来訪者
再びヒロイン視点となります。
ギルバートから婚約の解消を告げられた翌日。ディアナは園芸鋏や如雨露を手に、邸の裏手にある温室を歩いていた。
(こちらはもうすぐ花が咲くわね……この葉っぱはそろそろ摘んだほうがいいかしら)
この温室はもともとディアナの母のものだった。いくつかの小さな部屋に仕切られ、適温や生育環境が異なる植物もある程度同時に管理できる。母の存命時は色とりどりの花で溢れていたここは、今はレモングラス、カモミール、ラベンダー、ルイボス、ペパーミント……さまざまなハーブ類が部屋ごとに植わっていた。
「お嬢様、あまり根を詰めないでくださいね」
外のテーブルに休憩用のお菓子を用意していたマリアが、ひょこりと温室に顔を覗かせて心配そうな声をディアナにかけた。
「ええ、大丈夫よ。……何かしていたほうが、気が紛れるの」
カモミールの傍にしゃがむ。その花の、林檎に似た芳香がふわっとディアナの鼻をくすぐった。時期をずらしながら種を蒔いているので、芽が出たばかりの鉢もある。手が荒れないように園芸用の手袋をはめ、混みあった芽のうち小さいものを間引く。
よく咲いている鉢から花を収穫しようと鋏を手に取って、ディアナの動きが止まった。
(そうだわ、もう……)
ハーブティーを作っても、ギルバートには贈れない。
『本当によろしいのですか? 殿下に、あなた様からの贈り物だとお伝えしなくても。直接お渡しになるほうが、あの方はお喜びかと思いますが』
もう六、七年前になるだろうか。ディアナは、ギルバートの侍従オズワルドと交わした会話を思い出す。あの頃はベルナールが存命だった。ベルナールは既に病床にあり、そのため頻度は減りつつあったが、まだギルバートに耐性をつけさせる、と彼に毒を飲ませていた。
国王の命令により毒を自ら摂取するギルバートは、薄めてあるとはいえその作用によって時折寝込み、ひどいときには昏睡状態に陥ることもあった。そんなギルバートが少しでも安らげる時間を作りたくて、ディアナが自分に出来ることを模索していた時期だった。
『ええ。だってこれがギルバート様のお好みかわからないもの。これから改良していって、いつか完成したものをお渡ししたいから……申し訳ないのだけど、それまではあなたからあの方の感想を聞き出して頂けないかしら』
『ああ、そういうことでございますか』
オズワルドは合点がいったように頷き、微笑してディアナに一礼した。
『喜んでご協力いたします。あの方がどのように驚かれるのか……私も楽しみにさせて頂きましょう』
それ以来、ディアナは複数のハーブを配合して作った茶葉を、マリアとオズワルドを通じてギルバートに贈っていた。オズワルドは約束通り、ハーブティーの配合をディアナが行っていることはずっとギルバートに伏せてくれている。その上で、新しく渡す茶葉と引き換えに、その正直な感想を小さな紙にしたためてディアナに渡してくれた。
『どうやらお口に合うようです』
『ひと口召し上がって、少し首を捻っておられました。前回のほうがお好みかと』
『美味いな、と独り言のように呟かれました。これまでで一番の反応です』
『最近よく眠れる、と仰っておいでです。ご就寝前にお茶を召し上がるようになったからかもしれません』
オズワルドが伝えてくれるギルバートの反応を手がかりに、何年もかけて少しずつ茶葉の配合を調整してきた。そのおかげで、ここ一年ほどはほとんど配合を変えていない。もう完成したと言っていいだろう。
けれど、完成してしまうと今度は今さら言い出すのが気恥ずかしくなった。結局、ディアナは茶葉の贈り手が自分であることはギルバートに打ち明けていない。
昨日も、お茶会で待機してもらっている間に、新しい茶葉をマリアからオズワルドに渡してもらったばかりだった。
ディアナは立ち上がって、鋏と如雨露を置く。
「マリア、ダリエ卿からお返事は預かっているの?」
「あっ、は、はい! こちらに」
マリアを呼ぶと、マリアは駆け寄って来て折り畳まれた紙片をディアナに差し出した。
「ありがとう」
手袋を外して、マリアから紙片を受け取る。広げると、見慣れたオズワルドの筆跡が並んでいた。
『今回の茶葉も大変お喜びでした。毎回のお食事時、執務の合間、ご就寝前にもお召し上がりでございます。香りがとても落ち着くのだと。お茶をお淹れすると香りにお気づきになって、自ら執務のお手を止めて休憩なさるようになりました』
その光景を想像して、胸が締めつけられる。こうやってギルバートの反応を知るのも、もう最後になるのだろうか。
ギルバートは茶葉の贈り主を知らないはずだ。これほど気に入ってもらえているならば、これからも贈って良いだろうか。そんな誘惑が、心を揺らす。
(いいえ……駄目よ)
ディアナはひとり、首を横に振った。
いくらギルバートが知らず、オズワルドが容認しているとはいえ。王族の口に入る物を贈ることが出来ていたのは、ディアナがギルバートの婚約者であり、いずれ知られても問題にはならないからだ。
ハンカチと同じだ。その立場を失った以上、もうしてはならない。
温室内の仕切られた部屋のひとつは作業部屋にしており、植物は置いていない。ディアナはその部屋に置いた机に歩み寄った。ノートを取り出し、ギルバートの反応が書かれたオズワルドのメモを糊付けする。
いつもなら、その下に次の茶葉の作成のために、ハーブの配合を書き連ねる。いつもの癖でペンを取りそうになった手を止め……ディアナはノートをそのまま閉じた。
まだ世話をしていない鉢が残っているのに、どうしても今はその気になれない。ディアナはのろのろとした足取りで温室を後にする。
「ごめんなさい、マリア。やっぱりもう本邸に戻るわ。休憩の用意をしてくれていたのはわかっているのだけど……」
「大丈夫ですよ、お嬢様。ではお邸に戻ってからお茶にしましょう。そうですね、坊ちゃまをお誘いになってはいかがですか?」
急に予定を変えても、マリアはディアナを責めず、明るく振る舞ってくれる。普段から優しい侍女だが、いつも以上に気遣われているように思うのは、昨日馬車の中でディアナが大泣きしてしまったからだろうか。
「……そうね。そうしようかしら。ありがとう、マリア」
「いいえ! お嬢様のためなら、このマリア、何だってできちゃいますから!」
明日には学院の最終学年も始まる。そうなると、アレックスとの時間は減ってしまう。昨晩、久し振りに一緒に寝たがった幼い弟。
(今のうちに、うんと甘やかしてあげましょうか)
そう思うと、少しディアナの気が紛れた。
ふと、邸のほうから騒がしい声がした。
「お待ち下さい!」
慌てふためくこの声は、侍女長のポーラだろうか。
「何でしょう?」
マリアが首を傾げる。その間にも近づいてくる、複数の足音。
「ああ、こんなところに。突然ごめんね、ディアナ嬢」
本邸の陰から現れ、そうディアナに声をかけたのは。
「第二王子殿下……」
ギルバートの異母弟、第二王子セドリックだった。
(どうして殿下がこちらに?)
疑問に思いつつも、最上級の礼をする。セドリックは慌てたように「いいってそんなの。顔を上げて」とディアナとマリアの礼を止めさせた。
「申し訳ありません、お嬢様。第二王子殿下がおいでになるとは伺っておりませんでしたが……」
セドリックの後ろで、ポーラが頭を下げる。侍女長に過ぎない彼女では、予定にない急な来客といえど、王族を追い返すことなどできなかったのだろう。
「いいのよ、ポーラ。応接室にお茶をご用意して」
ディアナの指示に、ポーラは再度頭を下げ、本邸に戻って行った。
「参ったな。気を遣わせるつもりじゃなかったんだけど」
セドリックはポーラの背を見送って申し訳なさそうに呟いた。
「殿下。父でしたら、本日は王宮に出仕しておりますが……」
ディアナがそう言うと、セドリックはディアナに向き直る。
「いや、僕は君に会いに来たんだよ。行き違ってしまったみたいだけど、公爵に訪問の許可はもらってるから安心して」
学院で同じクラスに属し、王子妃教育でよく王宮に上がるディアナに、セドリックは普段から気安く声をかける。穏やかで柔らかな言葉遣いは、いつものセドリックと何ら変わらない。
(本当に……声だけは、よく似ていらっしゃるわ)
ディアナは改めてそう思う。
外見も、性格も似ていないのに、ギルバートとセドリックは声だけは似ている。少なくともディアナはそう思っている。
ただ他に似ているところがなさすぎるからか、ふたりが揃う場に居合わせる者が少ないからか。他の者の印象には残らないらしい。以前ディアナが話題に出したところ、マリアにすら「そうですか?」と首を傾げられた。
ディアナの考えていることなど知らず、セドリックはその赤い瞳でディアナを見つめた。
「昨日、夜になって聞いた。兄上が、君にとても失礼なことをしたと。あれだけ支えてもらっておきながら一方的に婚約を解消しただなんて……。信じられない。僕は恥ずかしいよ」
ギルバートの代わりに、謝罪に来たということか。随分気の回ること、とディアナはどこか冷めた気持ちでセドリックを見た。その気持ちが少しでもギルバートに向いていたなら、彼があんな環境で生きていく必要などなかっただろうに。
一方的に、と言いながら。セドリックの言い方こそギルバートを一方的に悪者にしている。
「兄上は、他には君にどんなひどいことを言ったんだ?」
セドリックの問いに、ディアナは首を横に振った。
「あの方が他者を悪く仰ることはございません」
そうだ。婚約を解消したいと思うくらいには、ディアナは彼には不要になったはずなのに。
昨日のお茶会はふたりきりだった。マリアもオズワルドも、普段からお茶会のときは気を遣ってふたりの会話が聞こえない位置まで下がってくれる。他に誰にも聞かれることはないと知っていて、それでもギルバートはディアナを責めなかった。婚約の解消を告げて、傷ついたような、諦めたような顔で立ち去っただけなのだ。
セドリックは不審そうに眉を顰めた。
「兄上が、君を僕の婚約者に推薦したのに?」
「えっ……?」
ディアナは己の耳を疑った。
(どういう、こと?)
ギルバートはディアナに、『自由になってほしい』と言わなかっただろうか。
セドリックはさらに言葉を重ねた。
「別の男に、それもこれまで義弟になる予定だった男に嫁げなんて、相当ひどいと思うけど」
「……わたくしは、王妃殿下のご恩情だと伺いました」
遠回しに、ギルバートからは何も言われていないと匂わせる。セドリックとの婚約は自分が望んだわけではないということも。
実際、喜ぶ父ゲオルグからは昨晩そう聞いたのだから、嘘ではない。
「そういう面もあったことは否定しないよ。実際、ディアナ嬢以外に次期王妃に相応しい令嬢なんていない。母上はそれを分かっているからね」
セドリックはディアナの言葉の意味をどこまで察したのか。ひらりと手を振って、そう微笑む。
「僕だってそうさ。正式な手続きは来月になるみたいだけど、君が婚約者になってくれることはとても嬉しいよ。……僕はずっと兄上が羨ましかったからね」
「殿下、それはどういう、」
ディアナが問い返す前に、セドリックは優雅な動きでディアナの前に膝をついた。優しい手つきで、ディアナの手を握る。
「だからこそ、兄上が君を傷つけたなら、新しい婚約者として僕には知る権利があると思う。つらいことを思い出させるのは申し訳ないけど……兄上に何を言われたのか、教えてほしい」
真剣な声と、上目遣いで熱っぽく見上げる眼差し。柔和で整った顔立ちも相まって、大抵の乙女なら顔を赤らめて慌てふためくところだろう。
ディアナの背後で、マリアが「きゃあ」と小さく黄色い声を上げようとして押し殺した気配がした。
「第二王子殿下、おやめください!」
ただ、ディアナが感じたのは、王族が自分の前に膝をついていることに対する焦りと、不快感だけだった。
セドリックに握られた手を、不敬にならないようにそっと引いて取り返す。
(ギルバート様なら)
こんな風にディアナの手を握ろうとはしない。必ずディアナに許可を求める。エスコートの際も、ディアナが手を預けるまで必ず待ってくれる。ギルバートがディアナに承諾なしに触れたのは、視察先の街に同行したとき、曲がり角から飛び出してきた通行人がディアナにぶつかりそうになったときだけだ。
少し体温の低い、しかしどこまでもディアナを尊重してくれていたあの優しい手が、ひどく恋しい。
(いいえ)
手だけではない。静かだけれどまっすぐな話し方も、時折その感情を覗かせる青い瞳も、民を思いやる実直な心も、全部。ギルバートのすべてが愛しくて仕方がないのに。
「それに、あの方は他には何も仰っておりません。ただ、『婚約を解消しよう』とだけ。お教えできることはもうございません」
噛み締めたくなる唇を動かして、ディアナはセドリックにそう伝える。
むしろ、婚約解消の理由を知りたいのはディアナのほうだ。でもそれは言えない。今セドリックを相手にそんなことを言えば、ギルバートを責めているように受け取られてしまうだろう。
「本当に?」
セドリックが、ディアナの反応を探るように目を細めた。
「本当です」
「じゃあディアナ嬢。君は、兄上の言い分に納得しているの?」
「っ、それは……」
ディアナは答えに詰まった。そう問われれば、答えは否だ。けれどもう決定したことに、臣下の身で異を唱えることなど出来ようか。
ギルバートの傍にいたいと、そう願うことが許されるとでも言うのか。
「……そろそろお茶の支度が整う頃ですわ。殿下、よろしければ本邸へ」
本心を飲み込んで。ディアナは誤魔化すようにそう言った。それに王族をいつまでも裏庭に跪かせておくわけにもいかない。
「そう? じゃあ案内を頼んでいいかな」
ディアナの言葉を信じたのか、それともこのままでいてもディアナが何も語ることはないと察したのか。セドリックはゆっくり立ち上がった。その肩口の飾り布がふわりと翻る。髪色に合わせているのか飾り布は金糸で縁取られ、差し込む日の光をきらきらと反射した。
いつも、王族として最低限の質だけを保った、装飾などない簡素な服を纏っていたギルバートを思い出す。
何をしていても、何を見ても、ギルバートのことを考えてしまう。もう隣に立てないことが、苦しいほどに悲しい。
その思いを胸に押し込めて、ディアナは決められた新しい婚約者を応接室へといざなった。




