謁見の間にて
◆ ◆ ◆
私は書類を処理する手を止め、あの時射抜かれた右肩を撫でた。過去に戻った今、当然痛みはない。きっと傷跡も残ってはいないだろう。それでも、記憶をなぞったからかあのときの衝撃が蘇るようだった。
あの後、捕らわれた私には、ろくに釈明の機会も与えられなかった。
矢だけ適当に引き抜かれ、王宮の地下牢最奥に押し込められた。その後は、運ばれてくる粗末な食事を無理やり摂らされ、毒を口に注ぎ込まれるだけだった。毒のせいで意識も曖昧で、地下牢の暗闇に時間の感覚も次第になくなった。あのときセドリックが国王の衣装を着て来なければ、半年経ったこともわからなかっただろう。
私の世話は、黒いローブを着込みフードで顔を隠した人物が無言で作業を行っていた。
そして私は今、過去に戻っている。おそらく、私の死と同時に。
(なぜ、私は過去に戻ってきた?)
奇跡が起きた、とは思わない。そんな楽観的なものの見方は、とうの昔に捨てた。
何らかの理由があるはずだが、思い当たる節はない。今は情報が足りなさすぎる。
そのうえ、まだやるべきことが残っている。
「オズ。私は王妃のところへ行ってくる。……エンフィールド公爵令嬢との婚約解消手続きを済ませなければならない」
オズは帳簿の計算をする手を止めて私を見た。
「私も参ります」
「王宮内だ。ひとりで良い。いつもそうしているだろう。ここの片付けと、軽食の用意を頼む」
用事を言いつければ、オズは拒否しない。ぐ、と何かを飲み込んだように表情を引き締めてから、かしこまりました、と小さく頷いた。
「それで? 何の用なの?」
謁見の間にて、セドリックの母、私から見れば義母にあたる王妃ジャネットは、不機嫌さを隠しもせずにそう言った。
「義母上にお願いしたきことがあり、参りました」
私は王妃の前に跪く。空の玉座の隣、王妃の椅子に座る義母は、苛立たしげにふん、と鼻を鳴らす。
「それくらいはわかるわ。わたくしも暇ではないの」
謁見の間の壁際に控える官僚が何人か、くく、と笑う声がした。「無能王子が」という囁きも私の耳に届く。
そっと視線をやると、そう囁いたのはディアナの父であるエンフィールド公爵だった。公爵がこの場にいることに、私は安堵する。婚約解消についての話が一度で済む。ディアナの幸せのためとはいえ、そう何度も語りたいものではない。公爵家に足を運ぶ必要がなくなったのはありがたかった。
(公爵家か)
そういえば、ディアナには幼い弟がいる。
『次にいらっしゃるときにも、剣を教えてください!』
こんな私に懐いてくれ、会うたびに次の約束をせがむ素直な少年だった。ディアナとの婚約を解消すれば、もう会う機会はほぼなくなる。
(約束、破ってしまうな)
ふと罪悪感に襲われる。
あの子ならセドリックにもすぐに馴染むだろう。そう自分を納得させるしかなかった。
「義母上、それにエンフィールド公爵」
ふたりを並べて呼ぶと、両者とも訝しげに眉を寄せた。私は感情を出さないよう、平静を保って言葉を続ける。
今朝ディアナに告げたときは、一刻も早く私から解放しようと焦った。今度は違う。
「ディアナ・エンフィールド公爵令嬢との婚約。私の全面的な有責にて、解消の手続きを願います」
彼女に瑕疵は一切ないと、確実に伝えねばならない。私は頭を下げる。
「……お前は、何を言っているの?」
頭を下げていては見えないが、王妃が立ち上がったらしい。声が近づきつつ、つかつかと足音がする。王妃の足元が視界に入ると同時にひゅっと風を切る音がして、頬に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
思わず目を眇める。間髪入れず王妃の怒声がした。
「この恥さらしが! 亡き陛下の調えた婚約を何と心得ているの!」
殴られたのか、とすぐにわかった。得物はいつもの扇だろう。王妃からの折檻は初めてではない。
ただ、普段より痛い気がするのは、何故だろう。
「申し訳ありません」
王妃に逆らうつもりはない。痛みを堪えつつ、口に謝罪の言葉を乗せる。
「お前の謝罪にどれほどの価値があると言うの?」
王妃はそう吐き捨てた。
畳まれた扇が私の顎下に差し込まれ、ぐっと力がかかった。その無言の命令に抗わず、上を向く。至近距離で王妃と目が合った。
「勝手なことをして。……あの娘が倒れでもしたらどうする気?」
他の者たちには聞こえないように王妃は囁く。
予想できたはずのその台詞に、それでも体が強張った。やめろと叫びたいのを寸前で飲み込む。
「約束を忘れたとは言わせないわよ」
「……忘れては、おりません」
かろうじて、私は言葉を絞り出した。歯を食いしばる。王妃の、セドリックと同じ赤い瞳を見据える。
「彼女は優秀で、素晴らしい女性です。そのことは王子妃教育に携わる義母上ならご存じでしょう。ならば、私に彼女はもったいない」
顎の下、喉の近くに触れる扇のせいで、声が出しにくい。それでもかつて王妃に言われたことをなぞる。数度瞬いて、私の言葉の意味がわかったのか、王妃は嫌な笑みを浮かべた。
「ああ……そういうことねえ」
王妃は、私が耐えられなくなったのだと思うのだろう。私が己のために彼女を差し出したように見えるのだろう。
どう思われようと、今さら知ったことか。
ただ。
「次期国王の決定まであと一年。即位式はその半年後。次期国王にはセドリックが立つべきでしょう。彼女の努力だけは、無駄にしないで頂きたく思います」
既に王子妃教育をほぼ終えているディアナに、次期王妃という名誉を。その肩書があれば、障害なくセドリックと婚約を結べるだろう。
そもそも、仮にも王子はふたりいるのに、ディアナ以外に王子妃教育を受けている者はいなかった。あと一年しかないのだから、他の令嬢に教育を施す時間はない。その事実と合わせて、一度見てきた未来のことを思えば、簡単に結論は出せる。
つまり、王妃に、ディアナを私に嫁がせる気は全くなく、いずれ理由をつけてセドリックに嫁がせるつもりだったはずだ。
今思えば、かつて王妃に言われたのは『ディアナとの婚約を許す』だ。『婚姻を許す』など、ただの一度も言われていない。
そんな王妃の目には、約束と称したあの一方的な取引に縋る私の姿は、さぞかし滑稽に映っただろう。
「もっと早く、そうしているべきだったのよ……でも、もう遅い」
王妃がその囁きを最後に、扇を引いて身を起こす。その扇が再度振るわれ、ばしっ、と高らかに私を打つ。
「お前に指図される謂れはない! それも後始末をセドリック、弟に委ねるだなんて! ……それでよく第一王子が務まるわ。人々に“無能王子”などと呼ばれるのも納得ねぇ。そんな無様で、本当に竜の血が流れているのかしら。王族としての誇りもないの!?」
私への叱責を再開した王妃に、先程までの王妃の声が聞こえていない官僚たちからは賛同の声がちらほら上がる。
誰も王妃を止めはしない。止める権力も、理由もない。
王子が人前で体罰を受ける。こんなことは本来あり得ない。しかし、だからこそただなされるがままにその屈辱的な姿を晒す私は、彼らには王妃の言う通り無様で、王族として失格に見えるのだから。
それを、王妃はわかっている。
そのまま、何度殴打されたか。皮膚が裂け、床に血が一滴、ぽたりと落ちる。立ち上がる許可はなく跪いたままの体が次の打撃を受けると同時にふらついた。ふらつきに、咄嗟に床に手をつく。
「あら、床に虫が」
その手の甲が、王妃に踏みにじられる。その言葉通り虫をすり潰すかのような、捻じるような力がかかる。
「ぐ……っ」
頬から手へと痛みを受ける部位が急に変わったことで、耐えきれず呻きが漏れた。
「ふふ……良い声ねえ」
王妃の、蔑みを含んだ満足げな声は、私にしか届かない。
ようやく、王妃は「まあいいわ」と身を翻した。官僚たちにも聞こえる、普通の声量で話し始める。
「確かにわたくしも、ディアナさんは本来もっと相応しい場所で輝くべき娘と思っていたところよ」
言質が取れた。目的が果たされ、私はほっと息をつく。これだけの官僚の前での発言だ。これで余程のことがない限り、ディアナの立場は保証される。
「お前のような者の婚約者を何年も務めたディアナさんの献身に免じて、今回はこれで許しましょう。お前が、婚約を調えた亡き陛下のご期待に応えられなかったというだけのこと。良いわね?」
「……かしこまりました。義母上のご恩情、ディアナ嬢のこれまでの献身に、感謝いたします」
姿勢を正し、息を整え、私は再度頭を垂れる。まだ手は痺れ眼裏がちかちかするが、じきに収まるはずだ。これくらいで済んだのだから、想定よりは随分ましとも言える。
「では手続きを」
玉座に座り直した王妃が指示を出す。あっという間に婚約解消のための書類が用意された。書き物のための台が準備され、エンフィールド公爵がサインをする。
王妃から、私に立ち上がる許可は未だにない。官僚も心得ていて、公爵の記入が終わった書類とペンを、私の目の前の床に無造作に置いた。
王妃が言う。
「お前はそこで良いでしょう?」
みなの前で、這いつくばったままサインしろ――。そういうことか。
王妃の低俗な意図に反吐が出る。それでも私は無言でペンを拾った。床に落とした血がつかないように紙を広げ、内容に誤りがないか確かめる。
不備はない。署名がディアナ本人のものではなくても、家長であるエンフィールド公爵の名前があれば書類は通る。
(これで、本当に)
私は、彼女の婚約者ではなくなる。
止まりそうになる手を叱咤して、彼女の幸せを願いながら。私は冷たい床の上で、書類に自分の名前を書き入れた。
「本当に床で」
「なんと……」
耐えきれなくなったように、何人かの若い官僚たちが嘲笑を漏らしたのが聞こえた。
官僚が両者のサインを確認し、問題がないことを示すように王妃に向けて頷いた。
「では、これで婚約の解消は成立よ。さっさと退出なさい」
「はい。御前、失礼いたします」
王妃の命に従い、立ち上がる。謁見の間を出る前、並ぶ官僚のひとりに声をかけた。
「エンフィールド公爵」
ディアナの父親は、剣呑な目を私に向けた。その目つきに臆さず、話を続ける。
「この度は大変申し訳ないことをした。先も言った通り、これはすべて私が未熟であるがゆえのこと。従って、ご息女を咎めることがないようお願いしたい。――ディアナ嬢の幸せを、心から祈っている」
すべて私の本心だ。それを、エンフィールド公爵は歯牙にもかけない様子で口を開く。
「寛大なお言葉、おそれいります。ただまあ、殿下にご心配いただく必要はございません。今後はお声がけも不要でございます」
どうでもいいと言わんばかりの口調に、二度と関わるなと言われていることに気づく。気にかける素振りすら迷惑だと。
それすら、許されないのか。改めて手放した立場の重さを知る。
けれど、代わりに、ディアナはその努力と魅力に見合った地位が約束され、真に好いた者と結ばれる。
ならば、これでいい。これでいいはずだ。
「そうか。……失礼した」
それだけ言って、私は廊下に続く扉に足を向けた。
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