第17話 禁じ手
トーン、トーン。
ゆっくりしたリズムで、ステップを踏みながら、オリヴィエは少しずつ帝釈鵬に向かって近付いていく。
帝釈鵬は帝釈鵬で、どっしりと身構えて、どんな攻撃でも来い、全部受け止めて、全部返してやる、と言わんばかりの不敵な笑みとともに、オリヴィエのことを待ち構えている。
やがて、お互いの攻撃間合いに入った。
オリヴィエのキックも、帝釈鵬の張り手も、どちらも届く距離。
だが、二人ともまだ動かない。第二回戦のヴィディヤットとエイタンの戦いと同じだ。迂闊には動けない。両者ともに実力者だからこそ、慎重を期す必要がある。
トントントン……!
オリヴィエのステップが小刻みになり始めた。仕掛けるのはオリヴィエからか? と観戦している者達が思った、その瞬間――
先に仕掛けたのは、帝釈鵬だった。
「せェいッ!」
まるで腕が伸びたかのような、異様なリーチの張り手が、オリヴィエの顔面に向かって飛んでいく。上体を極限まで捻り、膝のバネを生かしての、まさに鉄砲のような張り手。
待ってました、とばかりに、オリヴィエは難なくその張り手を屈んで回避すると、低い姿勢から足を振り上げ、帝釈鵬の「指先」を狙って、鋭い蹴りを放った。
骨の折れる音が響き渡った。
全身を筋肉と脂肪の鎧で覆っている帝釈鵬であるが、指先の防御力は胴体と比べて一段劣る。常人と比べれば、指もまた太く、並の攻撃ではそう簡単に壊せるものではないが、しかし、オリヴィエもまたパルクールで鍛えられた体幹の強さがある。芯が鉄骨のようになっているオリヴィエが本気で放つキックは、もはや銃火器による砲撃に等しい。
「ほうっ!」
利き手の右手の指を三本、叩き折られながら、それでも帝釈鵬は嬉しそうな声を上げた。
それは、相手がただ逃げ回るだけの卑怯者ではない、真っ向勝負をするのに値する強者であるという喜び。
そして――自分の狙い通りにオリヴィエが動いてくれた、ということに対する、「してやったり」の喜びの声であった。
「捉えたぞ!」
帝釈鵬は吼え、蹴り終わったばかりのオリヴィエの脚を、ガッシリと掴んだ。
《《指を折られたはずの利き手で。》》
「な⁉ に⁉」
まさか指をへし折ったばかりの手で、脚を掴んでくるとは思っていなかったオリヴィエは、さすがに動揺の声を上げる。
オリヴィエは、実のところ、重大なミスを犯していた。
蹴りで折ったのは、あくまでも帝釈鵬の右手の親指、人差し指、中指の三本。
が、投げ技を得意とする格闘家にとって、これらの指はあくまでも「添え物」にしか過ぎない。
相手を掴む時に最も重要な指。それは、小指である。
玄人ともなれば、小指側だけで敵の衣服を掴んだりする。全部の指で掴めば、いずれか一本の指を逆に取られてしまい、返し技を受けたりするからだ。
肉を斬らせて骨を断つ、どころではない。骨を断って、命を絶つ。
勝利のためならば、添え物程度の指三本、帝釈鵬はいくらでもくれてやる、という覚悟で臨んでいた。
その覚悟も織り込んでの、あえての張り手だったのである。
「そォいやァ!」
右手の薬指と小指だけでガッシリと脚を掴んだまま、帝釈鵬はオリヴィエの体を空中へと振り上げて、そこから逆方向の床へと一気に叩きつけた。
顔面を真正面から床に強打し、鼻の骨が折れ、ブフッ! とオリヴィエは鼻血を噴き出させる。口の中も歯で切ったか、口からも血が飛び出た。
わざと、帝釈鵬はオリヴィエの脚から手を放した。このまま前後左右に叩きつけまくってもいいのだが、それでは彼の怒りは収まらない。
そう。帝釈鵬は怒っている。
それは決して綺麗な憤怒ではない。ただ単に、自分が不得手とする足場の悪い環境で、いいように弄ばれていたことに対する、不快感。そこから来る、自尊心の傷つき。そんな苛立ちを自分に与えたオリヴィエに対する、激しい憎悪。
あと、面構えが気に食わない。
(綺麗な顔をしおってのぉ! さぞモテるんだろうなァ!)
帝釈鵬とて、横綱の頃は、女を取っかえ引っかえして、夜遊びを繰り返していた。自分が有名な横綱であると知った女達は、みんな規格外の豪快なセックスを期待して、欲情した眼差しで近寄ってきて、次々と抱かれていったものだ。だがしかし、横綱どころか、力士として土俵に立つ資格も奪われた時から、誰も近付いてこなくなった。もはや、帝釈鵬はただの巨大な暴漢としか見なされなかった。
女達が惹かれていたのは、強さでも肉体でもない。実際は、帝釈鵬の「権威」に惹かれていただけであり、それが無くなった途端、誰も見向きもしなくなった。せいぜい吸い寄せられるのは、物好きな女か、病んでいる女だけ。
だから、オリヴィエのような瀟洒な佇まいの男を見ると、反吐が出るほど憎たらしく感じる。
ゆえに、まずは受け身が取れないタイミングで、わざと顔面が床にぶつかるように投げてやった。
次にお見舞いするのは、自分が現役時代に十八番としていた必殺技。
「爆嵐張り手」と呼ばれていた、左右から休む間もなく繰り出す、まさに張り手の嵐である。
「く……! この……!」
オリヴィエが口からペッと血を吐き出し、ファイティングポーズを取りながら起き上がった、まさにその瞬間を狙って、帝釈鵬は「爆嵐張り手」を炸裂させた。
「フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
肉厚の巨大な手の平が、連続でオリヴィエの顔面に向かって襲いかかってくる。
予想外のスピードで迫ってくる張り手の連打を、オリヴィエは避けることが出来なかった。全て、顔面に叩き込まれる。頬が腫れ、まぶたが腫れ、口の中を切り、鼻の骨はグシャグシャにされ、ついには右の張り手が顔の横をかすめた際に、左耳を引きちぎられてしまった。
秀麗だった顔立ちは、もはや見る影もない。パンパンに膨れ上がり、片耳を失った、血まみれの顔面のオリヴィエは、どこからどう見ても美男子ではなく、化け物じみた容貌である。
「お……ぶぉ……うぶぇ……」
何トンもの威力がある張り手の連打を頭部に受けたせいで、脳内を揺さぶられて、もうオリヴィエは戦えるような状態ではない。
が、アリスはまだ帝釈鵬の勝利宣言を出さない。
オリヴィエの意識がある以上は、万が一、もあり得る。だから、ニコニコしながら、この先の展開がどうなるか、一人の観戦者として楽しみに見守っている。
「ガッハッハッハッハッ! それでは、最後! しっかり決めさせてもらおうかの!」
そう宣言するや否や、帝釈鵬はオリヴィエの体を掴み、空中高くに吊り上げた。そして、そこから背後へと回り込むと、首と腕を、自身の極太の腕でガッシリと極める。
「けはっ」
絞殺寸前にまで首を絞められ、かすれた声を上げたオリヴィエ。もう、この時点で、敗北は確定である。あとは絞め落とせば、帝釈鵬の勝利。
だが、そう簡単にはトドメを刺さない。
帝釈鵬の両の瞳が残虐に光った。
やりたくても出来なかった大技。大相撲では禁じ手とされており、角界を追い出された後も法律の縛りがあるから繰り出すわけにはいかなかった、文字通りの「必殺」技。
だけど、ここでは自由だ。
全てが自由だ。
殺してもいい。
むしろ、相手の息の根を止めることこそが圧倒的正義。
「おォりゃァァァ!」
オリヴィエの首と腕をガッシリと極めたまま、全体重を乗せて、相手のことを頭から地面へと叩きつけた。
古流武術としての相撲の大技「荒鷲落とし」である。
グジャッ! と肉と骨の潰れる、嫌な音が鳴り響いた。
異様な角度で首が折れているオリヴィエは、もう、どこからどう見ても、息の根が止まっている状態である。
地面に串刺しにした状態で、帝釈鵬は体についた埃をパンパンと払いながら、立ち上がった。
その表情は清々しく、そして禍々しい。
「これが『殺す』ってことか。悪くないな」
ニカッと残忍に笑みを浮かべるのとともに、アリスが勝利宣言を放った。
「勝者! 帝釈鵬!」
右手の指三本を持っていかれている。だが、その程度の怪我はものともしないことを、まさに今、本人がみんなの前で見せつけた。
観戦していた闘士達の誰もが、心の底から感じていた。誰が次にこの帝釈鵬と当たることになるのか知らないが、出来ることなら、自分ではありたくない、と。




