出奔準備
第3章です。主人公視点に戻ります。
「それで、殿下。王宮を出られたらどうなさるご予定ですか?」
すっかり冷めてしまった軽食を摂った後、執務室の整理を始めながらオズが私にそう尋ねた。
「そうだな……」
戸棚に手を伸ばしつつ、私は今後の事を考えた。
正直、何も思いつかなかった。そもそも王宮を出るのはディアナを守るため、ディアナの幸せのために、私が消えるのが最も早いと判断しただけなのだから。
「ゆっくりで構いませんよ」
答えが出せない私を見かねてか、オズはそう言った。
「これまでお忙しかったのですから、急いで決められないのは当然でございますので」
棚の中を確認し終え、戸を閉じながら首を傾げる。オズの理屈が理解できなかった。
「忙しさは関係ないだろう」
「ございますよ」
オズの返答にどう返せばいいかわからない。オズの言葉には嘘がないと知っているが、これは過剰な慰めに思えた。
これが視察なら、すぐに決められるのだ。現地へのルートも、現地で何をするかも、それらにかかる日程の見積もりも。時間が足りないからこそすべて迅速に決定し行動してきた。今までそうしてきたのに、何故今決められないことがオズにとって当たり前なのか。
それに、ただ忙しかったわけではない。
婚約者の義務という名目をしても最低限しか許されなかったが、ディアナとの時間だけは私の心を休ませてくれて――。
(ああ、くそ)
自分に毒づく。戸棚に触れたままの手に力が入り、きつく拳を形作る。今後のことを考えようとしたのに、また私はディアナのことを考えている。私のこの思いは、彼女にとって迷惑で邪魔なものにしかなりえないのに。
窓際に干した、さっき中庭で濯いだハンカチに視線が向く。今日ではなくあれを受け取る前の時点に、いやいっそ五年前に、その後の記憶すらも失って戻っていたら、こんなどろどろした思いは抱かずに済んだのだろうか。
もっと簡単に、彼女を諦められただろうか。
(……いや)
すべて忘れていたなら、きっとどの時点に戻っていようと私は同じ過ちをしただろう。
それならやはり、これで良かったのだ。
ハンカチから視線を引き剥がす。今度は書架に手を伸ばす。ここに並ぶのは執務用の資料がほとんどだ。それでも念のため一冊ずつ確認していく。
(これなら全部置いて行っても……、)
そんな書物の陰に、見覚えのある冊子があった。
「……こんなところにあったのか」
そのやや厚みのある小さな冊子を引っ張り出す。明るい茶色の革表紙。以前はよく手に取っていたが、いつの間にか資料の隙間に埋もれていたようだ。
「殿下、そちらは?」
私が手を止めたことに気づいたのか、オズが尋ねる。
「母上の日記だ」
「側妃殿下の?」
「ああ、母上の遺品はほとんど父が持っていったが、これだけは残っていたんだ」
もともと隠すようにしまいこまれていたからだろう。私自身、母上の死後これを見つけたのは偶然だった。よく分からないままに開いて読み、何故母上がこれを隠していたか、幼心にも理解した。
ちらりと表紙を見せると、一拍置いてオズもああ、と頷いた。
「私も思い出しました。確か私がお仕えし始めた頃、よく読んでいらっしゃいましたよね? 母君の日記とは存じませんでした」
「見ていたのか。ああ、確かにその頃に読んでいたな」
母上の死後、狂い始めた父はやたらと私に暗殺対策を施すようになった。耐性をつけるためさまざまな毒や薬物を摂取するよう命じられ、剣の鍛錬も勉学も体罰が伴うほど厳しかった。そのうえ、父の目を盗み、細々とした嫌がらせを繰り返す王妃がいたせいで、使用人すら信じ切ることはできなかった。
王族として生まれ、民の税を糧に生かされている以上、逃げることは許されない。そうわかっていても、毎日が苦しかった。
だから、この日記を何度も読んだ。
「私が母上にしたことに比べたら、父が私にすることなど些細なものだったからな」
「は? 些細? ……あれが、ですか?」
「当然だろう。そのうえ私などを庇って母上は死んだのだから」
私は存在しただけで母上を苦しませた。そのうえ死に追いやったのだから、このくらいの罰は当然なのだと。そんな私が苦しいとかつらいとか、そう感じること自体が烏滸がましいのだと。
その事実を確かめ、自分に言い聞かせるために。
「そういえば、いつの間にか読まなくなったな……」
気がつけば母の日記に頼ることは減っていた。だからこそ、書架の片隅に置いたままになっていたのだろう。
「殿下」
何気なく日記を開こうとしたら、オズがそれを阻むように表紙を押さえた。
「オズ? 何を、……どうした、気分でも悪いのか」
顔を上げて視線をやると、オズは妙に青い顔で私を見ていた。
「いいえ、お気になさらず。……失礼いたしました」
そう言って、オズは日記から手を離す。
「ですが殿下、今は持ち出すものの選別の最中では? こういったものは片付け中に読み始めると時間がいくらあっても足りない、と相場が決まっておりますので」
いやに断固とした口調だった。
(まあ、それもそうか)
王宮を出て行く、と言ったのは私だ。それなのにその私が思い出の品をゆっくり見ようとすれば腹立たしくもなるだろう。
「……そうだな。すまなかった」
私はオズに従い、日記を開かず執務机に置いた。他の資料とは違い、個人的なものだ。置いていくわけにもいかないが、どうするか考えるのは後でいい。
それに、幼い頃に何度も読んだから、本当は今さら読み直さずとも何が書いてあるかは一字一句と言っていいほど覚えている。あの頃は幼さ故によくわからなかった内容や表現も、今なら理解できる。
この王宮での日々が、母上にとってどれほどの地獄だったのか。その末に宿った私は、どれほど母上に絶望を与えたのか。
『この子さえいなければ』
実際にそう言われた記憶はない。それでも幾度もこの日記に出てくるその言葉は、初めて読んだときから母上の声で私の耳の中でこだまする。
『この子さえいなければ、わたくしはあの人のもとへ帰れたのに』
そう嘆く母上の声が、ずっと。
ただ、いつの間にかその声は遠くなっていた。今こうして日記を見つけたのは、己の咎を忘れつつある私を、母上が戒めようとしているのかもしれない。
「……結局、私も同じだったものな」
書架の確認を終え、執務机の引き出しを開けながら呟く。
父のようになりたくないと願い、ディアナを守ろうとして、結局ディアナを縛りつけようとしていた。卒業パーティーであの光景を見るまで、一度死ぬまで、ディアナの心がどこにあるのか気づかなかった。
こうして時を遡り、ディアナを私から解放できたぶん、父よりはましか。そこまで考えて、ふと思いつく。
「オズ」
普段使いの万年筆だけは取り出して、持ち出す物に加える。再び机上の日記を手に取り、オズを呼んだ。
「どうなさいました、殿下」
「私は、この日記をベネット子爵領に届けようと思う。良いか?」
「ベネット子爵領……確か、側妃殿下の故郷ですか」
「ああ。母上の亡骸は王族墓地だ。だから、これしかないのは心苦しいが、帰して差し上げるべきだろう」
この日記に綴られているのは、私や父への恨み言だけではない。母上には、ずっと会いたいと願っていた人がいる。
未来で投獄された後のことを思い出す。毒の幻覚作用もあったとはいえ、たった半年でも私はディアナを求めて狂いそうだったのだ。何年も王宮に留め置かれた母上の苦しみは、私の比ではなかっただろう。
それに、あの父が奪うように持っていった他の遺品を子爵家に返したとは思えない。
母上が亡くなって十年以上経つ。今さら遅いかもしれない。だが、気づいたからにはせめてこの日記だけでも届けるのが、私の責務に思えた。
オズも、ベネット子爵領行きには難色を示さなかった。
「かしこまりました。ではそのようにいたしましょう」
行き先さえ決まれば、あとは簡単だ。
「ベネット子爵領に行くには、数日かかるが乗り合い馬車があったはずだな。もうここには戻らないから……オズ、食料品の処分は任せていいか」
「ええ。もとより、昨日の朝までイザーク侯爵領でしたから、こちらにはほとんど食料はありません。日持ちのするものばかりですので、出て行くまでに食べきるか、持ち出せば良いでしょう」
そうだった。ディアナともセドリックとも話題にのぼったのに、今朝未来から戻ったばかりの私には、どうにも昨日以前の日付感覚が薄い。
「ああ、ですがこちらは絶対に持って行こうかと。補充されたばかりですし、日持ちもしますから」
持ち出す予定の物はこの部屋の応接用の卓上に集めている。オズは銀色の筒をその卓に置いた。蓋を閉めていてもかすかに香る、慣れ親しんだ香り。
「オズ。お前、茶葉なんて持って行くのか?」
私の疑問に、オズは当然のように頷いた。
「はい。あなた様のお気に入りですから」
「それは否定しないが……」
そのハーブティーは確かに毎日飲んでいる。食事の時も飲むが、特に夜飲むようにしてから、悪夢も見ずよく眠れるようになった。
だが、わざわざ持ち出すほどとは。
「それほど貴重なものだったのか?」
思い返せば、このハーブティーは最初にオズが出してきた頃のものと比べ味や香りが少し違う。むしろ好みに近づいていったから何も言わなかったが、そう言えば余所でこのお茶が出てきたことはない。
「……もしかして、これはお前が?」
オズは王宮専属医の家系の出だ。薬草などにも造詣が深い。
「まさか。……まあ、ある意味貴重ではありますが」
しかし、オズは私の予想を笑って否定した。
「私ではここまでのものは作れません。ハーブを育てるだけでも場所や時間が必要です。それを複数品種のハーブで行い、適切に乾燥させ、ハーブ同士の相性や……相手の好みに合わせて配合を考え調節するだなんて根気のいる作業はなかなか」
「……毎日浪費してしまった気がするが、もっと大切に飲むべきだったか?」
オズはやけに作る際の大変さを強調する。言いたいことがあればはっきり言えばいいだろうに。
「大切にしすぎて飲む機会を失い、黴を発生させてしまうよりは毎日飲んでいただけるほうが茶葉も本望でしょう」
「さすがにそんなことにはならないだろう。お前が淹れてくれるんだから」
「いえ。あなた様なら、もったいないから今日はやめておく、などとおっしゃって、結局毎日そうなりますから」
はっきりした言い方に、反論を失う。私は誤魔化すように茶筒を開けた。柑橘に似た、すっとした香りが鼻を抜ける。先ほどこの離宮に戻ったとき、オズが淹れていたのもこのお茶だ。セドリックから漂った香りに衝撃を受けた後だったから、なおさらこのお茶の香りが私を安心させてくれた。
「……なあ、オズ」
蓋を閉めて、私はオズに問う。
「毒なのか薬なのかはわからないが……そういったものに甘ったるい花のような香りのするものってあるのか?」
聞いたところで、知ったところで、証拠がなければどうにもできない。ただ、やはりどうしても、セドリックからした香りの正体が胸に引っかかっていた。
「はい……?」
唐突な問いに戸惑ったようだったが、オズは記憶を手繰るように視線を巡らせた。
「人工的にそんな香りをつける必要はありませんので、原料由来でしょうね。ただ、花が咲く薬草や毒草ならいくらでもございますが……摂取する際にも強い香りがする、という意味でよろしいですか?」
「ああ」
「そういうことでしたら……ご期待に添えず申し訳ございませんが、私の知識にはありませんね。花を煎じて作る薬もあるにはありますがあまり香りは強くありませんし、甘い香りでもありません」
そこまで答えて、オズが怪訝そうに私に視線を戻した。
「それがどうかなさいましたか?」
「いや、心当たりがないならいい。作業に戻ろう」
オズでさえ、知らないのか。父の命令で多様な毒を摂取する私の世話をしてきたため、オズは薬や毒に関しては王宮の医局に勤める者たちより知識が多いはずだ。
なら――セドリックはあの未来で、私にいったい何を飲ませたのか。私は何がこんなにも気にかかっているのか。
いや、気になるのはそれだけではない。
時を遡ったこと。竜の血の力を失ったこと。これらは繋がっているのか。それとも、それぞれには何の関係もないのか。
持ち出す物を集めながら、私の胸にはもやもやしたものが広がっていく。
その夜は、ひどく夢見が悪かった。




