生じた異変
廊下に出る。外気に触れ、ひやりとした感覚に自分が汗を滲ませていること、王妃に幾度も扇で打たれた頬も熱を持っていることに気づく。
想定よりましとはいえ、“一方的な婚約解消を行った私への罰”という大義名分を得た王妃の暴力は、いつもよりひどかった。普段から極力本宮には連れてこないようにしているが、やはりオズを置いてきていて良かったと改めて思う。
『私も参ります』
離宮を出る前、私を見たオズの曇った表情を思い返す。あの様子では、もし連れてきていればおそらく私の前に割り込んで扇を受けていたか、王妃に反抗してその場で不敬罪として切り捨てられていたかだ。
あいつは時々、職務に忠実すぎる。そうでなくとも今朝のお茶会後、私の態度で不審に思わせただろう。
(早めに離宮に戻ったほうがいいな)
そう思いながらハンカチを取り出し、額の汗を拭う。ぴり、と頬に沁みるような痛みを感じて、何気なくハンカチに目を落とした。
「……ぁ」
薄紫のハンカチに、赤い汚れがついていた。血だと気がついて、ハンカチを持つ手がびくりと震える。
これは、以前ディアナから贈られた刺繍入りのハンカチだった。思わず『大切に飾る』と言ってディアナに笑われたことを思い出す。
『ギルバート様に喜んでいただけるなら、いくらでも刺繍します。ですから、こちらはちゃんとお使いくださいませ。約束ですよ』
ディアナは差し出したハンカチをそっと私の手に乗せて、そう言ってくれた。その約束を信じて、今までの私は理由や言い訳をつけながらこのハンカチばかりを持ち歩いていた。今日だって、ディアナとのお茶会に浮かれてこのハンカチを選び、そのままだったのだ。
本当は。この先を記憶の通りに過ごしていれば、ディアナは約束通り、私の誕生日にはもう一度ハンカチを贈ってくれたはずだった。『こちらのハンカチもお使いください』と私の反応を先回りして言う、少しいたずらっぽい笑顔が、脳裏を過ぎる。
その未来は、もう来ない。
「……汚さないようにしていたのにな」
呟く。彼女を手放した今、だからこそ手元に残っているものは、より大切にしなければならなかったのに。
こんなすぐに、こんなことで彼女にもらったものを穢すとは。
血液の汚れは時間が経つと落ちにくくなる。早めに洗わなければと、離宮に戻る前に水場があるほうへ向かう。ここからすぐの中庭に井戸があったはずだ。
中庭に出て、井戸に近寄る。小さなたらいがひとつ置かれていた。特に汚れは見当たらず、軽くすすいで拝借する。汲んだ水をたらいに注いで、ハンカチを浸した。
破ったり刺繡を傷めたりしないように、そっと指でゆっくりとこする。
『本当に竜の血が流れているのかしら?』
血の染みがハンカチから水にじわりと溶け出していくさまに、王妃に言われたばかりの侮辱が耳に蘇った。
竜の血。このウィリア王国では建国伝説になぞらえて、王族の直系の血筋をそう呼ぶ。
はるか昔に、ひとりの英雄が竜の始祖を討伐し、この地に国を興した。初代国王となったその英雄は、討伐時に浴びた竜の血により丈夫な体を手にしていたという。その血は今でもその子孫に受け継がれている――大体、そんな内容だ。
そして、これはただの御伽噺ではない。
何でも防ぐ万能なものではないが、実際王族は総じて体が丈夫だ。常人よりも怪我をしにくく病気になりにくい。私が未来で経験してきたあの牢獄で、日々毒を与えられながらも半年生き永らえたのは、子供の頃からの毒への耐性だけでなく、私がこの竜の血を持つからでもあるはずだ。
少しずつ薄れていくハンカチの染みをこすり続けながら思う。
(それだけではない)
賊に襲われ母上を失ったあの日、私ひとりが軽症で済んだのも。
父による厳しい剣の鍛錬や、耐性をつけるための服毒を乗り越えられたのも。
膨大な執務をこなすための徹夜が、数日程度平気なのも。
いつの間にか常態化していた、王妃からの折檻だって――そこまで考えたところで、ハンカチをすすぐ手が思わず止まった。片手の甲に浮く、王妃に踏みつけられたせいでできた痣が目を引く。
何かおかしい。ただ、その違和感が言葉にならない。
水面の揺れが少しずつ収まり、そこに映る私の顔の輪郭が次第に鮮明になっていく。
たらいの水に映る程度では、具体的な色はよくわからない。それでも、王妃に扇で打たれた箇所を中心に私の頬が変色し、こちらも痣になっていることは見て取れる。痣の上に、細く一本の傷が走っていることも。
違和感が、私の中で繋がり始める。
刃物だったなら、傷が出来たのもわかる。あの時のように矢で射られたのだとしても、わかる。
しかし、武術の嗜みもないあの女が扇を振るった程度で、多少踏まれた程度で、今までこんな傷や痣ができたことがあったか?
「いや、まさかな……」
ふと浮かんだ考えを振り払う。過去に戻るなどという、信じがたい現象を体験したばかりだから、そんな突飛な考えが浮かぶのだ。傷ができたのも痛みを強く感じたのも、今日の王妃は普段より執拗だったから、きっとそのせいだろう。
それよりも、この傷をオズにどう説明するか考えるほうが先だ。目に見えるような傷などできないと思い込んでいたから、王妃の折檻については今まで通り隠し通せると思っていたのに。
染みがほとんど落ちたハンカチをたらいから引き上げ、刺繍にほつれが出来ていないか確かめ、皺にならないよう軽く絞って畳む。たらいを元の位置に置き、中庭をあとにする。
離宮に帰るつもりだったがオズへの言い訳が思いつかず、少しだけ遠回りするために本来通るべき回廊の前で左に折れる。
「転んだ、ぶつかった……どれも弱いか」
オズも私の体の丈夫さは知っている。あいつを納得させられる嘘など思いつかない。それにオズは私に嘘をつかない。それを知っている私が嘘をつくのは卑怯だろう。……だからこそ隠していることが多いのは、否定できないが。
(命じればそれ以上は聞いてこないだろうが……)
さっきも、これ以上聞くなと命じたばかりだ。あまり理不尽な命令を重ねたくはない。
答えの出ないまま足を進め、ふと周囲を見る。壁に並ぶふたつの扉から、自分の現在地を知って立ち止まる。
(……かなり端まで来たな)
この扉はどちらも王宮の書庫に通じるものだ。収蔵する資料の性質が異なるため、書庫はふたつに分けられている。
片方は一般書庫。各領地の特色、税収、災害の記録、貴族名簿などといった、政務を行うための資料が収められている。こちらは日中は解放され、業務時間内であれば官僚たちも自由に出入りできる。
そしてもうひとつは、王族専用書庫。王家の歴史など機密性の高い資料が収められた王族専用書庫に入る扉には、宝玉を掴む竜と、その竜の喉元に剣を突きつける英雄の姿が彫り込まれており、一般書庫のものと雰囲気が大きく異なっている。
さすがに引き返すか、と踵を返そうとして、王族専用書庫の扉の竜が掴む宝玉に目が吸い寄せられた。重厚な木の扉は、しかし宝玉部分だけ材質が違い、ガラスか本物の宝石かのようにつるりとしている。
この書庫の扉だけでなく、王家の墓所、秘宝庫。私に与えられた離宮にはないが、本来なら王族の私室にある隠し部屋や隠し通路の出入口。それらの鍵となる場所にはいずれも竜の彫刻がある。竜が持つ宝玉部分に王族が触れることでのみ、鍵が開くようになっている。
原理は既に失われたそうだが、これも竜の血を読み取っているためと言われている。
丈夫な体と、特別な場所に立ち入る権利。それが、竜の血を持つ王族に与えられた恩恵。
(竜の血、か)
私は、その宝玉に手を伸ばした。ハンカチの汚れを落としながら振り払ったはずの可能性を、念のため潰しておこうとしただけだった。
王族専用書庫には何度も入ったことがある。幼い頃から、父に命じられるがままに様々な分野を学んだ。王家の歴史や祖先、それに一部にしか伝わっていない伝承などについて知るには、ここの資料を読むのが最も手っ取り早い。
(ここまで来ていたんだ。時を遡る現象について何か事例がないか調べておくのも悪くない)
鈍く輝く宝玉に手のひらを合わせた。
普段なら、宝玉に触れた瞬間に小さくかちりと音がして、抵抗なく扉が開く。
しかし。
「何……?」
扉は私の侵入を拒むように、沈黙を保っていた。試しに押してみても、固い感触だけで扉は動かない。
手を離しもう一度触れてみるが、やはり解錠の音は聞こえず扉も開かない。思わず、一歩後ろに下がって扉全体を見つめる。扉に描かれた、英雄に討たれる寸前の竜が私を睨みつけたように見えた。
「何故だ……?」
自分の零した声が、震えているのがわかった。
こんなことが、起こり得るのか。己の手を見下ろす。その甲に浮く痣。
普段ならしない怪我。
普段なら開く扉。
簡単に否定できたはずの可能性が、急に実体を伴って立ちはだかるようだった。
すなわち。
「竜の血の力が、消えた……?」




