セドリックの焦燥 前編
セドリック視点になります。
(一体どこに行ったんだ、兄上……!)
エンフィールド公爵家から王宮に戻る道中、セドリックは苛立ちを抑えられず舌打ちする。王族用の豪奢で揺れの少ない馬車の中で、その踵がかつかつと床を叩く音だけが響いていた。
王宮から姿を消したギルバートの手がかりを得ようとディアナのもとを訪れたのに、何も情報は得られなかったのだ。
(まさかディアナが、何も知らされていないなんて)
ディアナは公爵令嬢として、内心を表に出さないよう教育されている。それでもディアナは根が素直だ。ギルバート失踪を告げた時の衝撃を受けた顔に嘘はないように見えた。
(いっそ、一昨日の時点で行動すべきだった? いや、でもそれはさすがに根回しが足りなかった)
セドリックがギルバートに最後に会ったのは一昨日だ。王宮の、王族専用書庫の近くで。
『お前、大切な人はいるのか』
いつも淡々としている異母兄が妙に強張った顔で、セドリックにそう問うた。脈絡のない唐突な問いの意味はわからなかったが――例え相手が誰だろうと、その問いにだけは嘘がつけなかった。
『いるよ。何をおいても優先するくらい、大事な人』
それが良くなかったのだろうか。ギルバートは引き攣った表情で立ち去ろうとして、最後に言った。
『あまり、危険なことはするな』
と。
やはりあのとき、ギルバートは書庫から出てきたところだったのだろうか。
ぎり、とセドリックは歯を食いしばった。
だとしたら、あれを見られた可能性がある。まだギルバートがイザーク侯爵領にいると思っていたから油断して片づけ損ねていた、一冊の記録。
一昨日ギルバートが去った後に書庫に入ったセドリックは、文机にその記録が置きっ放しになっていたことに気づいて、血の気が引いた。異母兄の意味深な台詞の理由がわかった気がした。
(兄上があれを読んだのなら。そうだとすると、どこまで気づかれた?)
もしもそのせいで姿を消したのなら、とセドリックの疑念は徐々に大きくなっていく。しかしそれなら、誰にも何も言わなかった意味が分からない。直接会ったのにセドリックを追及することもなかった。そもそもあの資料を見たのなら、証拠として持ち去ればいいはずだ。
でもあれを見ていないなら、何故ギルバートは姿を消したのか。婚約を解消し、内密に学院の卒業資格を得てまで。
「何を考えているんだ、兄上……」
ギルバートの考えが読めず、気味が悪い。
それでも、このまま放置するわけにはいかなかった。
エンフィールド邸は王宮からも近い。セドリックが思考にふける間もなく到着してしまう。
「おかえりなさいませ」
内心の焦りを完璧に隠して馬車を降りると、待機していた側近たちが並んで頭を下げた。セドリックは足を止めずに話しかける。
「母上は? 先触れを頼んだはずだけど」
セドリックに付き従い共に歩き出す侍従のうちのひとりが答えた。
「はっ。王妃殿下でしたら、セドリック殿下がお戻りの頃にはお時間が取れると仰せでした」
「そう。なら今から行こう。母上はご自分の部屋にいるんだろう?」
(どうせ母上はいつも暇だろうに、思わせぶりなことを)
胸の内で吐き捨てながら、セドリックは穏やかに返す。そのまま本宮最奥のジャネットの私室に足早に向かった。
その道すがら、セドリックは付き従う側近たちに指示を出す。
「護衛のうちふたりは僕が出てくるまで母上の部屋の前で待機。あとの者は僕の執務室に戻ってディアナ嬢の警護体制を考えておいて。人員はブランク以外なら好きに使って良いよ」
「エンフィールド公爵令嬢の警護、ですか?」
護衛のひとりが、疑問を覚えたように主の言葉を反復する。セドリックは頷いた。
「彼女は僕の婚約者に内定したんだ。今までその座を狙って何人のご令嬢が僕の周りをうろうろしていたと思う? そんな令嬢たちのやっかみからは守らないとね」
ディアナはこれまでギルバートの婚約者だった。そのため、セドリックの婚約者の座を欲する家や令嬢からは警戒の対象ではなかった。しかし今回その立場が変わったことで、各貴族家がどのような反応をするのか読み切れない。
(まあ、それだけではないけど)
「ディアナ嬢に窮屈な思いはさせたくないから、本人には内密にね。今後は彼女に接触した人物がいたり、彼女が外出したりしたら僕に報告して」
「はっ。かしこまりました」
「じゃあ頼んだよ」
セドリックの指示に従い、護衛ふたりを残して他の側近たちが散っていく。
王妃ジャネットの部屋の前には、扉を守るように兵士がふたり立っていた。近づくセドリックに気づき、さっと敬礼する。
「ご苦労さま。母上は中に?」
「はっ、少々お待ちください」
兵士の片方が応じ、扉をノックする。先触れが通っているからか、すぐに扉は細く開いた。ジャネットの侍女のひとりが現れ、セドリックの姿を認めて一礼する。
「王妃殿下がお待ちでございます。どうぞ中へお入りください」
侍女の案内でセドリックはジャネットの部屋に足を踏み入れる。必要以上に華美に飾り立てられた部屋。調度品も装飾品もひとつひとつは高価なのに、どれもが派手で互いの良さを殺しあっている。
そんな品のない部屋で、王妃ジャネットは上機嫌で紅茶のカップを傾けていた。ちらりとセドリックを見やって笑みを深める。
「あらセドリック。聞いたわ。あれがいなくなったんですって?」
ジャネットはギルバートのことを決して名前では呼ばない。いつも、ただの物のように「あれ」と呼ぶ。
「……まさか、兄上がいなくなったのは母上の仕業ですか?」
急な婚約解消の理由もディアナはギルバートから聞いていないようだった。ただ、セドリックの側近のうちのひとりに官僚の息子がいる。ギルバートがジャネットとエンフィールド公爵に婚約の解消を願い出た謁見の一部始終は、又聞きにはなるがその側近から聞いた。
『兄上が、君を僕の婚約者に推薦したのに?』
昨日、そうディアナに訊いたことは嘘でもなんでもない。ギルバートは居並ぶ官僚の前でジャネットに平伏し、ディアナの努力を無駄にしないように願ったと聞いた。
仮にも第一王子であるギルバートとの婚約を解消したディアナの名誉を守るには、同じく王族であるセドリックとの婚約を進めるのが最も確実だ。それを、あのギルバートが気づかないはずはない。ディアナとセドリックが婚約を結ぶことになるとわかっていて、ギルバートはその発言をしたはずだ。
ディアナに何か探らせようとしたのかとも思ったが、昨日今日話をする限り、ディアナがギルバートに指示を受けているようには見えなかった。
(……兄上がディアナを利用するとも思えなかったけど)
そういう意味では予想通りとも言えたが、だからこそギルバートの行動の意味がわからない。
セドリックに疑惑の目を向けられ、ジャネットは不快そうに表情を歪めた。カップを置き、手を軽く振って侍女たちに退室を命じる。侍女はセドリックのためにカップに新しく紅茶を注ぎ、それをジャネットの正面の席に置いてから、一礼して部屋を出て行った。
人払いがなされ、セドリックとジャネットはふたりきりで会話を続ける。
「一昨日の、謁見の間でのことは聞き及びましたが?」
「普段とそう変わらないことしかしていないのに、嫌ねえ。そもそもいなくなったのは本当なの? あれは平民好きだもの、どこかその辺にいるでしょう」
「兄上は外出や視察に出向くとき、母上に申請書を提出しているでしょう。そうでなかったらあの離宮か、そうでなくても王宮の敷地内にはいましたよ。無断でどこかに消えるなんて初めてだ」
もともとはジャネットがギルバートにそうするよう命じたはずだ。ただ、いつからかその申請書はセドリックが承認を出すようになっていた。ギルバートの行動が把握できて便利だったから、今までは何も言わなかったが。
もしかして、とセドリックが嫌な予感を強めると、案の定ジャネットはそんなことなど忘れていたらしく視線を一時彷徨わせた。
「あら? そうだったかしら。あれも律儀だったのねえ。いちいちそんなことをしていたなんて。……セドリック、あなたも座りなさいな。このお茶、ガスタから取り寄せたのだけどなかなか美味しいわよ」
ジャネットはギルバートの失踪をまったく問題視していない。それどころかその行動に関心すら寄せていない。それがわかって、セドリックは苛立ちによるため息をついた。
「捜索隊を出しましょう。兄上に万一のことがあったら」
数歩詰め寄ってセドリックが言い募ると、ジャネットは面倒臭そうにセドリックに視線を戻した。
「何をそんなに怖い顔をしているの。本当にどこかに消えてくれたならそれで良いじゃない。お楽しみとしては弱いけれど、野垂れ死んでくれたらこちらの手間もかからないし。これでセドリック、あなたが次の国王になるのに何の障害もないわ」
「母上の執務を兄上がしていたのでしょう。兄上がいなくてどうするおつもりですか」
「まあ」
ジャネットはセドリックの心配を一蹴した。
「あれが十三の子供の頃からやっていたものよ? わたくしに出来ないはずがないでしょう」
「……本気ですか?」
まさかここまで母が愚かだったとは。セドリックは眩暈すら覚えるようだった。
国王代理の執務が、そんな楽なもののはずはない。かつては隣国の第三王女として甘やかされ、今もろくに執務をしないこの母親は、きっと執務の大変さを肌で感じたことなどないのだろう。
ギルバートに押し付けておけば仕事は勝手に片付いており、ジャネットは完成された書類に判を押すだけだったのだから。
(せめてあと一年、いや半年でもいい。もう少し時間があれば……!)
成人までに、今後は少しずつ執務をセドリック自身やセドリックの息のかかった官僚や文官に回し、ギルバートがいなくても滞りなく国を運営できるようにしていくつもりだった。ギルバートにもジャネットにも気づかれないように。
しかし、その根回しが完了していない今、引継ぎもなしにギルバートにいなくなられたら、遠からず国政は止まるだろう。運良く止まるまでいかずとも、必ず支障が出てくる。
それだけギルバートが抱える仕事量も、それをこなせていたギルバートの能力も尋常ではなかったのだ。セドリックは、数時間前に見た異母兄の卒業認定試験の答案を思い起こす。
(答案公開を許可するべきではなかったな……ラルフも余計なことを)
カーク侯爵子息の言いがかりが王家の権威にまで及ばなければ、許可を出しはしなかった。
(いや、でも)
ギルバートが、あれほど本気で試験に臨んでいたとは思わなかったのだ。掲示された解答用紙に並ぶギルバートの整った文字。あれを読むだけでセドリックはぞくりと総毛だった。
あの場では他の生徒たちの手前、誤魔化した。無論合格基準に達する自信はあるが、それでもギルバートのあの一問目の解答はセドリックにはできない。
セドリック自身も努力を重ね、国政に携わってきたからこそ、ギルバートとの能力差が痛いほどわかったのだ。
「それにしても、あなたはずっとあれを兄と呼ぶわね。亡き陛下の血を分けあったとはいえ……。優しい子ねえ」
状況もわからず呑気に言うジャネットに、セドリックは耐えられなくなった。
「母上こそ。兄上を厭うのはわかりますけど、あまり露骨に態度に出し続けるのもどうかと思いますよ。……では、僕はこれで」
「あら、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
これ以上ジャネットと話していても埒が明かない。ギルバート捜索のために騎士団を動かす許可をもらいに来たのだが、しばらくは独断で動くしかなさそうだった。
引き留めようとするジャネットをセドリックは黙殺し、そのまま部屋を出た。
(せめて、兄上がどこに行ったかがわかれば)
「行くよ」
「はっ」
待機していた護衛たちに声をかけ、自分の執務室に向かう。同じ本宮にあるセドリックの部屋はここからそう離れておらず、数分もしないうちに辿り着く。
執務室に入ると、側近たちが忙しく立ち働いていた。
「お戻りですか、殿下」
「うん。警護体制の構築はどこまで進んだ?」
誰にともなく尋ねると、侍従のひとりが「こちら、叩き台で恐縮ですが」と紙を一枚差し出してくる。セドリックはそれを受け取ってさっと目を通した。
「……問題ないね。じゃあこれでお願いするよ。あと、さっき兄上の離宮から持ってきた書類は?」
学院から戻ってエンフィールド邸に行く前に、セドリックはギルバートの住まいである離宮に足を運んでいた。そこでギルバートの不在を知った。その玄関に積まれていた書類の山を侍従に持ち帰らせ、仕分けるよう頼んでいたのだ。
「こちらにありますが、国王代理の……王妃殿下の判が必要なものがかなり多く含まれていました。何故これらが第一王子殿下のお住まいに……?」
執事が首を傾げながら、優先度順に分けられた書類の束を示した。
セドリックには予想通りだったが、やはり王妃がギルバートに押しつけた書類だったらしい。あんな敷地の端にある離宮にジャネットが直接足を運ぶはずはないから、全部わかっていてジャネットの命令に従っている者もいるはずだ。
(母上が使えないことを知っている者は、今は少ないほうが良いな)
ジャネットに仕える者たちもひと通り洗い出しておいたほうが、後々役に立つかもしれない。
そんなことを考えながら、セドリックはまったく違うことを口にする。
「さあ? 何か自分の手柄にしたかったのかもね。もしくは僕たちを困らせたかったか……。ほら、兄上の評判は皆も知っての通りだろう? それにしても、そんな重要書類を玄関先に放置するなんてね」
風に飛ばされないよう石が乗せられ、どう見ても離宮を訪問した者が置き去りにした書類だったのに、側近たちは誰もセドリックの言葉を疑わなかった。今さらながらに、“無能王子”の呼び名がどれだけ深く浸透しているのかを知る。
納得して作業を再開する側近たちを横目に、セドリックは渡された書類の束をめくる。
(……早まったかな)
習慣でついああ言ってしまったが、悪手だったかもしれない。あの卒業資格認定試験の答案が公開された以上、ギルバートの本当の実力は学院生徒たちから徐々に広まっていくはずだ。
今後は“無能王子”の二つ名を言い訳に使うのは控えたほうがいい。むしろこちらはギルバートに騙されていたのだと、これからはそのように印象操作をしていかなければ。
するべきことが多い。そうでなくとも、もう時間はそれほど残されていないのに。
(っ、焦るな)
セドリックは自分に言い聞かせる。
ギルバートは聡明な人間だ。こちらが焦れば焦るほどその隙をつき、捕らえることは難しくなる。
(逃がさないよ、兄上)
書類を確かめるふりをしながら、セドリックは今どこにいるかもわからない異母兄に意識を向ける。
(僕には、あなたが必要なんだ)
思わず手に強く力が入り、持っていた書類の端を握り潰した。ぐしゃ、と紙の束が歪む。
(彼女のためにも――ここで諦めるわけにはいかない)




