第11話 ロシアの英雄
アレクセイ・ボガチョレフは、ロシアの寒村で生まれ育った。
家は幼い頃から貧乏であり、日々を生き抜くために、アレクセイもまた働かなければならなかった。
子供の時点でアレクセイは大きな肉体を持っており、人一倍の食欲を持っていたけれど、文句を言わずに粗末な食事で我慢していた。でも、当然、このままでいいと思っていたわけではない。どうにかして、この苦境を脱出したいと考えていた。
ある日、働いている農場の食堂で昼飯を食べていると、たまたま、据え付けられたテレビがIWFの興行を流していた。それは実際の放送か、録画されたビデオを流していたのか、今となってはアレクセイにはわからない。あの当時は、IWFのテレビ放送はやっていなかったはずだからだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、アレクセイにとっては、あのIWFの試合が、大いに刺激となったことが確かである。
自分もまた、この大きな体を生かしてプロレス界で活躍すれば、苦境から脱出することが出来るかもしれない。家族に美味しいご飯を食べさせてあげられるかもしれない。
そう夢見ていたが、父は到底許してくれそうになかった。ハッキリと、プロレスラーという職業を軽蔑する発言をしていたからだ。何が父の過去にあったのかは知らないが、とにかく格闘技による興行全般を忌み嫌っていた。
母だけがアレクセイにとって、唯一の心の拠り所だった。母は心優しく、温かく、心の広い人であり、そんな母にアレクセイは何でも話していた。いつかプロレスラーになってみんなを助ける、という夢を語っても、ニコニコ笑いながら、そんなアレクセイの話を正面から受け止めてくれた。
しかし、現実は厳しかった。
母が病に倒れたのだ。
治療のためにはお金が要る。アレクセイの家はますます貧しくなっていった。食事を切り詰め、娯楽もなく、働く時間も増えた。どんどん追い込まれていくのを、アレクセイは肌で感じ取っていた。
ある日、アレクセイは逃げ出すようにして、家を飛び出した。
働き手が一人いなくなる、ということの重さを理解していなかったわけではない。ただ、父と大喧嘩したことが原因の一つであった。アレクセイは苦境に耐えきれず、プロレスの世界に入って一発逆転を狙うことを、つい父に提案してしまったのである。その結果、父に殴られた。大激怒だった。父は、真面目にコツコツと働いていれば道は開ける、と頑なに信じてやまない性格の人だった。
無理だ、とアレクセイは悟っていた。曾祖父の代から続く貧困。この貧しさは、根が深いものであり、もはや正攻法でどうにかなるレベルではなかった。
だから、アレクセイは自分の判断で、家出したのである。15歳の時のことだった。
当たり前だが、プロレス界が、まだ15歳のアレクセイをいきなり迎え入れてくれる、などということはなかった。
拾ってくれたのは、アマチュアリーグの世界。そこでも、まずは下働きとしてこき使われた。
アレクセイは歯を食い縛って、耐え忍んだ。密かに心折れそうになる時もあった。いつになればスター街道へと乗っかることが出来、残してきた家族を救える日が来るのかわからず、気が遠くなる思いでめまいを感じることもあったが、それでも、これ以外に道は無いと信じて、踏ん張り続けた。
20歳になったある日、ようやくリングに上がることが認められた。
すでにその時点で身長は2メートルを超えていたが、ろくに戦い方を知らなかったアレクセイは、先輩達のサンドバッグにされていた。アレクセイの巨体を脅威に感じていた仲間達は、もし技を教えたりしたら太刀打ち出来なくなると恐れて、何もコーチングしてくれなかったのだ。
アレクセイが所属する団体は、あまり上等なところではなかった。いいように玩具にされて、苦汁をなめていたところ、救いが訪れた。
IWFの役員が、アマチュア団体の視察に、偶然訪れたのだ。
『いいか、俺のために、いつも通りボコられろよ』
自身をアピールしたい先輩に、そう脅しをかけられていたアレクセイだったが、さすがに我慢の限界だった。これはチャンスだ。IWFに入れるかどうかの瀬戸際。
アレクセイはついに爆発した。技術も何も無い、見様見真似で技らしきものを繰り出すだけの、無茶苦茶な暴れ方だったが、それでも他を圧倒する巨体での暴れぶりにより、先輩は手も足も出せずに叩きのめされた。
『素晴らしい!』
一部始終を見守っていたIWFの役員は賞賛の拍手を送った。ロシアプロレス界への道が開けた瞬間であった。
賓客の如く迎え入れられたアレクセイは、そこから、見る見るうちに成長を遂げていった。専属のコーチやトレーナーがつき、丁寧に、プロレスでの戦い方を教えていってくれた。
忙しない日々を送る内に、残してきた家族のことを忘れそうになっていたアレクセイだったが、ある程度落ち着いてきた32歳のある日、ようやく故郷へと凱旋した。封筒いっぱいに大金を詰めて。これで、家族を救える。そう思っていた。
すでに家は無くなっていた。
戸惑ったアレクセイは、近所の者達に、自分の一家がどうなったのかを聞いて回り、そして、衝撃の事実を知らされた。
一家心中した、というのだ。
きっかけは、母の病死だったらしい。それにより、がむしゃらに働き続けることの意味を失った父は、全ての生きる気力を失い、アレクセイの兄弟を巻き込んで、自ら死を選んだとのことだった。5年前のことだったらしい。
アレクセイの胸中には、複雑な想いが渦巻いていた。もっと早く戻ればよかった、という後悔。だが、それ以上に、父に対する怒りと、そして哀れみの感情が湧き起こっていた。
故郷から、今の住まいへと戻るバスの中、リュックの中にしまっていた大金の封筒を取り出し、ぼんやりとアレクセイは札束を眺めていた。自分は何のために稼いできたのだろうか。この金をどうすればいいのだろうか。
そのことを、3年前より交際している恋人に相談したところ、彼女からはこんな答えが返ってきた。
『世界には、あなたの家族のように、貧困に苦しんでいる人々が大勢いるわ。ロシアだけでも約1千万人いると言われている。その人達のために尽くすのはどう?』
まるで天啓のような言葉だった。
この時を境に、アレクセイの戦う目的は決まった。世界中の貧しさに苦しむ人々のために、ファイトマネーのほとんどを募金に回そう、と。自分は最低限生きるだけの金と、あとは恋人に何かプレゼントを買ってやるくらいのお金さえあればいい。悠長に貯蓄なんてしている余裕は無い。こうしている間にも、世界のどこかで、貧しさから命を絶つ家族がいるかもしれないのだ。そんなこと、アレクセイは耐えられなかった。
がむしゃらに戦い続けた。40歳になり、そろそろ引退すべきではないかと言われつつも、ロシアプロレス界のトップヒーローとして君臨し続けた。
だが、世界はよくなるどころか、ますます混沌へと追い込まれつつあった。
金が足りない。いくらあっても足りない。もっと多くの人々を救うためには、もっと多くの金が要る。稼がなければいけない。何としてでも、大金を得る必要がある。
そう思っていたある日、アレクセイは、闇のトーナメントの招待状を手渡された。
行くべきではない、という理性と、ここで行かなければ世界はおろかロシアの貧しい人々を救うことすら困難だ、という感情がせめぎ合い、結果、感情が勝った。
こうして、アレクセイは命懸けの戦いへと身を投じることになったのである。
だから――
※ ※ ※
(――だから、一回戦目で負けるわけにはいかねえんだよ!)
背後から、ルカスにシャツで首を絞められながらも、アレクセイは強引に身を起こし、仁王立ちした。首締めの体勢のまま、アレクセイにぶら下がる形となったルカスは、困惑してか、目を丸くしている。
「ウオオオオオオ!」
首が絞まっているのに、どこから発しているのか、大音声で咆哮を上げ、バーカウンターの方へとアレクセイは突進していく。
そして、カウンターテーブルに激突する寸前で、クルリと背を向けた。
そのまま、背中にぶら下がっていたルカスを、バーカウンターに叩きつける。アレクセイの巨体とカウンターテーブルの間に挟み込まれた直後、ルカスの脚の骨はボギッ! と音を立てて折れ、砕けた。
「ぐあああああ⁉」
絶叫を上げたルカスは、思わず、アレクセイの首を絞める手を緩めてしまう。
その瞬間、アレクセイはルカスの胴体を抱え上げると、力任せにバーカウンターの奥へ向かって投げ飛ばした。
酒のボトルが陳列されている木棚にルカスは激突し、粉々に砕けたボトルのガラス片と一緒に、カウンターの内側へと落下する。
「ウオオオオオオ!」
もう一度、雄叫びを上げ、アレクセイは拳を高々と突き上げた。
それは勝利の咆哮であった。
さらに、自分の勝ちをアピールするかの如く、ステージ上にいる他の闘士達のほうへと向き直ると、あらためて両腕を上げて、雄叫びを上げた。
――が、それがよくなかった。
もしもアレクセイが軍人上がりであったなら、最後まで気を緩めることはなかっただろう。
最後。それは、相手が確実に戦闘不能になったと、確認できるまで。
――バーカウンターの奥から、ルカスが起き上がったことに、アレクセイは気が付いていない。
ルカスは腕の力だけでカウンターテーブルの上へと這い上がると、折れた脚の痛みに耐えながら、無理やり立ち上がった。そして、すぐ目の前で勝利のアピールをしているアレクセイに向かって、倒れ込み――背後から、相手の極太の首にしがみつき、そのまま首締めの体勢へと入った。
「な⁉」
ほんの一瞬、アレクセイは驚いたが、しかし、すぐにニッと笑みを浮かべた。
ルカスの首締めには大した力が入っていない。この程度で自分は落とされはしないだろう。
「悪あがきはよせ。お前の負けだ」
どうせロシア語は通じないとわかりつつも、アレクセイは諭すように語りかけた。
ルカスは、もちろん相手が何を言っているのか理解していなかったが、大意は何となく察した。その上で、こう返した。
「お前の負けだ、アレクセイ」
首を絞めていた腕を、わざとほどき――右手をアレクセイの頸動脈の上で滑らせた――ガラス片を持った、右手を。
それは、割れたウォッカボトルのガラス片。バーカウンターの奥に落下した際、ルカスは、すかさずガラス片を拾い上げていたのだ。一番鋭く、最も凶器となり得る、刃の如きガラスを。
ブツンッ、と何かが切れる音が、アレクセイの頭の中に響いた。
たちまち、首から鮮血が噴き出す。
「……え?」
アレクセイが、場違いなほどに間抜けな声を上げるのと同時に、ルカスは両腕を離し、床に落下した。
頸動脈を斬り裂かれたアレクセイは、首の傷口を手で覆うが、そんなことでは血の噴出は抑えきれない。指の間から血が飛び出しており、どんどん顔色が青くなっていく。
ようやく、我が身に何が起きたのかを理解したアレクセイは、床に倒れているルカスの方へと目を向けた。
(これで逆上したあいつが、ストンピングでもしてきたら、相討ちだな)
脚の骨を折られたルカスは、さっきは根性でなんとか立ったものの、もうこれ以上無理は出来ない。脚がパンパンに腫れ上がっている。アレクセイが断末魔にヤケを起こして踏みつけでもしてきたら、たぶん内臓破裂するほどのダメージを受けて、自分もまた死ぬだろう。
そう、ルカスは覚悟していたが、意外なことに、アレクセイは何もしてこなかった。
ふう……と何かを諦めたかのようなため息。
それから、アレクセイはガクリと膝を折ると――前のめりに倒れ込んだ。そして、それ以上、指一本動かすこともしなかった。
遠巻きに観戦していたアリスが、そこで初めてアレクセイの側へと寄り、脈を取った。
「死亡確認」
淡々と、それでいて満面に笑みを浮かべながら、残酷な事実を告げる。
「第一試合! 勝者、ルカス・ウェーバー!」
高らかに宣言するも、会場内は静まりかえっている。
他の14名の闘士達はみんな同じことを考えて、黙っていた。
すなわち、この戦いは本当に命懸けのものになるということ。当たり前のように死人が出るということ。そして、勝ったとしても、治療はしてもらえない。だから、勝ち抜いたルカスが、次の対戦で戦わずして負けるであろうことは、すでに確定していること。決勝戦まで勝ち残るためには、五体満足である必要があるということ。
このトーナメントは一筋縄では行かない――ということだった。




