幕間 バートという青年
「ケイティ、やっぱり来週にしないか? そうしたら俺も手が空くから、」
「もう、しつこいわよ。大丈夫よ、何回も乗っているんだし。今日出発する予定にしてたじゃない」
縋りつく夫を振り払いながら、ケイティはジェイの手を引いた。
「俺に急な仕事がなければ一緒に行けたのに……っ!」
「父ちゃん、しつこい男は嫌われるって、隣のばあちゃん言ってたよ?」
「ううっ……」
息子の言葉に追撃され落ち込む夫を置いて、乗り合い馬車乗り場に向かう。
夫の心配もわかる。互いに身元の分からない乗客たちと長時間共に馬車に揺られるのだ。そのうえで、目的地までに一泊野営する必要があるこの行程は女子供だけ、しかも身重では、無謀と思う者もいるかもしれない。
(でも、生まれた村に帰るだけだもの)
それにこの経路は、十数年前に盗賊団が国王主導で徹底的に討伐されて以降、治安も良い。
(王様に感謝しないとね。そういえば、次の王様って来年決まるんだったかしら)
御者に切符を見せて、馬車に乗り込む。他の乗客は男ばかりだった。予想していたことなので、そのまま空いた場所に座る。
正面に座るのは簡素な外套を羽織った若い男のふたり組だった。傭兵を生業にでもしているのか、脇には剣が立てかけられている。ただ、傭兵というにはどちらの男も線がやや細いように見えた。しかもひとりは馬車内にも関わらず外套のフードを目深に被っている。
そのせいか、その青年は妙にケイティの目を引いた。
「わ、動いた動いた!」
「ジェイ、静かにね」
たまたま同じ馬車に乗り合わせただけの他人同士。余計な詮索をしないのは暗黙の了解でもある。
進みだした馬車にはしゃぐジェイを宥めながら、ケイティは敢えて正面のふたり組から視線を外した。
初めは幌の隙間から外を眺めたり、石に乗り上げて馬車が大きく揺れるたびに驚いていたりしていたジェイも、夕方が近づく頃にはすっかり飽きていた。
「母ちゃん。俺、退屈……」
長時間の揺れによる疲れもあるのだろう。ぐだっともたれかかってくるジェイを支えるように、ケイティはそっとその小さな肩を抱いた。
「ふふ、仕方のない子ね」
他の乗客の迷惑にならないよう、小さめの声で、ジェイお気に入りの物語を諳んじる。ジェイは建国伝説に出てくる竜退治の英雄が大好きだ。だから文字をすらすらとは読めないケイティも、この話だけは頑張って覚えた。もともと有名な物語で、あらすじは知っていたから助かった。
「今から千年前、どこからともなく竜が現れました。竜は人々を襲い、田畑を荒らし――」
何度も聞いているはずなのに、ジェイは毎回どきどきしながら物語に聞き入ってくれる。その様子が愛おしい。
(この子もお兄ちゃんみたいになるのかしら)
そう思いながら、目立ち始めたお腹を撫でる。ケイティが撫でたことに気がついたのか、お腹の中の赤子もぽこ、と動いた。
「お目覚めですか?」
「ああ。現在地は?」
ふと、正面のふたり組が密やかに交わす会話が、何となしに耳に入った。うたた寝をしていたフードの青年が起きたらしい。
「少しはお休みになれましたか?」
「……いや、あまり」
眼鏡の男の問いに、フードの青年が躊躇いがちに答える。
(うるさかったかしら)
そうでなくても馬車は揺れるし、車輪は回るたびにがたがた音を立てる。それでも女子供だけで旅をする以上目をつけられたくはなく、ケイティは念のため声の大きさをもう一段階落とした。
(それにしても、変な人たち)
囁き声の会話は、もう内容までは聞き取れない。それでも、フードの青年は成人しているかも怪しい年頃なのは声やフードの下に部分的に見える顔立ちからわかる。
そんな青年が落ち着いた口調で話し、年上らしい眼鏡の男に丁重に扱われているのは奇妙に見えた。
(訳ありならなおさら、関わらないほうが良いわ)
そう思って、ジェイへの語り聞かせに集中する。
「ねえ母ちゃん、英雄が竜を倒した剣って、こんなのかな?」
だからケイティは、物語を聴き終えたジェイが青年の剣に興味を示したことに焦った。急いで止める。
「こらジェイ、他人様の荷物を指さすんじゃないの」
家の近所で顔見知りに話しかけるのとはわけが違う。見知らぬ子供に突然絡まれたら不快に思う人間もいる。狭い馬車の中で相手を怒らせたら逃げ場はない。
(やっぱり予定を変えるべきだったわ)
せめて夫がいるときなら良かった。夫は温厚な性格のわりにがたいが良いので、こういったときに相手を怯ませてくれるので便利なのだ。
「ええー」
ジェイはケイティの心配など気づかず、不満そうに頬を膨らませた。
「だってかっこいいじゃんかあ……」
それでも駄目よ、と窘めようとしたとき、フードの下から意外なほど穏やかな声がかけられた。
「持ってみるか?」
「いいの!?」
喜びの声を上げたジェイに、青年が顎を引くようにひとつ頷く。むしろ、青年の隣に座る眼鏡の男のほうが難色を示した。
「バート様」
咎めるように名を呼んだ男に素早く何かを囁き、バートと呼ばれた青年は脇に置いた剣に包帯の巻かれた手を伸ばす。
「ただし、持つだけだ。絶対に鞘から剣を抜くな。それはまだ君には早すぎる」
「うん!」
バートの淡々とした念押しに、ジェイが即座に頷く。ふっと笑って、バートは少しだけ口角を持ち上げた。
「あの、良いんですか?」
ケイティは慌てて問うた。彼らが本当に傭兵なら武器は商売道具であり、かつ持ち主の身を守るためにある。こんなに気軽に他人、それも子供に貸し与えるものではないはずだ。
「今の約束を守れるなら構わない」
それを、この青年は『鞘からは抜くな』とジェイの安全のための条件を付けただけで行おうとしている。
「重いぞ。しっかり掴むといい」
バートはそう言って、慣れた手つきで剣を扱い、ジェイに持ち手の部分を差し出した。ジェイが剣を握ったことを確かめてからそっと手を離す気の遣いぶりだった。
(悪い人ではなさそうだけど)
その様子に少し安堵して、ケイティは剣に夢中になっている息子を眺めた。他の乗客に褒められて照れるジェイは、幼い男の子らしい生意気さもあれど、ケイティにとってはそれすら可愛い。
そのとき、がたん、と大きく馬車が揺れ、ジェイがバランスを崩した。
「ジェイっ、」
ケイティは咄嗟に立ち上がろうとしたが、赤子の入った大きなお腹を抱えていてはすぐに動けない。まずいわ、と思った瞬間、目の前の青年の体がさっと動いた。
「大丈夫か?」
バートが片手でジェイの体、もう片方の手でジェイの掲げた剣の鞘を支えていた。そのおかげで、ジェイはその場に踏みとどまる。
「すみません、ありがとうございます。……ジェイ、そろそろ剣をお兄さんに返して」
生まれ故郷につながる道だ。何度か乗り合い馬車の経験のあるケイティには、今の揺れが領地の境界にある橋に差し掛かったからだとわかった。まもなく今日の野営地に着く。
「はあい」
短時間とはいえ剣に触れ、ある程度好奇心が満たされたからか、ジェイは駄々をこねることなく素直に剣をバートに手渡した。ジェイが両手でどうにか持ち上げている剣を片手で受け取り、バートはちらりとケイティを見やる。
「……不躾なことを聞くが、馬車の揺れは……その、大丈夫なのか?」
「えっ?」
どこか躊躇いながらの、唐突な問いだった。フードに隠れた目がケイティの腹部に向けられたのが、僅かに傾いだ首の角度でわかった。不躾、と言いつつ、声音にも視線にもケイティが不快に感じるようなものはなく、純粋に胎児への影響を案じているようだった。
まだ成人前後の年齢だろうに、この青年がそんな知識を持っているのが意外でもあった。
ジェイがお腹の中にいた頃、夫とともに営む雑貨屋の荷運びをしていたら、近隣の出産経験のある女性たちから『妊婦が重い物を持つんじゃない!』と夫婦揃って叱られたことを思い出す。あのときはケイティよりも夫のほうが卒倒しそうな顔色をしていた。
「これくらいなら、何とか」
懐かしい思い出が蘇って、だからかケイティも素直にそう答えていた。
「もっと早いうちに里帰りしておきたかったんだけど、先週までつわりがひどくて」
ジェイのときはそうでもなかったのに、今回のつわりは長引いた。お腹が目立つ頃まで吐き気が収まらず、そのせいで里帰りの予定が延びた。心配する夫を説得してまで帰っているのは、これ以上遅くなると帰る前に産まれてしまう可能性があるからだった。
抱きついてくるジェイと、新たな命の宿る腹を撫でる。
バートは、そうか、と呟いた。
「……それなら良い。余計なことを聞いてすまなかった」
端的にそれだけ言って、バートは剣を先ほどまでのように脇に立てかけ、もとの位置に座り込んだ。
何故か宴会になってしまったその日の夜。眠っていたケイティは体を揺すられ目が覚めた。
「母ちゃん、俺おしっこしたい……」
むにゃむにゃと寝惚けた声で言うジェイに、自分もまだどこかはっきりしない頭で、やっぱり、と思う。普段なら寝る前に済ませておくよう言うのだが、乗客たちに可愛がってもらった宴会が楽しく夜更かししたジェイはそのまま寝てしまったのだ。
仕方ないわね、と体を起こそうとしたとき。
「餓鬼が起きたぞ!」
不穏な声がした。周囲を見ると、粗野な雰囲気を持つ男たちが何人も野営地に立っている。
月明かりがあるとはいえまだ夜中。暗くてよく見えないが、乗客にこんな人たちはいなかった。
(な……何なの!?)
「制圧する! オズ、連中の移動手段を押さえろ。ただし民の命が最優先だ!」
ケイティが状況を理解する間もなく、少し離れたところから鋭い声が夜の闇を切り裂く。
近くにいる男が、悪態をついて腰の短刀を振り上げた。
「え、誰!?」
ジェイが驚いた声を出す。その息子の小さな体を、ケイティは反射的に掻き抱いた。
(切られたらきっと痛いわね。……お腹の子は、どうなるの?)
怖い。
経験したことのない痛みに襲われるだろうという恐怖。死ぬかもしれないという恐怖。夫に、もう会えないかもしれないという恐怖。
それでも、ジェイを守らないという選択肢はケイティの中にはない。
今ここでジェイを失うことが、一番怖い。ジェイを抱き寄せたまま相手に背を向け、ケイティはぎゅっと目を閉じる。
ざ、と質量のある物が地面を滑る音、がきん、と金属同士がぶつかる音が連続した。
想像していたような痛みは、来なかった。
「てめえ、起きてやがったか……!」
忌々しい声に、まだ襲撃者が近くにいることがわかる。痛みがなかったことで緩みかけたケイティの身体が、もう一度固くなる。
「お前たちの目的は何だ?」
落ち着き払った若い声がしたのは、襲撃者よりもケイティたちに近い位置からだった。
「何故ひとり客だけを選んで連れて行く?」
「誰が答えるかよ!」
あの青年だ、と数秒おいて思い至った。強張った身体を軋ませながらケイティは後ろを振り返る。
バートの姿は思ったより近くにあった。むしろ座り込んだままのケイティにはバートの足しか見えなかった。それだけぎりぎりの位置で助かったのだと少し遅れて理解する。そろり、と視線を上げる。
バートは襲撃者の振るう短刀を、危なげもなく剣で次々と打ち払う。今日の夕方、馬車の中でジェイに貸してくれた剣だ。あのときは鞘に包まれていた刃が、月明かりを鋭く弾く。
「いつからこんなことを行っている? お前たちの雇い主は誰だ?」
先ほどの宴会では口数の少なかったバートが、襲撃者を詰問している。
「てめぇこそ何者だよ……っ!」
襲撃者が焦りを滲ませた。もうひとり、襲撃者に似た雰囲気の男が近づいてくる。
(あ……そうよ、今のうちに)
まだ状況はよくわからない。それでも、バートが自分たちを助けてくれたのだということはわかった。今のうちに、ジェイを連れて逃げたほうが良いのかもしれない。
「母ちゃん……?」
胸に抱いたジェイがか細くケイティを呼ぶ。
「大丈夫よ」
移動するために、青年たちにもう一度背を向ける。ジェイを抱えたまま立ち上がろうとして、ケイティは自分が腰を抜かして立てなくなっていることに気づいた。足に、力が入らない。
人は限界を越えた恐怖に晒されると動けなくなるのだと、初めて知った。間近で繰り返される剣戟の音が、ケイティの恐怖を再燃させる。
「少し下がれるか?」
こちらに向けられた青年の声が、ケイティの耳を素通りする。ただ強く、ジェイを抱き締めることしかできない。
「大丈夫よ、ジェイ……」
何が大丈夫なのか、自分でもわからない。ジェイが怖い目に遭わないことを、ひたすら願う。
一瞬、剣戟の音が止んだ。
「バート様! ……っ、殿下!!」
バートにオズと呼ばれていた男の叫び声がした。ケイティの背後で、一際大きな金属音が響いた。何かが地面に落ちた、からんという乾いた音も。
「ずらかるぞ!」
襲撃者たちは逃げようとしているらしい。どうかそのままどこかに行って、とケイティは祈る。
「させるとお思いですか?」
オズが現れたことで、場の雰囲気が変わった。ひどく丁寧な口調で、襲撃者たちを威圧する。
冷ややかな声なのに、バートは意に介さずオズに言葉を返した。
「お前に怪我は?」
「かすり傷ひとつございませんよ」
まだ襲撃してきた者たちが残っているというのに、バートとオズのふたりはそんな会話を交わしている。
余裕ともとれるその応酬に襲撃者が激昂する。男の野太い怒鳴り声に、ケイティの身が竦む。
しかし、次の瞬間には人が倒れる音が聞こえた。ケイティはジェイを抱き寄せたまま、静かになった背後をそろりと振り返る。
立っていたのがバートとオズであることに、ほっとした。
「この連中の馬車にロープがありました。まだ余っておりますので取って参ります」
「ああ、頼む」
既に襲撃者たちは地に伏していて、バートとオズが淡々と後処理の相談をしている。バートの言葉を受けて、オズがくるりと踵を返して去っていった。
次いで、バートがケイティたちのほうを振り向く。正面に静かに片膝をついた。
「すまない。怖い思いをさせた」
バートが何故か謝りつつ、ケイティたちを気遣う。襲撃者たちを撃退してみせたというのに、得意がることも手柄を主張することもない。
「いえ、あの……その男たちは?」
「詳しくはこれから調べるが、おそらく野盗の一味だ。あなたたちに顔を見られたから、口を封じようとしたのだろう」
宴会以降外套を脱ぎ、フードに隠れていないバートの整った顔は、ひどく険しかった。
「俺が、母ちゃん起こしちゃったから?」
バートの端的な説明にジェイがようやく何が起きていたか理解し始めたらしく、震えた声でそう言った。
「違う」
バートの否定は、ケイティより速かった。
「悪いのは私だ」
「にいちゃんが?」
「バート様!」
意味のわからないバートの懺悔。ジェイの疑問と同時に、足早に戻ってきたオズから即座に叱責じみた声が飛ぶ。続けて、誰がこの事態を想定できたのかとオズが問い質し、バートは何か言い返そうとしながらも口を閉ざした。
ケイティの腕の中で、ジェイが首を傾げた。
「にいちゃんは、俺と母ちゃんを助けてくれたんじゃないの?」
「その通りです」
「オズ! 勝手なことを言うな!」
一層表情を険しくし、バートはオズに声を荒げる。襲撃者たちにすら、この青年はあれほど冷静に対応していたのに。
ただの謙遜には見えない。どうしてそこまで自分を卑下するのか、ケイティにはわからなかった。
振るわれた凶器。月光に照らされたその光景と恐怖は、ケイティの瞼の裏に焼きついてまだ消えない。バートが割り込むのがあと一秒でも遅かったら、きっと自分の命はなかっただろう。もしかしたらジェイの命さえも。
だから。
「おふたりをお守りしたのは紛れもなくバート様、あなた様です」
オズがバートを諭すその言葉に、誤りはひとつもない。
それがケイティにとっての事実でもあったから、ケイティも心からの感謝をバートに述べた。
「本当に、ありがとうございました」
(こんな一言では足りないくらいだけど)
ケイティは、ジェイを抱きしめる腕に力を込めた。このぬくもりが失われていたら、今日乗り合い馬車に乗った自分の判断を一生後悔するところだった。
「にいちゃん、ありがとう」
ジェイもケイティに合わせて、頭を下げる。
「やめてくれ」
バートは当然のように首を横に振った。深く澄んだ青い瞳で、ジェイを見つめる。
「君がお礼を言うのは、母君に対してだ」
「ははぎみ?」
きょとんとジェイが聞き返す。バートがはっと小さく息を吞んだ。
「……君の、母ちゃんのことだ」
バートはすぐに言い直した。それでも、彼が庶民が使うことはまずない言葉を口にした事実は消えない。
(何者なの……この人)
改めてそう思う。
集団で襲われても顔色ひとつ変えず圧倒し、育ちの良さを感じる語句を自然に口にし、自分以上に丁寧な言葉遣いの年上の男に命令を下し従えている。
『てめぇこそ何者だよ……っ!』
思わず浮かんだ疑問が襲撃者の男が発したものと同じであることに気づいて、ケイティは急いで蓋をする。あんな人たちと同じことを考えているなんて、何となく嫌だった。
「君の母ちゃんは、君のことをその身を盾にして守っていた。誰にでも出来ることではない。君の母ちゃんがそんな素晴らしい人であることを、誇りに……自慢に思うと良い」
そしてバートはジェイに対し、ケイティをこれでもかと褒め称えている。その淡々とした言い方が、バートが何の誇張もない本心を語っているようでケイティにはかえってこそばゆい。
「そんな立派なものじゃないわ。母親なら当たり前のことですよ」
少なくともケイティはそうだ。覚悟も何もない。愛する我が子を失いたくない、それだけのなりふり構わない行動だった。
「当たり前? ……母親なら?」
自分だって今日会ったばかりの赤の他人を当然のように守ったくせに、バートはどこか理解に苦しむようにケイティの言葉を繰り返した。
「ええ。だって我が子は宝物ですもの」
成人前後の若者には、我が子を最優先する親の気持ちはまだわからないのかもしれない。今日のやりとりだけでバートが年齢に合わない細やかな気配りが出来る青年だとわかってはいたが、年相応の部分もあるらしいと微笑ましくなった。
「……あのようなことの後では難しいかもしれないが、少しでも横になって休んだほうがいい」
しばらく黙り込んだバートが、そう言ってすっと立ち上がった。足音も立てず、静かに去っていく。背筋を伸ばした後姿が遠ざかっていくのをジェイと一緒に見送る。
ケイティは、こんなときなのに、オズのもとへ歩いていくバートの所作が綺麗なことに気がついた。足の運び方や姿勢が、ケイティが知る他の人間とはどことなく違う。
(そういえば、さっきも)
普通なら、少なくともケイティの知る範囲の男連中なら、へたり込んだ相手のために片膝などつかない。目の高さを合わせるとしても、立ったまま膝に手をついて上体を倒すか、膝を開いてそのまま腰を落とすかだ。
(あっ、だからあのとき……)
連鎖するように、馬車に乗り込んで初めてバートを見たとき妙に気になったのもそのせいだと気づく。座っているだけなのにその姿勢が妙に整っていて、それが纏う外套の質素さやフードを被ったままの異様さと合わず、ちぐはぐに見えたのだ。
そこまで気づいて、ケイティはある意味もっと恐ろしいことを思い出した。
(え、ちょっと待って)
襲撃者と戦ってくれていたバートを、オズは一度だけ『殿下』と呼んだ気がする。
学のないケイティでも、その呼称が国王以外の王族に向けるものだということくらいは知っている。
(しかも……)
第一だか第二だかは覚えていない。ふたりいる王子は同い年らしいし次期国王がどっちかも決まっていないから、王都から遠い地区に暮らす平民にとっては大差ない。余程のことがない限り出会うことのない、雲の上の人々であることに変わりはないのだから。
ただ、国民として王子たちの名前くらいはさすがに覚えている。
ウィリア王国の王子の名は、セドリックと――ギルバート。
(バートって名前……、まさかあの人、)
そしてそれなら、あの綺麗な所作も、“母君”などという言葉の選び方も、オズに丁重に扱われていたことも、初めに顔を隠していたこともすべて辻褄が合う。合ってしまう。
ケイティは、咄嗟に頭を振った。
いくら辻褄が合うとはいえ、そんな貴い身分の人物が、王都から離れたこんな場所で平民とともに乗り合い馬車に揺られているなんて考えられない。子供に剣を貸し、初対面の人々と焚き火を囲み、自ら剣を取って賊を倒して平民を救うなんてありえない。
「母ちゃん?」
ジェイがケイティを見上げた。
「……何でもないわ。お兄さんが言ってくれたように、もう寝ましょ。あ、ジェイ。おしっこ行きたいんだったわね」
ケイティは立ち上がった。時間が経ったからか、抜けていた腰も、震えていた足も、いつの間にか普段通り動くようになっていた。
「うん。……母ちゃん。守ってくれてありがと」
ジェイは気恥ずかしそうにぽつりと言う。しかし続く言葉は力強かった。
「俺、にいちゃんたちみたいに強くなる! 次は俺が母ちゃん守るから!」
「ええ? 母ちゃん、もうこんな怖い目に遭うのはうんざりよ。ジェイが無事ならそれでいいわ」
ケイティはわざと軽く言って、体をかがめてジェイの額に自分の額をこつんと当てた。
(あの人の正体が誰だろうといいわ)
人違いならそれまでだ。もしあの青年が本当にギルバート王子だとしても――こんなところにいる以上事情があり、かつ気づかれたくないのだろう。
もともと同じ馬車に乗り合わせただけ。だから、詮索しない。名前も事情も聞かない。本来はそれが当たり前だ。
(私たちの命の恩人で、ジェイの憧れのにいちゃん。そういうことにしておきましょう)
ケイティはそう結論づけて、自分の想像は胸に秘めることにした。




