減にしろ!」
公爵はディアナの話に聞く耳すら持たず、ゴブレットのワインを飲み干し、叩きつけるように置く。がん、という乱暴な音に、ディアナは身を竦ませた。
「ディアナ。お前は我がエンフィールド公爵家の娘だ。自分を捨てた男にいつまでも縋りつくような真似をするな!」
みっともない、とゲオルグは吐き捨てた。
ゲオルグは深く溜息を吐いて、気を取り直すようにもう一度ゴブレットにワインを注いだ。
「もう第一王子のことはどうでもいい。それよりディアナ。本題だ」
ゴブレットを掲げる。これまでと打って変わって、喜色を滲ませてゲオルグは続けた。
「お前は、セドリック第二王子殿下の婚約者となる」
ディアナは、耳を疑った。一度婚約を解消した娘を、王族の妃候補に再度選ぶなど。
「っ、お父様……!?」
「王妃殿下のご恩情だ。王子妃教育を始めとするお前のこれまでの努力を無にするのは忍びないと。お前さえ良ければセドリック殿下を添わせたいとの仰せだ」
思ってもいなかった話に、ディアナの言葉が詰まる。けれど、だから父は婚約解消自体に不満はなかったのかと納得もできた。
ゲオルグはもう王妃からの提案を受け入れる気でいる。ディアナ本人の意志は何も聞かずに。
「セドリック殿下は素晴らしい方だ。いくつもの領地で税収の向上を成し遂げられた。それに、今回イザーク侯爵領の奇病の原因も突き止められたそうだな。他にも枚挙に暇がない。……あの無能とは、やはり違う」
イザーク侯爵領。ディアナはその地名に、はっとする。
(それは、まさか)
ディアナはいずれ王子妃になる身として、日頃から国内外の情報をできる限り把握するよう教わってきた。新聞を読み、お茶会で噂を聞き、学院と王宮の二ヵ所で教師たちから情勢を聞く。
いつ気がついたのかはディアナ自身ももう覚えていない。それでも、各地に起きた問題事が解決する前は、ギルバートが王宮を不在にしていることが多いことを知るのにそう時間はかからなかった。
だから今日も、イザーク侯爵領の地名を口にしてから尋ねたのだ。
『大丈夫でしたか?』
と。
ギルバートの返答は、
『何人かは重篤な症状が出たが、今は快方に向かっている。もう心配は要らないだろう』
だった。
あの言い方は、実際に現地に赴いていたから出てきたものではないのか。
それなのに、セドリックが奇病の原因を突き止めたことになっている。
「お父様、イザーク侯爵領の奇病は、」
ディアナは、悔しさに体が震えるのを感じた。
ギルバートとは血の繋がらない王妃が国政を担う今、彼が複雑な立場にいるだろうことは察していた。だから、自分には詳しく話せないのだろうと思っていた。せめて会う時には楽しく過ごしていただこうと、こちらからも深くは尋ねずにいた。
でもまさか、これほどにまで彼の功績が歪められていたなんて。
「話は終わりだ」
しかしゲオルグは話を打ち切る。
「いいな、くれぐれもセドリック第二王子殿下のお心を無下にするようなことはするな」
もう興味を失ったように、ディアナに部屋を出るよう命じた。
どこまでも相容れない父親に、とっくに止まったはずの涙がじわりと滲む。
それでも、これ以上家長に逆らうことはできない。ディアナは唇を噛み締めて無言で再度頭を下げ、父親の執務室を後にした。




