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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第51話 探偵の朝食と消えたドッグラン

 春の柔らかな日差しが、アイランドキッチンの人工大理石の天板に反射し、心地よい朝の空気を作り出している。

 木曜日、午前8時。私は愛用の柳刃包丁を拭き清めながら、完璧な朝食の最終工程に取り掛かっていた。


 土鍋で炊き立ての白米を飯台に移し、赤酢を切り混ぜて適度な温度まで冷ます。それを大きめの丼の底にふわりと敷き詰め、豊洲の馴染みの仲卸から取り寄せた脂の乗ったネギトロをこれでもかと乗せる。さらに、大粒の醤油漬けイクラを溢れんばかりに盛り付ければ、視覚的にも暴力的とも言える海鮮丼の完成だ。

 コンロの小鍋では、昨夜の夕食の余りである『肉じゃが』がコトコトと音を立てている。一晩寝かせたことで牛肉の旨味と醤油の甘辛い味がジャガイモの芯まで染み込み、昨日よりも格段に深い味わいへと変化しているはずだ。

 付け合わせには、冷蔵庫の余り野菜――レタス、キュウリ、トマト――を手でちぎったサラダを用意した。ドレッシングは市販のごまドレッシングに中国黒酢を数滴混ぜ合わせた特製だ。ごまの重たい甘みに黒酢の複雑な酸味とコクが加わり、一瞬で高級中華料理店のような奥行きが出る。

 最後に、自家製のキムチとカクテキを小鉢に添え、キャベツの甘みが溶け出した熱々の味噌汁を椀に注ぐ。


 ガチャリ。


 私がダイニングテーブルに四人分の朝食を並べ終えたタイミングで、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま戻りましたー! いやー、春の朝ランは最高に気持ちいいですね!」


 スポーツウェアに身を包んだ中野月子が、額に爽やかな汗を光らせながらリビングに入ってきた。

 その足元で、「ハッハッ」と嬉しそうな息遣いをさせながら小走りでついてきたのは、愛犬のチャイだ。

 生後半年を過ぎて春を迎えたチャイは、たぬきのように丸かった仔犬のフォルムから、すっかりシュッとしたキツネ顔の若犬へと成長していた。体格も立派になり、赤いハーネスがよく似合っている。月子の早朝ランニングの伴走を終え、程よい疲労感と満足感に満ちた表情で私の足元にすり寄ってきた。


「ご苦労だったな、月子。チャイの足拭きは僕がやる」


「ん……ふわぁ……何よ、朝から元気ねツッキー……」


 私がチャイの肉球をウェットティッシュで拭いていると、ゲストルームの扉が開き、岡本純が目をこすりながら起きてきた。

 さらに、リビングの巨大なソファの毛布がもぞもぞと動き、そこから豊かな赤毛が顔を出した。


「……いい匂いね。トオルの朝ごはん、できてる?」


 昨夜、深夜の映画鑑賞会の途中でそのまま寝落ちしていたエレナ・ヴァルゴヴァが、長い手足を伸ばして大きなあくびをした。

 私の静謐な空間は、朝から相変わらず賑やかだ。


「手が洗えた奴から席につけ」


 私が促すと、三人の女たちは瞬く間にテーブルを囲んだ。


「うわぁ……朝からネギトロイクラ丼! 痛風になりそうだけど最高!」


 純がイクラの輝きに目を細める。


「いただきます!」


 月子は挨拶もそこそこに箸を割り、丼を無造作に掻き込んだ。


「んんっ! ネギトロの脂とイクラの塩気が赤酢のシャリに合います! 肉じゃがも味が染み染みで美味しい!」


 エレナも「このごまのドレッシング、酸味が効いてて好きよ」とサラダを器用に平らげている。

 私は自分の分の丼に箸をつけ、無言で頬張った。

 酸味と旨味のバランスが寝起きの胃袋を心地よく刺激し、キムチの辛味で交感神経をわずかに目覚めさせる。

 チャイは自分専用の茹でたササミと野菜の朝食を秒速で完食し、満足げに私の椅子の横でゴロンと横になった。


 食後、私は熱く淹れたゴーヤー茶の入ったマグカップを手に取り、安楽椅子に深く腰を下ろした。突き抜けるような苦味が口内をリセットし、脳のスイッチを完全に切り替える。


「ねえQちゃん、これ見てよ」


 食後のコーヒーを飲んでいた純が、スマートフォンを私の方へ向けた。


「ここから歩いて15分くらいのところにある『セレブ・パウズ』ってドッグランなんだけど。昨日から、そこで飼い犬が突然いなくなる事件が立て続けに起きてるみたい」


「……犬が消えた?」


 私は眉をひそめた。

 画面には、SNSの投稿がいくつか表示されている。


『少し目を離した隙にうちの子がいなくなった』『フェンスは閉まっていたのに』といった、飼い主たちの悲痛な叫びだ。


「あのドッグラン、会員制でフェンスも結構高いのよ? 飛び越えられるような高さじゃないのにいなくなるなんて、絶対おかしいわ」


 純の直感的な疑問はもっともだ。

 犬が自力で脱走できない環境で、連続して姿を消している。

 私は足元で無防備にへそ天をしているチャイを一瞥した。チャイの散歩コースからそう遠くない場所での不可解な事件。万が一、この界隈に犬を狙う危険な犯罪者が潜んでいるのだとすれば、看過できない問題だ。


「……月子、純。食後の運動だ。その『セレブ・パウズ』の周囲を見てこい」


「了解ッス! 準備します!」


 月子が即座に立ち上がる。


「えー、私すっぴんなんだけど。まあ、カメラに映らないようにすればいいか」


 純も帽子を深く被って立ち上がった。


 二人が部屋を出て行ったのを見送り、私はデスクのキーボードを引き寄せた。

 裏回線を開き、待機している特定班に声をかける。表立った配信は行わず、音声のみのクローズドな指示だ。


「特定班。近所のドッグランで起きている犬の連続失踪事件だ。消えた犬の犬種、年齢、性別、そして当時のドッグラン内の状況に関するSNSの投稿を全て洗い出せ」


『了解!』

『朝から事件か』

『犬泥棒は許せねえ』


 コメント欄が素早く流れ始める。


 数分後、月子のカメラから現場の映像が送られてきた。

 高い緑色のフェンスに囲まれた、広大な芝生のドッグラン。入り口には厳重な電子ゲートがあり、会員以外の物理的な侵入は困難に見える。


『Qちゃん、着いたわ。外から見てるけど、特に変わったところはないわね』


「月子。フェンスの外周をゆっくり回って、カメラで死角になる場所を映せ」


 月子がフェンスに沿って歩き始める。

 その間にも、特定班から情報が集まってきた。


『消えたのはトイプードル、ポメラニアン、チワワの3匹。全部人気の小型犬だ』

『共通点あったぞ。3匹とも血統書付きの未去勢のオスだ』


「……未去勢のオスの小型犬ばかり。狙いがはっきりしているな」


 私はモニターを睨みながら分析する。


「ただの転売目的じゃない。繁殖目的の窃盗グループが、優秀な血統のオス犬をピンポイントで狙っている可能性が高い」


 モニターの中で、月子がドッグランの裏手、大きな植え込みの陰になる部分に差し掛かった。そこには、業者が入るための清掃用と思われる小さな鉄扉があった。扉には南京錠がかかっている。


「月子、その扉の下の隙間を映せ」


 カメラが足元に寄る。扉の下には、小型犬ならギリギリくぐり抜けられそうな15センチほどの隙間が空いていた。

 そして、その隙間の周囲のアスファルトには、不自然に濡れたようなシミが残っている。


「……なるほど。何らかの液体か」


 私はカメラが映し出すシミの形状と、これまでの情報を頭の中で結びつけた。


「犯人は、ドッグランの中には入っていない。フェンスを越えられないなら、自らくぐらせるしかないからな。……おそらく、その隙間越しに発情期のメス犬のフェロモンを染み込ませた布か何かを置き、オス犬を誘い出したんだ。飼い主が目を離した隙に、匂いにつられた犬が隙間をくぐり抜けるのを外で待ち構えていたんだろう」


『うわ、最低な手口……』


 純が嫌悪感に満ちた声を漏らす。


「特定班、このドッグラン周辺の道路を映しているライブカメラの映像を確認しろ。昨日、犬が消えた時間帯に、この裏手の道に不審な車両が停まっていなかったか」


『裏の通りのカメラ確認した! 白いワンボックスカーが停まってる』

『側面に「ペットグルーミング」って書いてある。出張トリミングのバンに偽装してるぞ』

『ナンバー特定した! 逃走経路、国道沿いのNシステムと店舗カメラで追える!』


 リスナーたちの執念の追跡が、偽装車両の足取りを次々と暴いていく。


「……最終地点はどこだ」


『隣町の廃倉庫だ。シャッターの前に例のワンボックスが停まってる写真が、10分前にTwitterに上がってる』


 私は即座に手元のスマートフォンを取り出し、原田深美の直通番号へ連絡を入れた。


『原田だ。どうした金子』


 深美の落ち着いた声が返ってくる。


「窃盗グループのアジトを特定した。場所は隣町の廃倉庫だ。中に複数の小型犬が囚われている。……サイレンは鳴らすなよ。犬に危害が及ぶ前に静かに制圧しろ」


『……了解した。私の管轄内だ、任せておけ』


 通話が切れ、私は深く息を吐き出して安楽椅子に背中を預けた。

 特定班への情報収集の終了を告げ、裏回線を閉じる。


「トオル、お疲れ様。お茶、淹れ直したわよ」


 いつの間にか起き上がって身支度を整えていたエレナが、温かい紅茶の入ったカップをデスクに置いてくれた。


「……なら、自分の使った食器の片付けくらいは手伝え」


 私が気だるく返したその時、足元でチャイが静かに立ち上がり、私の膝の上に前足を乗せてきた。

 スッと伸びたマズルと、キツネのように賢そうな顔立ち。仔犬の頃の無防備な丸さは抜けつつあるが、私を見上げる真っ直ぐな瞳の輝きは何も変わっていない。


 私は手を伸ばし、チャイの耳の後ろをゆっくりと撫でた。チャイは気持ちよさそうに目を細め、私の手にすり寄ってくる。


 小一時間後、深美から短いメッセージが届いた。


『制圧完了。犬たちは無事保護した。飼い主の元へ帰す手はずを整えている』


 私はメッセージを確認し、スマホをテーブルに伏せた。

 春の柔らかな日差しが、部屋の奥まで差し込んでいる。

 近所で起きた小さな事件は解決し、愛犬の安全も守られた。

 私は膝に顔を乗せてうたた寝を始めたチャイの背中を撫でながら、静かに流れる午前の時間を味わうのだった。

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