その手を放して
2日連続更新です。ストックが尽きるまでは、極力頻繁に更新します。
オズと共に約束の場所へと向かう。
王城の本宮に近い中庭。普段私が立ち入ることはない。婚約者であるディアナと会うときのみ、この場所の使用を許されている。
国の紋章でもある竜の形に刈り込まれた植木のそばに、そのガゼボがあった。夏の終わりかけの今、周囲に色鮮やかな花は少ない。代わりに淡い色の花や繊細な形の葉をもつ花が咲き始めている。
ディアナは既に到着していて、侍女と共にガゼボの前に佇んでいた。
「ギルバート様」
ディアナがこちらの姿を認め、柔らかな声で私の名を呼んだ。その身に纏う、襟や袖口に品よくレースのついた濃い青のドレスの裾がふわりと舞う。
「ディー……」
その名が、私の口からこぼれた。
過去に戻る前、私が最後に会ったディアナは硬い表情で、赤と金のドレスを着ていた。少し微笑まれるだけで、私の瞳の色と同じ青のドレスを着ているというだけで、胸が高鳴るのがわかる。
(なんて単純な男だ、私は)
吹き抜ける穏やかな風に揺れ、陽光を弾く銀の髪。こちらに向けられる柔らかなその微笑みを、ただ見つめる。
あの暗い牢の中で、もう一度会えたら、とどれほど願っただろう。毒のせいかディアナの幻覚を何度も見た。その後ろ姿に伸ばそうとした手は、鎖の音を鳴らしながら幾度も空を搔いた。叫び続けて枯れた声で数え切れぬほど名を呼んで――ようやく振り向いてくれた、そう思った瞬間かき消えるその姿に、幻だったと気づいて何度絶望しただろう。
そんな、焦がれてやまなかった人が、微笑みながら目の前にいる。
「ギルバート様?」
立ち尽くす私に、ディアナが不思議そうに再度名を呼んでくれる。
「ディ、アナ。こちらへ」
ディー、と愛称で呼びそうになって寸前で直す。ここは過去だ。まだ、今はまだ、愛称で呼ぶ許可をもらっていない。
私はエスコートのために手を伸ばす。ディアナはその白く優美な手を、そっと私の手に預けてくれた。あれだけ焦がれたのに、こんなにもあっさり手が届くことが信じられない。
ガゼボの、ほんの数段の階段を一緒に上る。こんな幸せがあっていいのかとすら思う。ディアナの手を、離したくない。
「殿下、椅子を」
付き従うオズに耳打ちされ、はっと我に返った。慌ててディアナのための椅子を引く。かた、と小さく音を立ててしまった。
「申し訳ございません、エンフィールド公爵令嬢。主は少々寝不足でして」
オズが勝手に釈明する。いつもと変わらない、どことなく楽しそうなオズの声音に、ようやく私も普段通りの声が出た。
「オズ、お前、」
「それもこれも、殿下も今日のこの時を待ちわびておられましたので、昨夜はなかなか寝つけず」
「オズ! お前は下がれ」
私の命令に、やれやれという様子を隠しもせずにオズが引き下がる。
私とディアナが席に着いたのを見届け、茶と菓子の用意を済ませたオズと、ディアナの侍女が静かに離れていく。いつもの通り、会話が聞こえない程度の場所で待機するのだろう。
「待たせたようで、すまない」
「そんな。謝らないでくださいませ、ギルバート様。実は、わたくしも少し寝不足なのです」
ディアナはそう言って笑う。私は、その目元の化粧がいつもより濃いことに気がついた。隠されたのは隈か、涙の跡か。
「何があった?」
思わず問うてしまう。前回に、こんなことはあっただろうか。
「いいえ、たいしたことではなくて。どんなものかは覚えてはいないのですが、何か恐ろしい夢を見たのです。この年にもなって恥ずかしいですわ。起きたら目が腫れていて、今朝はマリアをびっくりさせてしまったのです」
さらりとした口調でそう語るディアナに、ひとまず深刻なことではなさそうだと胸を撫で下ろす。私は会話を続けた。
「マリア嬢はディアナを敬愛している。驚くのも無理はないな」
先ほどまでディアナの隣にいた侍女マリアは、王都の孤児院にいた娘だった。明るく器用であることから、ディアナが渋る父親を説得して侍女として引き取った。
「そのマリアの目標はダリエ卿です。あの方くらいてきぱきと働きたい、とよくこぼしておりますわ。今も質問責めにしているのではないでしょうか」
「ああ……あいつは面倒見が良い。誰かにいろいろ教えるのも、内心では楽しんでいるだろう」
一方のオズも、もともと王宮専属医を勤める家系の出身であり、貴族籍はなかった。それを、今は亡き父、当時の国王ベルナールが私の侍従にした。
さすがに平民を王子の側近にするわけにはいかず、オズは父の仲介を受け、ダリエ伯爵家と養子縁組している。ダリエ伯爵には娘がいて、オズにとってはかなり年下の義妹になるが、上手くやっているらしい。
「そういえば、ギルバート様。イザーク侯爵領で妙な病が蔓延していると伺いました。……大丈夫でしたか?」
ディアナがティーカップを置き、そう不安げに口にした。
そういえばオズも『昨日イザーク領から戻ったばかり』と言っていた。それに、確かに時を戻る前の『今日』もこうしてディアナに気遣いの言葉をもらったことを思い出す。
時を戻った私には、昨日以前の細かな時系列は曖昧だ。ただディアナに心配をかけるわけにはいかず、当時の記憶を掘り起こす。
「何人かは重篤な症状が出たが、今は快方に向かっている。もう心配は要らないだろう」
記憶通りの私の答えに、ディアナが前回と同じくほっと息をついた。
「良かった。ご無事のお戻りを嬉しく思います」
「ああ、ありが、」
礼を言おうとして、私の喉がふいに詰まった。周囲の景色が、急激に色褪せていくような錯覚に陥る。
「ギルバート様?」
「いや、何でも……」
誤魔化すために、ティーカップを口に運ぶ。しかし味などわからない。
そうだ、ディアナはあの日も。
『ご無事のお戻りを嬉しく思います』
そう言って、いつものように私を労ってくれた。その後すぐに。
『ギルバート・ウィリア第一王子殿下との婚約を、破棄、させていただきます』
そう言葉を続けたのだ。
セドリックを愛したからと。一切私と目を合わせずに。
そして、今となっては未来になるのか。しかし私にとってはつい先ほど聞いた、セドリックの言葉。
『初夜を済ませたよ。とても美しかった』
もちろん、過去に戻ってきたのだから、それはまだ起こっていない出来事だ。それでも。
ディアナが、その銀の髪を触れさせて、互いの名を呼び呼ばせて、その紫の瞳で見つめて、そのしなやかな肢体を許す相手は――私ではないのだ。
私は今まで、ディアナがいてくれたから、成人すればディアナと婚姻を結ぶことができるから、耐えてきた。どれだけ執務に忙殺されても、どれだけ理不尽を強いられても。
でも、ディアナが私の隣を望んでいないのなら。
『愛称で呼んでも、良いだろうか』
時を遡る前。私の記憶にある『今日』、私はディアナにそう申し出て、互いに愛称で呼び合う許可をもらった。ただただ嬉しかった。私にも、受け入れられる場所があるのだと。
しかし、ディアナの本心を知った今。その考えはどれだけ傲慢だったのかと、自分の愚かさを恨めしく思う。
いくら“無能”と呼ばれようと、王族である私の言葉をディアナが拒否できたはずはないのに。
「ディアナ」
ならば、同じ過ちを繰り返す前に、今回私が言うべきことは。
「婚約を、解消しよう」
私は、ディアナにそう告げていた。
「え……?」
ディアナの微笑みが、すぅっと消えていく。
「ギルバート様。それは、いったいどういう、」
「私たちはお互い、他の異性をろくに知らない。私とディアナの相性が本当に良いものなのかも、わからない」
ディアナはいつから、セドリックに想いを寄せていたのだろう。そう考えて、苦いものが込み上げる。
ディアナだけは守ると、それが私のせめてもの責任だと思っていたのに、肝心の彼女の気持ちに気づかなかったのだから。
「ですが、ギルバート様……。わたくしたちの婚約は、その、陛下のご希望だったのでは……?」
ディアナが、当然の疑問を発する。
確かに今まではそうだった。しかし、それくらいは何とでもなる。むしろ、その建前にしがみついていたのは私なのだ。
「父が死んで、もう何年にもなる。それに……あなたが選ばれた理由も、知っているだろう?」
「それは……わたくしの名の響きが、ギルバート様のお母様、リリアナ妃殿下と似ていて、陛下が『親しみがもてる』と仰ったと……」
「そんな非常識な理由で父が一方的に決めたのだ。気にしないでいい」
少なくとも一年後には、ディアナはセドリックと愛し合っているのだ。その思いで、無理矢理自分の口を動かし続ける。
「長い間、私の婚約者という立場に縛りつけてしまい、申し訳なかった。今さらかもしれないが、あなたには自由になってほしい。だから……婚約の、解消を」
ディアナが私以外を選ぶなら、私から解放しなければならない。
ディアナが、言葉を探すようにゆっくり口を開く。
「それが……ギルバート様の、お望みなら」
ディアナの答えは、承諾だった。
ずん、と腹におもりが詰め込まれたようだった。
(……わかって、いたことだ)
こうもすぐに受け入れられたことに悲しくなる。そんな資格さえ、私にはないというのに。
ディアナの顔を直視できず、テーブルに目を落とす。冷めた紅茶の水面がかすかに揺れていた。
「あなたに非は一切ない。公爵と義母には、私からそう伝える」
言いながら、これでもう愛称どころか名前で呼ぶことすらできなくなるのだな、と胸が痛んだ。
それでも。私は、父のようにはなりたくない。
相手が望まない愛を、無自覚に無理やり押しつける。そんな人間にはなりたくないのだ。
時を遡る前の今日。初めて愛称で呼び合って、頬を染めて恥じらうディアナの顔を思い出す。
『なんだかくすぐったい感じがいたしますね。でも、嬉しいです――ギル様』
きっと、今の時点では少なくとも嫌われてはいなかった。この先はその事実と、失われた未来の思い出だけで生きていく。
記憶の中の綻んだ顔と、それがもう私に向けられることがないという現実に耐えられなくなって、私は席を立った。ディアナも続いて立ち上がろうとしたのがわかったが、そのまま背を向けた。
「今までありがとう。──ディー」
もう呼ぶことは許されない、この二度目の人生では呼ぶ機会が訪れることすらないその呼び名を。
この場を立ち去りながら、私はディアナに聞こえないよう、そっと口にした。
「おや、お早いお戻りで」
「……ああ。行くぞ、オズ。マリア嬢、あとは頼む」
ディアナの侍女、マリア嬢に彼女のことを任せ、私はオズを伴って離宮に戻る。
「何かございましたか」
離宮の玄関をくぐるやいなや、オズが口火を切った。
「何か、とは?」
「それがわかればわざわざお伺いいたしません」
ディアナとのお茶会のために不在にしていたのは一時間程度。その間に玄関の前には書類が積まれていた。執務室の鍵を開け、オズが持ってきた書類の山を抱え直す。
「ですが、何かがあったことはわかります。普段であれば、お茶会の後は……まあお茶会の前もですが、お茶会の後は格別にご機嫌がよろしいので」
「……いつもの私はそれほど浮かれていたか」
「それなのに本日は、お茶会が終わった後のエスコートもなさらずに。喧嘩でもなさいましたか」
私の問いに直接は答えず、オズは書類を執務机に置いた。
私は息を吐く。隠す必要はない。むしろ今後のことを考えれば早いうちに伝えておくべきだ。もう本人に告げた以上覆すことなどできはしない。このまま進むしかないのだから。
「婚約を解消することにした」
自分で決めておきながら、その事実から目を背けたい。私は端的にそう言った。こちらの様子を窺いつつ書類を仕分けていたオズが、ぴたりと動きを止める。
「は? 今……何と?」
「何度も言わせるな、お前らしくもない。聞こえただろう」
「失礼を承知で確認いたしますが、どなたの?」
「私とディ……エンフィールド公爵令嬢のに決まっている」
今度はオズの手から書類がばさりと落ちた。私の言葉選びから、私が自ら婚約を解消したことを察したのだろう。
落とした書類を放置したまま、表情を険しくさせる。
「ギルバート殿下」
まるで、未知の言語を聞いたかのような。オズはそんな不可解な表情を浮かべていた。
「申し訳ありません。おそらく空耳かと……あり得ない言葉が聞こえましたので」
あり得ない、か。
そうだろうな。オズが知る昨日までの私なら、婚約解消など、口が裂けても言わなかった。
「エンフィールド公爵令嬢は既に王子妃教育のほとんどを終えられています。殿下との婚約がなくなれば、あの方はおそらくセドリック殿下と……!」
「それでいい。むしろ、そうなれば王妃も彼女には何もしないだろう」
まだそれほど国家機密を教えられていなくても、ディアナが王家に育てられた娘という立場は変わらない。美しく聡明で、血筋も確かなディアナを王家が手放す理由はない。王妃は嬉々として、早いうちにディアナとセドリックの婚約を整えるはずだ。
私を死に追いやったセドリックについて、正直思うところはある。しかし、後継者の座を巡る諍いは古今東西どこにでもある話だ。このウィリア家の祖先にも例がある。兄弟が殺し合うことなどおかしくはない。
私が自ら婚約解消することで、公爵家の後ろ盾を手放したと世間は判断するだろう。他の後ろ盾もなく、世間に疎まれる私は、ほぼ自動的に王位争いから陥落する。
そうなればセドリックも、わざわざ私を殺そうとはしないだろう。ディアナの伴侶としてその手を汚さずにいさせてやれる。
それに、あのディアナが、公衆の面前で私との婚約を破棄してまで選んでいた相手だ。
「ですが殿下。ここまで頑張っていらしたのです。あと一年でしたのに何故、」
「オズワルド」
私が鋭く呼ぶと、オズは言葉を止めた。
「この件について今後一切、何も聞くな。――命令だ」
今は、誰にも触れられたくない。
「しかし……!」
オズが、珍しく私の命に背き、食い下がる。疑問に思うのも当然だ。その自覚はある。オズは、私がディアナと結婚する未来を唯一の希望として日々を過ごしていたことを知っているのだから。
「エンフィールド公爵令嬢は婚約解消をご了承になられたのですか?」
しかし、そう続けられた問いに、私の頭にかっと血がのぼる。
「あの方はずっと殿下を、」
「聞くなと言っている!」
私は感情のままに叫んで、オズの言葉を遮っていた。
前回、ディアナは私に婚約破棄を突きつけた。今回も……今回だって、ディアナは私が申し出た婚約解消を、拒まず受け入れたのだ。
オズが呆然とした顔で私を見ている。私は大きく息を吐いて自分を落ち着かせた。
「……オズ。仕分けが終わったならそれを貸せ。イザーク領の件で不在にしていたぶん、溜まっているだろう」
私はオズが先ほど取り落した書類を指し示す。オズはぎこちない動きで、集め直した書類の束を私に差し出した。
「……差し出口をいたしました。申し訳ありません」
私はオズに無言を返し、書類を受け取った。
紙がめくられ、ペンが走る音だけが室内を満たす中。
私は、『あの日』以降のことを思い起こしていた。




