第4話 エントリーNo.1
その男はただ「老」とだけ呼ばれる。
香港のネオ九龍というスラム街を拠点としているそうだが、実質、そこに居住しているわけではない。
ラオはどこにでも現れる。
タイでもインドでも、中東でも、ヨーロッパでも、アメリカでも。
ラオのことを表すのに適切な言葉が見当たらない。殺し屋、というわけでもない。では格闘家かというと、表の試合に出ることはない。何でも引き受ける便利屋というわけでもない。
大金を積めば動くわけでもない。無償で働くわけでもない。
ただ、誰かが必要とするときに、ゆらりと幽鬼の如く現れ、戦いの場において猛威を振るい、そして報酬を受け取り去ってゆく。そんな都市伝説めいた存在。それがラオだ。
西洋人の血を引くハーフなのか、顔立ちは彫りが深い。銀髪に碧眼。皺の刻まれた顔には相応の年齢を感じさせる。が、それは加齢によるものか、戦いに次ぐ戦いの日々が刻んだものか、わからない。ゆえに、実年齢もまたわからない。
そんなラオは、いま、酔っていた。
行きのリムジンの中で、大量にシャンパンを飲んだからだ。
「ああ~……いい風、吹いてるねぇ」
呑気にそんなことをつぶやき、リムジンの中からくすねてきたウィスキーのボトルを傾けて、ラッパ飲みにゴクゴクとアルコールを胃の奥に流し込む。
会場内は二百名を超す戦士達が命懸けで戦っているというのに、この余裕である。
「おい! 貴様! ふざけてるのか!」
全身を筋肉の鎧で覆った、身長2メートル超えの大男が、重々しく足音を鳴らしながら、ラオのほうへと迫ってきた。
ラオはヘラヘラと笑いながら手を振る。
「まあ、まあ、そう怒りなさんな。どうだい? 僕の口がついたものだが、君も一杯やるかい?」
そう言って、ウィスキーのボトルを差し出したが、大男は憤怒で顔を真っ赤にすると、バシンッとボトルを薙ぎ払って、弾き飛ばした。床に叩きつけられたボトルは粉々に砕け、琥珀色の液体があたりに飛び散る。
「もったいないことするね。ええと、ナンバーは……65番さんかな」
「アレクセイだ! そう呼べ!」
アレクセイと名乗った大男は、名前の通り、ロシア人の風貌をしている。立派にたくわえた髭、太い眉毛、頭頂部だけ禿げている。見るからに昔ながらの豪傑、といった外見だ。
「そうか、アレクセイ君だね。僕はラオだ、よろしく」
「貴様はなんのためにここへ来た! 酒を飲みに来たわけではあるまい!」
「いやあ……興味本位? ってところかな」
「やる気がないなら、退場しろ!」
そう怒号を上げるやいなや、アレクセイは大きな拳を振るい、ラオの顔面目がけて渾身のストレートを放った。
そのパンチを、ラオはぬるりとした動きで軽やかにかわすと、いつの間にか、アレクセイの背後へと回り込んでいた。
「な⁉」
アレクセイの脳裏に、一瞬、「死」の文字が浮かび上がる。
隙だらけのアレクセイに対し、しかし、ラオは何もしなかった。そのまま放置して、戦場のど真ん中へと千鳥足でフラフラと進んでいく。
「お、おい⁉ いくらなんでも、無謀だぞ⁉」
思わずアレクセイは声をかけたが、心配するまでもなかった。
ラオの横から、ボクシングスタイルの白人が殴りかかってきたが、ラオは急にガクンッと上体を後ろへ倒して、相手の拳を軽やかに回避する。そこから流れるように、蛇の如き動きで腕を伸ばし、敵の喉笛に指突を叩き込んだ。
「けはっ⁉」
白人は喉を潰され、目を見開き、咳き込みながらよろめく。体勢を立て直そうにも、喉の急所を突かれたせいで、すぐには復帰できない。
「ナンバー1だ!」
「見ろ! 泥酔状態だぞ! 仕留めるチャンスだ!」
たちまち、無数の闘士達が群がってきた。四方八方から、突きや蹴りを放ち、ある者は組み技を使うために懐へ飛びこもうとする。
だが、それらの全てを、ラオはまったく意に介さない。一見、酔っ払ってふらついているようでありながら、巧みに体をさばき、全方位からの攻撃を紙一重で回避し、間髪入れずカウンターの攻撃を仕掛けていく。
「酔拳……か!」
アレクセイは息を呑んだ。中国拳法でも特に奇異なものとして有名な、その技を、まさかこのような実戦の場で本当に使う者がいるとは、夢にも思っていなかった。
が、ラオが使う酔拳は、映像的幻想でも、劇画的誇張でも、何でもない。
その動きの一つ一つに理論がある。経験が込められている。武を極めし者が使えば、ここまで凶悪なものになるのかと思えるほど、すさまじく鮮烈な戦いぶり。
気が付けば、ラオを中心として、闘士達が円形に包囲し、次々と飛びかかる構図が出来上がっていた。
だが、その誰もが、太刀打ち出来ない。ある者は脚の骨を折られ、ある者は内臓を破壊され、一人、また一人と床に這いつくばっていく。
わずか数十秒で、15人の闘士が戦闘不能に陥った。
みんな、ラオを遠巻きにして、近寄ろうとしない。十分に、その強さを理解して、ここで戦うのは無謀だと悟ったのだ。
あるいは、ラオと戦う自信のある者でも、いまここで彼と一戦交えるのは消耗が激しすぎると判断して、立ち向かうのを控えているのである。
その中でも、勇気あるチャレンジャーが現れた。
「あまり調子に乗るなよ、オッサン」
チャナ・ワン。
精悍な顔つきの、短髪の、肌が浅黒いタイ人の青年。ゼッケンのナンバーは2。ムエタイの野良試合で猛威を振るい、出禁になるほどの凶暴かつ最強の男。ハヌマーンの化身とも呼ばれる彼は、あまりにも粗暴で凶暴な性格から忌み嫌われつつも、ムエタイ界の至宝と呼ばれている。
早くも頂上決戦だ。ナンバー1とナンバー2同士の戦い。
戦場のまっただ中にいる者達は、その行く末を見守る余裕などない。ラオの動きを注目しているアレクセイと、真ん中のリング上で司会進行を務めるバニーガールのアリスだけが、ラオvsチャナの対決を見守っている。
「さあさあ! さっそくトップ同士の激突です! どうなることでしょう! これは見逃せませんよ!」
興奮しながらヘッドマイクで実況するアリス。
天井には多数のカメラが仕込まれている。各闘士の戦いをピックアップして映しているが、その中の一つが、ラオとチャナを捉えた。
この予選を観戦している観客達は固唾を呑んで、勝負の結末を見守っているのだが、そんなことは、戦っている本人達は知る由もない。
「シャァッ!」
鋭い気合いとともに、チャナはまずローキックを放った。相手の機動力を削ぐことが狙いだ。脚にダメージを負って、まともに動ける者などいない。サンドバッグを一撃で破裂させる、チャナの重たい蹴撃が、ラオの左ふくらはぎを捉えた。
かに、見えた。
突然、《《ラオはすっ転んだ》》。
それはチャナの蹴りを喰らってのことではない。《《わざとだ》》。本気のムエタイ戦士の蹴りは、受け流すことも、受け止めることも、不可能である。ならば、回避するしかない。
まるで酔っ払ってこけたかのような動きで、ラオはふわりと宙に飛び、チャナのローキックをかわしたのだ。
チャナは、冷静だ。二手、三手先も読んでいる。酔拳の達人と戦うのは初めてだが、ラオがそのようにトリッキーなかわし方をしてくることは、すでに想定の範囲内だった。
「シュッ!」
連撃の蹴り。不格好な形で床に倒れ込んだラオに向かって、追い討ちのローキックを立て続けに放つ。
直後、チャナの顔面に、ラオの両足がめり込んだ。
「ぐぶっ⁉」
何が起きたのか。
ラオは、通常ならありえない動きを見せた。
どう考えても、その寝転がり方の体勢から起きるのは困難だろう、と思われていた体勢から、一瞬にして跳ね起きて、チャナのローキックを回避しつつ、両足での蹴りを叩き込んだのである。
ダメージは浅い。だが、チャナのペースは乱れた。
「てめええ!」
カッとなったチャナは、ラオに向かって、渾身のフックを放った。
その拳をぐにゃりと滑らかな動きで回避したラオは、チャナのみぞおちに向かって指突を刺し当てる。石をも穿つほどに鍛え抜かれたラオの指の威力は、鉄製の凶器にも匹敵する。
みぞおちを鋭い鉄棒で思いきり突かれたようなものだ。チャナはぐぅ⁉ と呻き、よろめいた。
完全に隙が出来た。そこへ、ラオは一気に攻勢を仕掛ける。
乱舞だ。
顔面の正中線に向かって、次々と指突を叩き込んでゆく。チャナは頭蓋の中、脳味噌を揺さぶられ、もはや意識を保つのすら困難な状態だ。
とどめの一撃――ラオの蹴り上げが、チャナの下顎に叩き込まれた。
膝を震わせながら、完全に失神状態となったチャナは、前のめりに崩れ落ちた。
「すげぇ……」
「すっごい……!」
勝負を見守っていたアレクセイと、司会のアリスが、同時に声を上げた、その直後だった。
もう一人、命知らずの者が、ラオに向かって突進してきた。
「ふうん、君もやる気かい?」
勢いよく迫ってくる相手に向かって、ラオは余裕たっぷりに、酔拳特有の緩やかな円運動を伴う構えを取り、いつでもカウンターを仕掛けられるように身構えた。
突っ込んでくる、無謀な男のゼッケンナンバーは「243番」。
全243人の闘士の中で、最も期待値の低い男、草薙礼司その人だった。




