第25話 たとえ殺そうとも
レザ・プラタマは、インドネシアの警察に所属している。
このトーナメントの本戦出場時には、元警察官、と紹介された。それはある意味では正しく、しかし、真実ではない。
今もなお、警察組織の駒として動いている。
きっかけは、インドネシアを象徴する犯罪者集団「プレマン」の潜入捜査中に起きた事件だった。
インドネシアには、伝統的なイタリアのマフィアや、日本のヤクザのような厳格な階層構造・独自の掟を持つ単一の全国的組織は存在しない。中心となるのは「プレマン」と呼ばれるギャングや執行者達の緩やかで流動的なネットワークである。
プレマンの活動は、基本的には大衆組織や市民団体を装って、半ば合法的な外見を保ちながら縄張り支配や恐喝を行うことであるが、その歴史は根が深い。植民地時代から独立闘争、スハルト政権の時代を通じて、国家権力や軍・警察と深く結びついており、反共産主義粛清や政治的暴力を請け負う役割を果たしてきた。民主化以降も政治やビジネスに影響力を及ぼしている。
主な犯罪行為は、恐喝や保護料徴収、地域の縄張り支配と暴力による威圧、違法賭博や売春、債権回収、そして薬物の取り扱い等である。
レザは、ある日から、プレマンの連中が、やたらと著名な格闘家に接触している話を聞くようになっていた。
潜入している小さな組織の中で交わされる、極めて曖昧な噂程度であったが、奇妙に感じたので、動向を追うようにしていた。
やがて、ジャカルタ首都圏にいた著名な格闘家が複数名、いきなり失踪する事案が発生した。彼らはどこへ行ったのか、最終的にどうなったのか、何もわからず、半年以上経っても彼らは帰ってこなかった。
『私に本件を任せてもらえないでしょうか』
レザは、インドネシア国家警察内にある特殊部隊「ブリモブ」の中でも、特にシラットの達人である。自分こそが適任だと考え、上官に指示を仰いだが、答えは「ダメだ」だった。
なぜか、と問い詰めても、上官は言葉を濁してきた。
すぐにレザは背景事情を見抜いた。この格闘家失踪事件は、一見、小さな出来事のように思えて、実は裏にはかなりの大物――国家の要人――が関わっているのではないか、と察したのである。
その日の内に、レザは辞表を用意した。
そして、妻に託した。自分の身にもしものことがあれば、トラブルへと発展する前に、この辞表を上官へと届けてほしい、と。辞表の日付はあらかじめ記入してある。想定されるような問題が発生したとしても、すでに自分は警察を辞めていた、という形で誤魔化せるように。
『お願い、行かないで……!』
レザの妻はすがりつき、彼の胸に顔を埋めて、声を押し殺して泣いていた。まだ生後三ヶ月の赤子がいて、これから幸せな家庭を築いていこうという時に、誰のサポートも得られない、独断によるミッションへ挑もうとしている夫を、絶対に離すものかと、その服をしっかりと握り締めていた。
しかし、レザは無言で、妻の手を振り払った。
その場で崩れ落ちて、声を上げて泣きじゃくる妻を背に、レザは拳を握り締めながら、家を出ていった。
数日後――プレマンの手引きにより、レザは日本へと渡航し――そして、この闇の格闘大会へと出場することとなった。
(生きる。俺は生き延びて、決勝まで行く。そして、この闇興行の裏にいる連中を暴き出してやる)
決意は固い。
自らに課した任務を果たすためなら、たとえ相手が誰であろうと、命のやり取りをする覚悟はある。
それはつまり、勢い余って殺すことになったとしても、やむを得ない、ということであった。
※ ※ ※
劉鳳鳴は、中国の河北省滄州に居を構えている。
物心ついた時から、父より八極拳を教わってきたが、他の拳法家を師として仰いだこともなく、また、無意味に誰かと戦ったこともない。ただひたすら、父から技を教わり、相手をするのも父ばかり。それだけであったが、父は自身が優秀な武術家でありつつ、師としても一流の男であった。
齢18にして、鳳鳴もまた、一流の武闘家として名を馳せるようになった。特に散打の大会等に出たこともなく、練習風景を見られたわけでもないのに、実に不思議なことであったが……自然と、誰かしらがニオイを嗅ぎつけて、ここに達人がいる、と見出す……それは、よくあることだと、父は語っていた。
『全ては気だ』
『気?』
『人は常に気を発している。体内に流れる気だけではない。体外を取り巻く気もある。その全てが、一つに繋がり、やがて新たな人間を引き寄せる』
『??』
『まだ若いお前にはわからんだろうが、とにかく功夫を積むがいい。そうすれば、私の言葉の意味がわかるようになる』
やがて、25歳の時に、鳳鳴は妻を娶った。ほどなくして、息子も生まれた。
60歳になって、初孫が生まれた。すでに父は他界していたので、鳳鳴は孫を抱きかかえながら、墓前であの世にいる父へと報告をした。
その後も二人の孫が生まれたが、鳳鳴は最初に生まれた長女の玲鳳を特に可愛がっていた。息子夫婦がわざわざ鳳鳴の名から一字、孫娘の名前に入れてくれた、ということも嬉しかった。
時は巡る。鳳鳴の息子は面倒事を嫌い、ちっとも八極拳を継承しようとしなかったが、孫娘の玲鳳は何も言わなくても、自分から習いに来てくれた。
『おじいちゃん! 見て! 見て!』
16歳になった時、玲鳳はそうはしゃいで言いながら、鍛錬用の木の板に向かって、発勁を放った。
木の板は、粉々に吹き飛んだ。
鳳鳴は目を見張った。自分が、今の玲鳳の領域に達するようになったのは、20歳の頃だった。それよりも4年も早く、玲鳳は発勁を完璧に習得していた。
天才だ、と鳳鳴は大喜びし、その晩は秘蔵の酒を思わず開封して、思う存分味わったものである。
だが――全てが順風満帆とは行かなかった。
滄州は工業地帯である。鳳鳴が若い頃よりも、どんどん開発が進んでおり、その波は鳳鳴の住んでいる地域にも訪れた。
政府の方針を盾に、鳳鳴の住んでいる一帯に工場を建てようとしている企業は、強引に立ち退きを迫ってきた。立ち退き料は申し訳程度であった。
細々と農業をやって暮らしていた鳳鳴一家には、まとまった資金が無く、どこもかしこも物価が高騰している中で、他の地域へと移住することなど、とても無理な話だった。
毎日思い詰めた表情をしている祖父や、両親の姿を見ていて、いたたまれなくなったのだろう。ある日、玲鳳は姿を消した。「お金は稼ぐから任せて!」と書き置きを残して。
慌てて鳳鳴達は、玲鳳のことを探し回った。だが、いったいどこへ行ってしまったのか、手がかりすら掴めなかった。
鳳鳴は意を決して、北京まで探しに行ってみた。大都市であれば、情報も、人の行方を探す能力を持った人間も、すぐに見つかると思ったのだ。
結果は、成功だった。
玲鳳もまた北京に足を伸ばし、そこで「何か」と出会い、どこかへ連れていかれたらしい。
執念だった。鳳鳴は執念で、その「何か」との接触を試みた。何度か闇社会との衝突があり、その度に、今まで一度も他人を相手に振るったことの無かった撃拳を、凶悪な連中に叩き込んだ。生まれて初めての実戦であったが、奇妙なことに、戦いの場の空気は、生まれた時から吸っていたかのように、鳳鳴の五臓六腑に心地良いものとして染み渡った。
このまま行けば、殺意の気質に呑み込まれそうになる、というところで、ようやく「何か」は向こうから、鳳鳴に接触してきた。
闇の世界のトーナメント。
鳳鳴はすぐに理解した。玲鳳もまた、このトーナメントに参加したのだ、と。他の職能を持たない彼女が、唯一自信のある武術の腕を生かそうと考えたとしても、おかしくない。
だから、自分も参加を表明した。どこかへ行ったきり、戻ってこない玲鳳を見つけ出すために。
勝ち進んだ先に答えがあると信じて。
玲鳳を救い出すためなら――殺生戒を破ることも厭わなかった。
※ ※ ※
そして、現在に至る。
「第六試合の会場は、ここでーす!」
アリスは両腕を広げて、ドヤ顔で紹介してきた。
レザも、鳳鳴も、何も言わない。すでに二人は覚悟が出来上がっている。戦いの舞台がいかなる場所であろうとも、ただ勝つ。そのために心身ともに準備を完了させていた。
第六試合の会場はキッチンだった。
キッチン、とは言っても、豪華客船の厨房なので、相当に広い。四列のステンレス製の長テーブルが並んでおり、部屋の四方を囲むようにしてコンロやシンクが並んでいる。部屋の隅にはガラスで仕切られたワインセラーがある。
「それじゃあ、二人とも向かい合って」
アリスに言われずとも、レザと鳳鳴は、長テーブルに挟まれた、大キッチンの中心部へと進み出て、お互いに右腕をスッと差し出した。
手を伸ばしたのは、別に握手をするためではない。双方ともに、右腕をクロスさせる。彼我の距離は、突きがクリーンヒットするほどに接近している。
「Fight!」
号令とともに、レザと鳳鳴、同時に仕掛けた。




