第13話 コンマ数秒の隙
ヴィディヤットとエイタンは、睨み合ったまま、急に動かなくなった。
二人とも、ピクリとも動かない。
「えっと、何やってるの? もう開始から30秒は経ってるけど」
百合が草薙に尋ねた。それに対して、草薙が答えようとすると、いきなり後ろから、巨体の気配が迫ってきたので、草薙と百合は振り返った。
本戦出場者の内、二人と同じく日本人である力士、帝釈鵬。
「あれは、高度な読み合いをしておるのだろうな」
かつて暴力事件を起こして資格剥奪された、という経緯からか、髪は長く伸ばして後頭部で結んでいる。正規の力士としての髷は結っていない。目つきは鷹の如く鋭く、ふてぶてしい面構えだ。見るからに凶暴な雰囲気を漂わせている。
百合は若干警戒しながら、いきなり割りこんできた帝釈鵬に対して、
「高度な読み合い? どういうこと?」
と聞き直した。
フンッ、と小馬鹿にした感じで、帝釈鵬は百合のことを白い目で見ている。その眼差しからして、決して上等な性格の持ち主ではないとわかる。一気に、百合は不愉快な気分になり、ムッとした表情で顔を険しくした。
「その程度の眼力では、勝ち残るのは厳しいだろうな」
「おい。こいつのことを馬鹿にするな。俺が相手するぞ」
第一印象は最悪だ。
草薙は、百合と帝釈鵬の間に割って入り、睨みをきかせた。帝釈鵬もまた、目を見開き、頭から喰らってやろうか、と言わんばかりの顔つきで凄みをきかせてくる。
そんなことをしている最中でも、ヴィディヤットとエイタンはどちらも指一本動かさない。
二人とも人を殺した経験がある。だからこそ、わかる。お互いプロフェッショナルであるがゆえに、迂闊には動けない。これが格闘技の試合であれば、一歩も動かなければレフェリーから注意を受けるだろう。しかし、殺し合いだ。足の動かし方、手の使い方、どれ一つ取っても敵にとって有益な情報を与えかねない。
自分から仕掛ける。それは危険だ。後の先を取られて、カウンターで叩きのめされて終わるだろう。
どちらも同じようでありつつも、2分を経過したあたりから、両者に差が出始めた。エイタンの額から、汗が伝い落ちたのだ。それは僅かな差異。対するヴィディヤットは平静なまま、相変わらず猛獣のような四つん這いに近い姿勢を取っている。そのままで、汗一つかいていない。
エイタンの汗を、ヴィディヤットは見逃さなかった。
だが、まだ動かない。エイタンの構えには相変わらず死角がなく、こちらから仕掛けるだけの明確な隙は無い。
もっと何か、きっかけが必要だ。
そこで、突然――それはあまりにも、尋常ではないタイミングだった――今、ここで、この状況で、そんなことをするのか、と誰もが驚く形で、とんでもない異変が起きた。
イヴが、いきなりプールに飛び込んだのだ。
盛大に水しぶきが上がり、観戦者達がいるプールサイドにまで水が飛んでくる。
「な、なんじゃあ⁉」
驚きの声を上げたのは、劉鳳鳴。八極拳の使い手である、齢78の老人。人生経験豊富であり、滅多なことでは動じなさそうな、落ち着いた佇まいの、この老拳法家が、目を飛び出さんばかりに仰天している。
ただでさえオールヌードの変人であるイヴが、目の前で殺し合いが展開されている緊迫した状況であるにもかかわらず、さらに奇行に出た。
「ちょ、ちょっと⁉ ちょっと⁉ 何やってんの⁉」
ブラジリアン柔術家のイザベラ・サントスが、目を丸くしている。
「狂人か……⁉」
ずっと冷静に試合を観戦していたレザ・プラタマ――インドネシア出身の元警察官、ギャング組織に潜入した経歴のあるレザですら、動揺を隠せない。
全員の目線に晒されながら、イヴは気持ち良さそうに泳ぎ回っている。
おもむろに、彼女は水の中から上体を飛び出させ、弓なりになって背をそらした。それに合わせて、艶のあるロングの金髪が宙を舞い、月明かりを浴びて眩いほどに輝く。
また水の中に潜り込み、しばらく潜水で泳いだ後、バシャッと水面から上体を出すと、その豊かな両の乳房が露わになるのも構わず、観戦者達に向かって手を振ってきた。
「ねえー! みんなも一緒に泳ごうよ! 気持ちいいよ!」
と言われても、彼女のドイツ語を理解出来る者は、この場にはいない。
全員、ただひたすら、ドン引きしている。
イヴの奇行によって、場の空気がおかしくなった。そして、それは今もなお対峙しているヴィディヤットとエイタンにとっては、大きな影響を及ぼすこととなった。
ヴィディヤットは元殺し屋だ。ターゲットを確実に仕留めることに特化して、ある組織の中で訓練を受けてきた。自身がどうなろうとも、相手の命を奪う。ちょっとしたことに、いちいち敏感に反応していては、任務を達成できなくなる。
一方で、エイタンは元イスラエルの軍人だ。何度も戦場を経験している。だからこそ、些細な環境の変化を見逃さない。ちょっとした物音、空気感の変化、それらを全て肌で感じ取り、危険があればすぐに反応できるよう、仕込まれている。
だから――エイタンの注意が、ほんの少し、プールのほうへと逸らされた。
それは本当に一瞬の隙。
だが、その隙を、ヴィディヤットは見逃さない。
声も気合も発さずに、弾き飛ぶような動きで、一気にエイタンまで間合いを詰めると、胸部に向かって拳を放った。
エイタンは冷静に反応し、ヴィディヤットの拳打を止めようと、ガードポジションに移行する。しかし、コンマ数秒の遅れ、プールに飛び込んだイヴの方へと意識を回してしまった隙が、致命的な結果をもたらした。
ガードしようとするエイタンの腕の下をすり抜けて、ヴィディヤットの拳は、相手の胸へと叩きつけられた。
ただ胸板を殴ったのではない。
人体にいくつも点在しているマルマ(急所)。カラリパヤットならではの特徴的な攻撃法により、たったの一撃で、エイタンは体内の気脈を狂わされた。
「く⁉ お!」
よろめいたエイタンは、それでもなお踏ん張り、体勢を持ち直そうとする。
が、膝が笑ってしまう。呼吸がしづらい。ヴィディヤットの攻撃は、それだけエイタンに効いてしまったのだ。
ヴィディヤットが再び突撃してくる。
今度は、エイタンは隙を見せていない。真正面から無防備に突進してくるヴィディヤットに対して、反撃を放つべく、構え直した。
仕事柄、世界中の武術、格闘技について知識はある。カラリパヤットの研究も、対策に関する知識も、すでに終えている。世界最古の武術と呼ばれるカラリパヤットは、動物の動きを取り入れ、人体のマルマ(急所)を突く戦い方をしてくるが、実戦的で容赦の無い軍隊式格闘術を学んだエイタンからすると、その動きには無駄が多いと思っている。
だから、真っ向勝負となれば、決してヴィディヤットに後れを取らない。
――はずだった。
突然、ヴィディヤットは空中に跳ね飛んだ。さながら大鷲の如く大胆に両手両足を広げながら、常人には対応不可能な高度と、急角度より、鋭い蹴りを放ってくる。
これはカラリパヤットの動きなのか、それともヴィディヤットが自分で編み出した技なのか。
いずれにせよ、大味な技であり、エイタンの目から見ると、いくらでもカウンターを合わせられるものだった。
まずは蹴り足を挟み受けで捕捉し、そこから脚の骨を砕く。そうして、相手の機動力を完全に奪ったところで、とどめの一撃を当ててみせる。
そう脳内でシミュレーションを組み立てた直後――エイタンの全身は硬直した。
先ほど拳を叩きこまれた胸部が、ズキン! と急に痛んだのだ。
身動き出来なくなったエイタンの首に、ヴィディヤットの空中蹴りが叩きつけられた。
「がっ⁉」
意識が飛びそうになりながらも、なお、エイタンは耐え抜いた。
しかし、もう手後れだった。
地面に着地したヴィディヤットは、流れるような動きで、エイタンの喉笛に手刀を叩き込んだ。
それは致命的な一撃。喉を潰されたエイタンは、呼吸を出すことも、叫び声を上げることもかなわない。けはっ、と咳き込み、ふらついたエイタンに向かって、ついにとどめの一発が繰り出された。
鞭のようにしなるハイキックが、エイタンの頭部を蹴り抜いた。ゴギッ! と首の骨が折れる音とともに、イスラエルの元プロ軍人は、あっさりと横倒しに倒れ込み、そのままプールの中に落下した。
もう息はしていないのだろう。力を失ったエイタンの体が、水面に浮かび上がってくる。
そこまで見届けたところで、アリスがはしゃいだ声を上げた。
「すごいすごーい! 勝者! ヴィディヤット・シン!」
試合時間にして、5分ほど。ほとんど睨み合いだったので、実際にヴィディヤットが動き始めてからは1分も経っていない。
早くも、無傷で勝ち抜く闘士が現れた。先ほどの試合では、ルカスはもはや次の試合が不可能なほどに大怪我を負っていたので、それと比べたら雲泥の差である。
誰が強いとか、誰が弱いとか、そういう次元の話ではない。蠱毒の如き予選を勝ち抜いてきた16名だ、もはや彼我の戦闘技術は拮抗している。それだけに、戦場となる環境の違いや、イヴの奇行のような些細な出来事、そういったものが勝敗を明確に分けてくる。彼我の戦闘スタイルの相性もある。
「えげつねえな……」
草薙は呟いた。
第二試合が始まった当初、彼はこの戦いはかなりえげつないことになると予想していたが、その読みは外れた。いま呟いた「えげつねえ」の意味は、予想を超えて、あっさりと決着がついたことにある。本当は、もっと泥仕合になることを予測していたのだが、まさかこんな結果になるとは思ってもいなかった。
草薙はあらためて気を引き締め直した。そろそろ自分の出番が来そうだ。もちろん、こんなところで命を落とすつもりはない。優勝賞金を持ち帰って凱旋する。そのことだけをひたすら考えていた。




