積み重なる喪失
初めて評価ポイントが入っていることに気づき、作者は狂喜乱舞しております。
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「姉さま……」
失意のまま自室に戻ろうとしたところで、遠慮がちにディアナを呼ぶ声がした。
「アレックス」
広い廊下の端に所在無さげに立ち尽くす弟に気づき、ディアナは足早に近づいた。
「どうしたの? もう寝る時間でしょう」
アレックスはまだ八歳。産まれてすぐ母を亡くし、ディアナが母代わりになり育ててきた。
「ギルバート義兄さまは、もういらっしゃらないのですか?」
幼いがゆえのまっすぐな問いに、ディアナは答えに詰まった。婚約解消の件を、邸の誰かにでも聞いたのか。アレックスは時折この公爵邸を訪れるギルバートに懐いていた。まだ正式に婚姻をしたわけでもないのに、いつの間にかギルバートを義兄と呼び慕う程度には。
『義兄さま、剣術を教えてください!』
『それは……。アレックス、きみは次の公爵だろう。私の剣は騎士のような綺麗な剣術ではない。もっときちんとした者から習うほうが、』
『義兄さまがいいです!』
『アレックス、我儘を言わないで。……申し訳ありません、ギルバート様』
『だって姉さま、義兄さまはいつでも姉さまを守ってくれるのでしょう? だから、僕も強くなるんです! いいでしょう、義兄さま?』
『……そこまで言うのなら。ディアナ、練習用の木剣はあるだろうか』
最初は、戸惑っていたようだった。それでもアレックスの熱意に負け、庭の一画で打ち合いをし、手本を示すギルバートの姿を思い出す。真剣ながら、次第に楽しそうにきらめいていく青い瞳。
『ここで右足に体重をかける。……そうだ。そうすると剣を振るときに速度が出る』
筋が良いな、とアレックスを褒めていたギルバートの微笑みが、今も瞼の裏に焼きついている。
綺麗な剣術ではない、と卑下していた。しかし、振り抜かれる剣先は迷いなく、動きは速く力強い。どんな状況下でも生き残るために最適化されたような剣舞は、ずっと見ていたいほど美しかった。
「次も一緒に剣の稽古をしようって、義兄さまが言ってくださったんです。勉強も見てくださるって」
期待に縋るように、けれど不安を隠せないように言う弟を、ディアナはそっと抱き寄せた。温かな子供の体温に、自分の体が冷えていたことがわかった。
「アレックス。もう、あの方を“義兄さま”とお呼びしてはだめよ」
アレックスは賢い子だ。ディアナの言い方が、先の自分の問いの答えだと、すぐに察した。
「どうしてですか。じゃあ、義兄さまは約束を、」
「違うわ。あの方が約束を破りたかったはずはないでしょう?」
ディアナは、弟をより強く抱き締めた。
「きっと姉さまが……わたくしが、悪かったのよ」
ギルバートを支えたいとずっと思ってきた。けれど、先ほどの父との会話を通じてわかった。
(わたくしは、何ひとつあの方のお力にはなれていなかった)
彼をよく知る立場にありながら、何もできなかった。
(だから、ギルバート様はわたくしを不要と思われたのかしら。……それなのに、わたくしに非はない、だなんて)
どうして、最後まで優しいのか。ギルバートにそんな嘘を吐かせたことが心苦しい。あの人は、嘘なんて苦手なのに。
「そんなはずないです!」
アレックスが小さな手で、それでもディアナを包み込もうと懸命に腕を伸ばして抱き返す。
「義兄さまは姉さまと一緒のとき、ずっと楽しそうでした!」
姉さまは絶対に悪くないです、とアレックスは力強く訴えた。
「そう、なの?」
アレックスの言葉が信じられなくて、ディアナはそう問い返した。
「義兄さまは、いつも眩しそうな顔で姉さまを見てたんです。どうしてって僕が聞いたら、『君の姉君が素晴らしい人だから』って、そう仰ってました」
本当だろうか。けれど、子供のアレックスがそんな嘘をすらすら吐けるはずはない。
「……もしそうなら、嬉しいわ。ありがとう、アレックス」
そうならいい。少しでも、ギルバートを支えることが出来ていたなら。安らぐ時間を与えることが出来ていたなら。弟の言葉に、ディアナの胸のつかえがほんの少し取れる。一方で、こんな幼い弟に気遣われる自分が情けなくなってくる。
(前を向かなくちゃ……少しでも)
「でも、」
アレックスの語気が急に弱くなった。ディアナの背に回されたアレックスの腕に、きゅっと力が入った。
「それじゃあ義兄さまは、なんで約束を破るんですか……!?」
そう訴えた弟を、ディアナはその背を撫でながら宥めた。
「剣の稽古も勉強も、あの方でなくても良いでしょう? 家庭教師の先生がただって来てくださっているのだから」
ギルバートの代わりなど誰にも務まらない。
(わたくしだってそうなのに)
卑怯な言い方をしている。その自覚はあった。まっすぐに感情を吐き出せる弟が羨ましかった。
それでも、婚約を解消した以上、もうギルバートが個人的に公爵家を訪れることはない。従って、アレックスと遊ぶこともないのだ。
幼いとはいえ、アレックスは公爵家の長男として、これらのことを弁えなければならない。
「違います! 約束はそれじゃありません!」
「アレックス?」
それでもギルバートでなければ嫌、とは言うだろうと考えていたディアナは、予想と異なる反応に戸惑った。抱き締めていた腕を解き、弟の顔を見る。
「あなた……あの方と何をお約束したの?」
「言いません」
「まあ」
「秘密だって約束なんです、義兄さまが約束を破っても、僕は守ります!」
ディアナは頑なにそう言うアレックスの頭に手を置いて、何度もゆっくり撫でた。
「わかったわ。あなたがそこまで言うのなら、もう聞かない。だからもう怒らないで。姉さまにそろそろ笑顔を見せてちょうだい」
「ぅ……、はい……」
まだ不機嫌な様子は隠せていないが、それでもアレックスは姉の願いに頷いた。
「それから、“義兄さま”も禁止。……いいわね?」
ディアナが重ねて言うと、アレックスは唇を尖らせながらも、もう一度頷いた。
最後に頭をもうひと撫でして、ディアナは立ち上がった。
「ほら、もう寝台に、」
父ゲオルグの帰宅は普段より早かったとはいえ、八歳のアレックスにはもう充分遅い時間だ。自室に戻るように促すと、アレックスの手がディアナのドレスをちょこりとつまむ。
弟のこんな甘え方は久しぶりだ。思わず笑みが溢れる。ディアナはアレックスの要望を言い当てた。
「それじゃあ、今夜は一緒に寝ましょうか」
アレックスは恥ずかしそうに、黙ってこくりと頷いた。
一緒にディアナの部屋へ引き上げる。机に置いていた、刺繍が刺しかけにされたハンカチが、ディアナの目に留まった。
低くて穏やかな声が、耳に蘇る。
『ありがとう。これは大切に飾る』
ひと月前のお茶会で、ディアナがギルバートにハンカチを贈った時だ。壊れ物を扱うように、ギルバートの指がハンカチの縁をそっと撫でていた。
触れてもいいのか悩んでいるようにも見えたその仕草に、ディアナの胸がぎゅっと締まった。あの感覚は今でも忘れられない。
『いくらでも刺繍します。ですから、こちらはちゃんとお使いくださいませ』
だからわざと笑った。ハンカチをギルバートの手に乗せて、押しつけるように次の約束をした。ギルバートは驚いたように少し目を見開いてから、ほんの僅かに口元を綻ばせた。布の質感を確かめるようにハンカチを握って、ハンカチを見つめながら『ああ』と短く頷く声は確かに弾んでいた。
ギルバートは優しい。しかし普段、その表情が大きく動くことはない。そんなギルバートが、あれほど喜びを露わにすることは珍しかった。
(もう少しで、次のハンカチが出来上がったのに)
ギルバートの誕生日には間に合うはずだった。しかし、婚約者でなくなった以上、もう一介の公爵令嬢が第一王子に気軽に贈り物などはできない。
「姉さま?」
アレックスの声に、ディアナははっと我に返る。
「ほら、ブランケットをちゃんとかけて。……おやすみなさい、アレックス」
寝台に入ったアレックスにふわりとブランケットをかける。ディアナは寝台に腰掛け、一定のリズムでアレックスのお腹のあたりをとんとんと叩く。遅くまで起きて疲れていたのか、アレックスはほどなく寝息を立て始めた。
ディアナは弟が寝入ったことを確かめて、そっと立ち上がる。
ゆっくり机に近づいて、作りかけのハンカチを手に取った。幸運を祈る、そんな花言葉を持つ花を選んで、一針一針その花弁を象ってきた。もう贈ることのできないそれを、刺繍枠から外す。
楽しみにしてくれていただろうか。これを贈ることができていたら、あの人はまた笑ってくれただろうか。
(ギルバート様……)
婚約者でなくなった以上、王族である彼を名前で呼ぶことはもうできない。
第一王子殿下、と。そんな無機質な呼び方をしなければならない。
(アレックスには、呼び方を直させたのに)
次に会うとき、自分は彼を肩書きで呼べるだろうか。名前で呼べないことに、堪えられるだろうか。
(わたくしに、もうその資格はないのに……どうして、考え続けてしまうの)
きっと、ギルバートが“ディー”と呼んだからだ。そう思い至って、ディアナは首を横に振る。
あの時は呼ばれたと思った。けれど、時間が経つほど、本当にそうだったのか自信がなくなってくる。
(あれは……きっと気のせいだったのよ)
婚約の解消を申し出ておいて、名前どころか、それまで口にしたことのない愛称で呼ぶ。少し考えればわかる。ギルバートがそんな分別のない行動をするわけがない。
(あの方が、最後にわたくしを愛称で呼んでくださったなんて……わたくしに、都合が良すぎるもの)
弁えなければ。そう、自分に言い聞かせる。
雲が切れたのか、窓から月光が差し込んだ。ハンカチの光沢のある刺繡糸が、光を反射してディアナの手の中で鈍く輝く。作りかけで花弁が足りていない、幸運への祈り。
唐突に、今朝と同じぞわりとした恐怖が、ディアナを襲った。
「いや……っ!」
思わず小さく叫んで、ハンカチを取り落とす。ディアナは自分の体を掻き抱いた。
(何、今のは……)
床に落ちたハンカチを恐る恐る見下ろす。
『――――――なかったくせに』
どくどくと鳴る自分の心臓の音に紛れて、そんな嘲りが聞こえた気がした。
ディアナの記憶にはない。けれど、確かに何処かで聞いた言葉。知っている声。
「お嬢様?」
小さなノックと、自分を呼ぶ囁き。ディアナがはっと顔を上げると、扉が細く開いてマリアが顔を覗かせたところだった。
「お声が聞こえた気がして……あ、坊ちゃまは今夜はこちらでお休みですか?」
「……ええ、そうなの」
ディアナは、息を整えてどうにかいつも通りの声を出した。
「最近はこうして甘えることもなかったのに……。マリア、今夜アレックスがわたくしの部屋で寝ていること、ポーラとユナに伝えておいてくれる?」
この邸の侍女長とアレックス付きの侍女に、そう伝言を頼む。
「わかりました。お嬢様も、今夜はもうお休みになりますか?」
「そうね。夜着と、湯浴みの支度を頼んでもいいかしら」
「お任せください。すぐご用意します。お湯の準備ができたら、また参りますね」
マリアはそう請け負って、扉を閉めた。静けさが戻ってくる。
ディアナは、ちらりと寝台を見た。アレックスの規則正しい呼吸の音と、それに合わせて上下する胸元。
(……良かった)
弟は、すっかり夢の中にいるようだった。そのことに安心する。
ディアナはハンカチを拾いあげた。あの恐怖が蘇ることが怖くて、ハンカチが視界に入らないように皺になるのも構わず握りしめる。
ディアナは、ハンカチをそのまま引き出しにしまいこんだ。
引き出しを閉める音が、ぱたんと響いた。
第2章はここまでとなります。幕間をひとつ挟んで、主人公視点に戻ります。




