決意
離宮に戻ると、オズは私の指示通りに軽食の用意をしていた。いつも飲むハーブティーの香りが広がる部屋に体がふっとほぐれ、謁見以降ずっと自分が緊張状態でいたことを自覚する。
「オズ」
私が呼ぶと、オズはティーポットを持ったまま振り向いた。
「ようやくお戻りですか。お茶はいつもの……殿下、そのお顔は?」
「……ああ、これか」
私は頬にできた傷に軽く触れる。出血はとっくに止まったが、さすがに痣は数十分程度では引かない。かなり目立つはずだ。
「気にする必要はない」
あれほど悩んだというのに、私が言ったのは結局それだけだった。
「しかし殿下、手にも痣が、」
「それよりも、」
私が続けると、何か察したのかオズは口を閉じてティーポットをテーブルに置いた。
こちらに向き直ったその忠実な側近の目を、まっすぐ見て告げる。
「私は、近いうちに王宮を出る」
「……は?」
「もう決めたことだ」
セドリックから漂った、毒なのか薬なのかわからないあの香り。私の中で最悪なのは、あれが本当に毒であり、セドリックが既に私を殺す準備を始めているという可能性だ。ディアナの伴侶になるだろうセドリックに、手を汚させるわけにはいかない。
未来での私の最期。セドリックは終始楽しそうだった。霞んだ視界でも見えた国王の衣装に、ディアナの色を使った指環。セドリックが私を排除したことで得たのは、おそらくそのふたつだ。
もともと王位争いは避けていたが、セドリックがあんな真似をした以上、不十分だったのだろう。
今回はもう違う。既に私はディアナとの婚約を解消した。その上で私が消えれば、私が王位を狙うつもりがないことが今度こそ伝わるはずだ。
そんなことを考えながら、私はオズに続けた。
「だから、急な話になってすまないが、お前には暇をやることになる」
オズは言葉を失ったように、ただ目を見開いた。いつも飄々としているこの男が、今日だけで何度動揺を表に出しただろう。そんなことを唐突に思って、ふと可笑しくなる。
「そんな顔をするな」
苦笑する。なぜそんな、惜しむような顔をオズがするのか。
経験してきた未来ではセドリックも王妃もあっさり私を切り捨て投獄し、無事にセドリックは即位した。身を粉にする勢いで仕事をしていたが、こんな私がいなくとも、充分国は回るのだ。
それに竜の血の力も失った。これを知られるわけにはいかない以上、できる限り早く姿を消さなければならない。
「本当はお前に次の職場を斡旋してやりたいが、王妃やセドリックに気取られる前に出て行きたいんだ。お前ならどこに行こうとやっていけるだろうが、もし紹介状が必要なら早めに言ってくれ。いくらでも書こう」
オズは、私にとって信頼できる数少ない人物だ。丁寧ながら遠慮のない物言いは私への気遣いからくるのだと、そう気づいたのはいつだったか。
せめて、これまでの献身に報いてやりたい。
しかし、オズは険しい顔のまま、即座に短く言う。
「紹介状など不要です」
その簡素な言葉が、私の胸に刺さった。
「そう、か」
次の言葉に、一瞬詰まる。
確かに、私はいい主人とは言えなかっただろう。私の唯一の側近として、本来は侍従の身でありながら、執事や護衛としての役目も担ってくれている。どうにか報酬だけは支払ってきたが、その働きに見合うものだったかと言われたら自信はない。
甘えていたな、と自嘲する。ディアナにも、オズにも。
先ほどの私の申し出がひどく傲慢なものだったように思えて、オズから目をそらす。
「……まあ、無能と謳われる私の名がどこまで通じるかはわからない。紹介状など、ないほうが良いかもしれないな」
自分の口からこぼれたものが、言い訳だったのか自分への慰めだったのか、私自身にもわからなかった。
それでも。
私はオズに対し、深く頭を下げた。
「せめて、礼だけは言わせてほしい。この王宮で、これまで私の味方でいてくれたこと、心から感謝する」
「……それでは殿下、私は今後、自由にしてよいということでよろしいですか?」
数秒置いて、オズの声が静かに降ってくる。わざわざ念を押さずとも良いというのに。
「そうだ」
「では」
衣擦れと、とっ、と重いものを静かに床に置く音がした。今度は妙に低い位置から、オズの声が続く。
「殿下がどこへ行かれようと、お供いたします。私もお連れください」
「オズ……?」
自分の耳が何を聞いたのか、わからなかった。一拍置いて、オズの言葉の意味がじわりと脳に到達する。
はっと顔を上げると、オズは跪いていた。
「私の主は一生涯、ギルバート・ウィリア様ただおひとりでございます」
そう言って、胸に手を当てて、私よりも深く頭を垂れる。
「本気か……?」
見ればわかる。微動だにしない姿勢、声の重さ。だから本当は聞くまでもない。それでも、問うてしまう。
なぜなら、オズは私を『殿下』と呼ばなかった。
『王族としての私』ではなく、『私個人』を主と呼ぶという意味なのだ。
「私はあなた様に嘘は申しません」
打てば響くように、オズは答えを重ねた。それも知っている。
ただ、それでも躊躇する自分がいる。
「っ、しかしオズ、私は……。私はお前に、何も返せない」
私は何も持たない。権力も財も名誉も、何ひとつオズに差し出せるものがない。
そう続ける私に、オズがかすかに口角を持ち上げたように見えた。
「あなた様は――」
「オズ? 何と言った?」
オズの囁くような声が聞き取れなかった。聞き直すために私も膝をつく。オズは顔を上げて、呆れたようにふっと笑った。
「殿下、王宮を出られたところで、庶民の暮らし方などご存じないでしょう」
あからさまな話題の転換だった。
「市場で野菜を買おうとしたとき、値引き交渉とかできます?」
オズはそのままその話題を続けていく。自分で口にしながら、私には聞くなということか。
(仕方ない)
私はそう思い、オズの話題に乗った。
「商会や卸問屋相手になら何度もしているが」
「それとは性質が違います。商会などを相手取るときは、相手の利を提示し、理路整然と納得させるものでしょう。そうではなく、義理人情に訴えたり、その場の雰囲気、はたまた勢いを利用したりするのです」
確かに、私は平民の暮らす街に出入りしたことは何度もあるが、平民のふりをして何日も過ごしたことはない。
「それは、確かに……経験はないな。言われれば見たことはある気がするが。確か前にイェールの市場で、年配のご婦人が『もう一声』と肉屋の主人に粘っているところを見たが、ああいうのか」
「それでございます」
「なるほどな」
私は立ち上がり、窓の外を見やった。青い空が広がっている。
王宮を出て、追手がかかるとはあまり思えないが、身分は隠すべきだろう。成人間際のこの年であまりにも世間知らずに見えてしまうのは確かに怪しすぎる。
「……お前に助けてもらったほうが良さそうだ」
「ご英断です」
オズはもう一度、今度は軽く頭を下げた。
ここまでが第1章となります。
ストックを温存&推敲のために、今後は更新頻度が徐々に落ちると思います。
ご了承ください。




