最期と目覚め
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「ギルバート兄上、まだ生きてる?」
唐突に、音が聞こえた。それを声だと判断し、さらにそれが自分に向けられたものだと理解するのに数秒かかった。私は、ぐらつく頭を持ち上げる。自分の身体が、ひどく重たい。
目の前にある扉の上半分についた鉄格子の向こうから、ろうそくの入ったランプをかざし、見覚えのある赤い瞳が覗いているのがかすんだ視界でもわかった。
(セドリック、か)
異母弟のセドリックだ。私が反応したことに気づいたのか、セドリックは驚いたように目を瞬いた。
「ああ、本当に生きてるんだ。……ねえ、開けてくれない?」
セドリックは見張りの兵に声をかけた。
「よろしいのですか、陛下」
「もちろん。そうしたら上で休憩してくると良い。僕の護衛もいるしね」
陛下。
異母弟がそう呼ばれたことに、私はぼんやりする頭で状況をゆっくりと理解する。
(……半年、経ったのか。あの日から)
最愛の婚約者から婚約破棄を言い渡され、異母弟に冤罪を着せられ投獄された、あの日から。
軋んだ音を立てて扉が開かれる。そこに立つ異母弟セドリックの着る衣服には翼を広げた竜の紋章が縫い取られていた。地下牢の暗闇に慣れた私の目には、ランプの明かりも、セドリックの金髪も豪奢な衣装さえも眩しい。
「うわ、ぼろぼろ。これが第一王子だって言っても、誰も信じないだろうね。ま、さすがにそろそろ死にそうって知らせが来たから見に来たわけだし」
セドリックの言葉が私の耳を通りすぎていく。
私がこの地下牢に入れられて、おそらく半年が経った。狭い牢の中でさらに天井からの鎖に手首をつながれ、歩くどころか倒れこむことも許されないまま。碌な食事も、日の光に当たることさえもなく。
誰かに話しかけられることさえ、投獄されてから初めてだった。
「ねえ兄上、何か言ってよ。毒には喉を焼くようなものはなかったはずだけど。それとも、ずっとこんなところにいたから言葉を忘れた?」
愉しそうな声だ。いつも人に囲まれていた異母弟だが、今が私の知る中で最も声が弾んでいる。
(それほど、私が邪魔だったか)
私は、王家の名に泥を塗り、そのうえ義母である王妃を手にかけようとしたことにされたはずだ。
身に覚えのない証拠に証人。反論さえ満足にできないまま捕らえられた。しかしなぜかすぐ殺されはせず、毒を飲まされながらこうして飼い殺しにされている。
幼い頃の鍛錬のせいで、私の体は多くの毒に対して耐性がある。それと王家の人間に流れる血がなければ、きっともっと早く、楽に死ねただろう。それでも頻繁に与えられている毒は体を少しずつ蝕んでいく。そろそろ死にそう、というセドリックの言葉は嘘ではない。
(もう……無理、だろうな)
生きてここから出ることも、冤罪を晴らすことも。
彼女に会うことも、きっともうできない。
『……真実の愛のためでございます』
わずかに震えた、けれど芯の通った声。あの日、彼女から告げられたその言葉を不意に思い出す。
「ディア、ナは……どう、してる……?」
とっくに呼吸は浅く、途切れかけだ。その合間を縫うように、問う。久しぶりに発する、意味のある言葉を伴う己の声に喉が痙攣する。けれどもう、咳き込む力さえない。
正面に立つセドリックの手が、ちょうど目線の先にあった。左の薬指に、銀環に紫水晶があしらわれた指輪があることに気づく。
銀と、紫。その色は、彼女の。
「……死にかけのくせに、気になるのはそこなの? 昨日、初夜を済ませたよ。とても美しかった。兄上にも見せたかったな」
少し息を飲んだかと思えば、うっとりとした口調で告げたセドリックの答え。彼女の色を彷彿とさせる指輪の存在とともに、その言葉の意味は改めて私に突き刺さった。
「そ、ぅか……」
彼女はもう、他の男の、それも弟のものになったのか。
それが彼女の真実の愛なのか。
ああ、それでも――彼女が幸せなら、それでいい。
「じゃあね兄上。せいぜい、僕と彼女の糧になってよ」
セドリックがそう言って、片手を軽く掲げた。それに応じて、後ろに控えていた黒ずくめの男がゆらりと動く。無言で、そして有無を言わせぬ力強さで私の顔を上向かせる。口にゴブレットに入った液体が注ぎ込まれた。
今までになく濃い、蜜のようなどろりとした強烈な甘さ。焦がした砂糖のような、その甘さが変質したような苦みさえある。むせ返るような花の香りがした。自力で吐き出すことも飲み込むこともろくにできず、大半は口からあふれて床に滴っていく。それでも生理的に嚥下してしまうわずかな量が喉の内側を伝う。
弱った心臓が一度だけ大きく跳ね、動きを緩慢にし始めた。己の体が芯から急激に冷えていく。視界がぼやけ、ゆらぎ、見えなくなっていく。
(……これで、おわり、か)
例え、彼女が私を愛していなくとも。もう一度、会いたかった。幸せにしている姿を、一目でも。
「ギル様……!」
十八年の、長いとは言えない人生。その最期に、愛しい声が聞こえた気がした。
◆ ◆ ◆
「……ごふっ!」
私は、急激に空気を取り込み始めた肺に驚き、飛び起きた。溺れかけていたところを引き上げられたように、噎せながら荒い呼吸を繰り返す。
「殿下!?」
その咳が聞こえたのか、長身の男が部屋に飛び込んできた。
「……は、……オズ? お前、なぜ、ここに」
オズワルド。覚えている姿と何も変わっていない。きっちり着こなした服も、黒縁の眼鏡も。怪我をしている様子もなく、健康そうに見えた。
良かった。
胸を撫で下ろす。私の唯一の側近だったから、私の投獄に巻き込まれたのではないかと案じていたが。
「無事、」
無事だったのか。そう言おうとして、途中で口を閉ざす。
(私は、死んだのではなかったか?)
幼い頃に今は亡き父王に課された、毒の耐性をつける訓練。訓練とは言うが、要は致死量には満たない量の毒物を複数回に渡り摂取して身体を慣らすというだけのものだ。
ただ、少量でも毒は毒。体に耐性がつくまでは高熱が出たり体が動かなくなったりなど、何かしらの症状が出る。一時は危なかったのですよ、と疲れた顔で言われたことは数えきれない。
何度も、何種類も行われたその経験から、自分はもう助からないと確信が持てたのだ。冷えていく体、次第に弱くなる鼓動、浅くなる呼吸、狭まる視界。今まで越えることはなかったぎりぎりのラインを越えたと。
それなのに。
今さらになって、私はあたりを見回した。申し訳程度に揃えられた黒いソファとテーブル。資料がぎっちりと並ぶ書架。それらが、背後の窓から差し込む朝日に照らされている。そして慣れた座り心地のこの椅子。
(牢では、ない)
王宮の敷地の片隅にある、私に与えられた離宮。その執務室そのままの光景だった。
「……殿下」
そんな私を呆れた目で見下ろし、オズはわざとらしく溜め息をついた。
「あれほどお仕事はほどほどにと申し上げたかと思いますが、まさか寝落ちなさるほど根を詰めていらっしゃったのですか?」
執務用の机には、私の記憶では一年以上前に承認を出したはずの治水工事に関する書類があった。
なぜこの資料が今さら。そもそもなぜ私は執務ができる状態にある?
ゆっくりと自分の手を広げ、見下ろす。傷も垢も埃もついていない、痩せ細ってもない、自分の手。数度握って開くが、自分の意思通りに動かせるし痛みもない。
「いや、そういうわけでは……」
わけがわからないながらも、適当にそう返す。
(死んだと思ったがまだ生きていて、救出された? いや、それだとしても、落ちた筋肉や体力がこんなにすぐ戻るなどありえない)
あの経験が夢だという可能性は、私の中にはない。あれほどの生々しい苦しみが、夢などであるはずがない。
では、今が夢なのか。そんな私の様子をよそに、オズは言葉を続けた。
「では、なんです? 一ヶ月ぶりに婚約者どのとのお時間がとれることが楽しみで眠れず、仕方ないから書類を片付けていたとでも?」
オズは言葉遣いこそ丁寧に繕っているものの、仮にも第一王子である私に対し、皮肉も言えば遠慮もなしに口をきく。はっきりとものを言うその性分を信頼して傍に置いているのは私自身だが。
そう、オズは皮肉は言っても、私に嘘は吐かない。それがオズワルド・ダリエという男のはずだ。
だから。
「婚約者……? まさか、ディアナなのか?」
「寝落ちた時に頭でもお打ちになったのですか」
オズが、眼鏡の奥でその緑の瞳をすっと細めた。付き合いが長いからわかる、これは本気で心配したときの表情だ。
「他にどなたがいらっしゃると言われるのです? あなた様のご婚約者は、ずっとディアナ・エンフィールド公爵令嬢でしょうに」
当然のことを告げる口調で、かつての私にとっては確かに当然であったことを、オズは言う。
「成人まで、あと一年です。お体は壊さないようお気をつけください」
「あと、一年?」
さっき私の前に立ったセドリックが身に着けていた、両翼を広げた竜の紋章。あれは国王にのみ許されるもの。そして兵士が口にした“陛下”という呼称。ならば予定されていた即位式の日は過ぎている。
それなのにオズは、まだ私が成人を迎えていないと言う。私とセドリックが成人してから次期国王を決定し、その半年後に即位式が行われるはずだというのに。
ふいに、荒唐無稽な仮説が頭に浮かんだ。
(まさか、ここは過去の世界なのか……?)
そうであれば、オズが無事であることも、目の前の書類に見覚えがあることも、ディアナが自分の婚約者でいることも、成人まで一年だと言われることも、すべて説明はつく。
「オズ……今日は何年の、何月何日だ?」
内心おそるおそる、それを悟らせないよう、短く尋ねる。
オズはいつも通りの丁寧な口調で日付を教えてくれた。
それは、あの卒業パーティーの約一年前。その日付が事実なら、今日は。
「それに昨日イザーク侯爵領からお戻りになったばかりではないですか。エンフィールド公爵令嬢とのお約束の日に間に合うように戻ってくることが出来たとお浮かれ、いえお喜びでしたでしょう。……ギルバート殿下、どうなさったのです?」
気遣いの台詞がオズからこぼれた。
まさか、本当に過去なのか。そう思いながら、とりあえずオズを誤魔化す。
「いや……寝ぼけていたようだ。随分と長い夢を見ていたらしい」
軽く頭を振って立ち上がる。体は滑らかに動く。これが現実であるという実感が強まっていく。
一度死に至り、過去に戻っているなどと、オズに言っても信じてはもらえないだろう。私自身、自分の身に起きたことでなければ信じられなかった。
「しっかりなさってください。そろそろご準備なさいませんと、お茶会に遅刻いたします」
「……そうだな。支度の手伝いを頼む」
どうなっているのかわからない。けれど、ここが過去の世界であり、私が時を遡ったというのなら。
(もう一度、彼女に会えるのか)
自分の心が浮き足立つのを感じた。




