あの日の記憶 後編
「入ってもらって。ここではっきりさせたほうが良さそうだ」
「はっ!」
セドリックの指示に敬礼を返し、兵が細く扉を開ける。一言二言声をかけ、会場の外にいた人物を招き入れた。
「ギルバート王子さま!」
甘ったるい声をあげて、ひとりの若い女が入ってくる。ドレス姿ではあるが、生地の光沢が妙に強く、安っぽい。美人の部類に入るであろうその顔も濃い化粧がされている。結い上げた赤茶色の髪が一筋垂れるさまは妖艶といって良かった。
あきらかに貴族ではない。そもそも貴族なら、仮にも王子である私にこんなに馴れ馴れしく呼び掛けはしない。記憶をどれだけ探っても、全く知らない女だった。
それなのに、その女は私の顔を見て嬉しそうに顔を綻ばせ、するすると近づいてきた。腕を組もうとでもいうのか、爪を真っ赤に塗った手を伸ばしてくる。
あまりにも馴れ馴れしい態度に、ぞっとした。
「誰だ……!?」
思わず後ずさって女の手を避け、問いただす。
「まあ、わたくしをお忘れですか? あんなに愛してくださったのに……」
寂しげな、けれどどこか怪しげな笑みを浮かべる女に、もう一歩後ずさっていた。
「私はあなたのことなど知らない!」
「そんな、悲しいですわ。このメアリ、王子さまとの甘い時間、すべてを覚えていますのに。あのお手紙だって、大切にしていましたのよ?」
爪と同じく赤く染めた口が発したその名前に、内容に、ざわりと会場のどよめきが増す。
「まさか、本当に……?」
「公爵令嬢である婚約者を差し置いて、娼婦と不貞だなんて……」
「そこまで無能だったのか……」
王族であるセドリック。公爵令嬢であるディアナ。そして娼婦のメアリ。立場の異なる者たちが口を揃えれば、疑いを挟む人間などこの場にいなかった。
「そんなことを言われても、本当に知らないんだ! 手紙も、あなたも!」
しなだれかかってくるメアリを避ける。避けられても、メアリの笑みは崩れない。それどころか、ふふ、と、まるで聞き分けのない子供を相手にしているかのような顔で私を見る。
「んもう、照れないでくださいな。このメアリ、ちゃあんとわかっておりますよ。でも、もういいじゃないですか。あっちの王子さまからも、王妃さまからも、わたくしお許しをいただきましたもの。だから今日この場に来たんですの」
「許し、だと……?」
「ええ。平民でありながら王子さまを愛すること、お許しいただいたの。本当、お優しい王妃さま! 聞いていた話と全然違ったわ! それなのに王子さまったら……」
潤んだ瞳を輝かせてメアリは言う。
「だから、私はあなたと会ったことはないと……!」
会ったことがない以上、話をしたことなどない。しかし、メアリは思い出を語るように話し続ける。
“ある”ことを示すには、実際にそれを見せればいい。しかし、“ない”ことを証明することはほぼ不可能──かつてどこかで聞いた理屈が、脳裏を過る。
今の私に、メアリとの関わりがなかった、と証明する手段がない。
「失礼、レディ」
セドリックが会話に割り込む。少し、警戒色を強めたふうを装いながら。
「我が母上──王妃について、この兄はあなたにどんな話を?」
「あっ……」
初めて、メアリが口を閉ざした。いかにも、まずいことを言いかけました、というように。
「メアリ嬢、教えてくれるかな。仮に兄上からどんなことを聞いていたとしても、あなたを罪に問うことはないと約束するよ」
「あの、でも……」
先ほどの口ぶりでは、私が王妃に対する鬱憤をメアリにぶつけ、メアリもそれを否定せず聞いていたように聞こえる。王族を侮辱すれば罪になる。その可能性を思い出したのなら、メアリの態度は自然に見えた。
セドリックに促されて、メアリは視線をさまよわせながら、自身の胸元にそっと触れた。隠したものの所在を確かめるように。
「メアリ嬢、それは? 何を持っているの?」
「……これは、その」
兵士が近づくと、メアリは観念したように胸元から小瓶を取り出した。赤く透き通った液体が入っている。
その鮮やかな色味。知識のある者は悲鳴を飲み込んだ。
「あれは、ゼツメイランの……!」
蘭によく似た花を咲かせる毒草。その赤い花から抽出される毒は、その色の美しさと致死率の高さに、“死の貴婦人”と呼ばれる。高価な上、正当な理由なく所持しているだけでも罪に問われる代物だ。
当然、ただの娼婦が簡単に手に入れられるものではない。
メアリはその場でわあっと泣き崩れた。
「違います! 王子さまから『実際に使うわけじゃない、ただお守り代わりに持っておきたいだけだ』って言われて……っ」
目の前の光景に、ただ立ち尽くすしかできなかった。
どこまで仕組まれている?
メアリは、私が王妃を殺すための毒を手配し、メアリに売人から受け取ってくるよう依頼したことを、私をかばうような台詞で包みながら告白していく。私に、そんな覚えは一切ないというのに。
婚約を破棄されて、見知らぬ浮気相手が現れて、王妃暗殺の濡れ衣まで。変わる事態に、追いつけない。
思わず視線を巡らせる。こちらに向く視線は冷たいものばかりだった。パーティーの警備として配置されている兵が私を取り囲み、ゆっくりと輪を狭めてくる。
「まさか、母上を……。ディアナを裏切っていただけでも許しがたいのに」
私からすればわざとらしいとしか思えない、しかし知らない者が聞けば騙されてしまうだろう真剣さを帯びた声で、セドリックが呟く。その隣に立つディアナが、真っ青な顔でふらりと一歩こちらに近づいた。しゃら、と金属質な音がする。ディアナのドレスに縫いつけられた黄金色の装飾が揺れて、きらきらと光を反射する。
「ディー。だめだよ、兄上に近づいたら」
そんなディアナを、セドリックがそっと引き寄せる。ふたりきりのときだけ、私だけに許されていたはずの、その愛称で彼女を呼びながら。
「話が違います、こんなこと……こんなことわたくしは、」
ディアナがセドリックの手を振り払う。しかしセドリックは慌てず、ディアナの肩を抱いた。
「僕だって知らなかった。でも、事が明るみになった以上、このままってわけにもいかないよね。なにしろ、王妃を殺そうとしていたんだから」
セドリックはそう言って、未だ泣きじゃくるメアリを横目で見やる。そして、周りを囲む兵に命じた。
「皆の者、兄上を捕らえろ! 容赦はするな!」
高らかな号令に、兵の輪が急激に狭くなった。私は反射的に腰に手をやって、しかし愛用の剣はそこにないことを思い出す。
「くっ……!」
王族であれば、式典時であろうと護身用として帯剣が認められる。それ以外は護衛や警備の者だけだ。
しかし。
『あら。やはり、血が繋がっているわけでもない者が隣で武器を携えていると恐ろしいわねぇ』
数年前に出席した式典で王妃にそう言いがかりをつけられたことがあったため、私は基本的に王宮内では剣を持たない。このような式典では護衛でもあるオズワルドさえ置いてくる。
だが、今回はそれが裏目に出た。いや、私が丸腰になると知っているからこそ、セドリックはこの舞台を選んだのだろう。
それでも、咄嗟に近くのテーブルからナイフを取り、兵の剣を受け止める。この状況ではこれ以上議論を交わすことはできない。おとなしく投降したところで濡れ衣を晴らせるとも思えない。
(どうすればいい?)
ただの食事用ナイフではどうあがいても不利だ。そのうえ盗賊討伐において負った足の怪我を庇いながらでは、長期戦はできない。
鍔迫り合いをしている合間に、別の兵の槍が延びてくる。受け止めていた剣を跳ね上げ、槍の攻撃を避ける。がら空きになった相手の胴に肘を叩き込み、続けてその首の後ろをナイフの柄で殴りつける。相手がどっと倒れるのを視界の端で確かめ、背後から振り下ろされた次の兵の剣をいなしながら、考えを巡らせた。
まずここから脱出することが先決。だが、私を匿ってくれる者などいるか?
王妃暗殺の疑惑がかかった人間を受け入れ、国王代理を担う王妃と次期国王の座に近い第二王子を敵に回す。そんな人物に、心当たりなどない。
兵たちの隙間から、パーティーに参加していた人々が避難していくのが見える。それに紛れるように、ディアナがセドリックの護衛に付き添われ、会場を後にするのが目に入った。
「ディー……ッ!」
思わず呼び止める。
この状況下でも、己を信じてくれる可能性がある人物。この場にいる中で、ディアナしか思い浮かばなかった。
ほんの数分前に告げられた、婚約破棄がなかったら。
「……っ、」
婚約者だったはずの人の名を叫びながら、しかしそれ以上は言葉に詰まった。
先ほどの青ざめた表情。ディアナは、セドリックがこの場で私に王妃暗殺の濡れ衣を着せることは知らなかったのだろう。
しかしだからこそ、ディアナ本人が告げた婚約破棄、そしてセドリックと交わした愛はディアナ自身の意志であり事実なのだと思い至る。
約十年という婚約期間。ディアナとは手紙やメッセージカードを送りあうことくらいあった。当然、私の筆跡も見知っているだろう。それなら、私本人さえ自分の筆跡だと見紛うようなあの手紙があれば、私の不貞を疑う理由はない。
だとしたら、ディアナにとって私は裏切り者も同然。騙されているのだ、と今の自分が言っても説得力などない。
信じてもらえるはずが、ない。
ディアナが振り向いた。ほんの一瞬、視線が絡んだ気がした。けれどディアナは両脇を固める護衛に押され、廊下へと通じる扉の向こうへ消えていく。ディアナを追おうとした私の動きは、兵が振るう剣によって止められた。
「道を空けろ……っ!」
振り下ろされる剣をナイフで受け止める。手首を返して力を受け流し、相手がバランスを崩したところで足を払って倒す。
もう一度扉を見やる。既にディアナの姿はない。代わりに、新たな兵が入ってくる。
「怯むな! 第二王子殿下の命だぞ!」
「王妃殿下を害する不届き者に裁きを!」
兵たちの怒号が飛び交う。剣が、槍が、私に迫る。
幾度も攻撃を受けたナイフの刃が、ついに折れた。
「ちっ……!」
これでは使い物にならない。周囲を見回す。テーブルの上に、切ったオレンジが盛りつけてあるのが目に入った。それをつかんで、襲いかかってくる兵の顔に投げつける。
「目がっ!」
悲鳴を上げて顔を覆った兵の手から剣をひったくり、折れたナイフを投げ捨てる。
奪った剣で立ち向かう。兵が数人、それぞれ三合ともたず倒れていく。
どっ、と兵士たちが倒れる音が連続し、残る兵士が狼狽えた。
「っ、強い……」
「無能じゃなかったのか!?」
ざわめきと共に、兵たちの動きが鈍る。
私も足を止め、剣を構えたまま荒く息をついた。
それにしても、兵の数が多い。あらかじめ大広間周辺に待機させていたのだろうか。それだけセドリックの本気が窺える。
汗がこめかみから頬を滑るのを感じる。
(……まずいな)
足の傷が開いた。じくりとした鈍い痛みが、だんだん無視できないほどに鋭くなってくる。
「せめて、」
オズと合流できれば。その言葉を飲み込む。おそらく無理だ。そう、じわじわと迫ってくる絶望と共に思う。あの側近は優秀で、剣の腕も立つ。しかし、私の右腕とも言えるあの男を、セドリックが見逃すはずはない。きっと今ごろ、私と同じように兵士に囲まれているだろう。
状況を打開できる方法がない。やはり、このままこの兵士たちを突破するしかない。覚悟を決めて、剣を握り直す。兵の包囲網が少しでも薄いほうへと足を動かそうとした。
その瞬間。右の肩に、背後から何かがぶつかったような衝撃があった。衝撃はたちまち激痛へと変わる。
「っ、ぐ……!」
耐えようとして、それでも耐えきれず声が漏れた。足の痛みも相まって、その場にがくんと膝をつく。反射的に右肩に触れた手が血で濡れた。同じく血に染まった金属片に触れる。
それが、私の肩を貫通した矢じりであると認識する。
「矢、だと……?」
いくら大広間が広いとはいえ、屋内で矢が飛んでくるとは想定していなかった。
「いったい、どこから」
二撃目を警戒し、立ち上がりつつ矢が来たと思われる方向を振り仰ぐ。それすら許さないというように、動き出した兵の剣が迫る。
咄嗟に剣を掲げるも、肩の矢のせいで上手く腕に力が入らない。これまでのように相手の攻撃を受け止めることができず、金属音とともに剣が手から弾き飛ばされる。
「っ……!」
剣を失った私の首筋に、兵の剣や槍が多方面から突きつけられる。
なす術は、もうどこにもなかった。




