第50話 安楽椅子探偵は今日も動かない
週末の夜。
私のマンションの最上階リビングは、一切の不純物がない静謐な空気に包まれていた。
手元の間接照明が、薄張りのグラスに注がれたルビー色の液体を透かしている。
これはワインではない。フランスのワイナリーが本気で造り上げた、ピノ・ノワール種のブドウ果汁に発酵過程の香気成分だけを抽出して加えた、極上の『ノンアルコール・ワインテイスト飲料』だ。サクランボや木苺を思わせる華やかな赤い果実の香りに、微かな腐葉土のニュアンスまで再現されている。私の最大の武器である脳をアルコールで鈍らせるような真似は、平和な夜であっても絶対にしない。
グラスを静かに回し、一口味わう。滑らかな渋みとエレガントな酸味が、ゆっくりと喉を落ちていった。
傍らのテーブルには、しっかりと水切りをしてクリームチーズのように濃厚になったヨーグルトを盛った小皿がある。その雪のような表面には、クローバーの蜂蜜が小匙一杯だけ、黄金色の線を描くように垂らしてある。
スプーンですくい、口に運ぶ。
水切りヨーグルトの凝縮された酸味と、蜂蜜のまろやかで自然な甘み。それが、疑似ワインの繊細な果実味と口の中で見事に調和する。重たいチーズよりも胃に優しく、香りを引き立てる極上のつまみだ。
グラスを空けた後は、サイドテーブルに置いた重厚なロックグラスへ手を伸ばす。
琥珀色の液体は、ウイスキーの製造工程からアルコールだけを抜いた『ノンアルコール・モルト』だ。樽の香りと麦芽の豊かな甘み、そして微かに漂うピートの香りが鼻腔を抜けていく。
極上の疑似酒と、それに合うささやかなつまみだけで過ごす、深い夜の時間。
「……スピー」
足元では、愛犬のチャイが丸くなって眠っている。
時折、私がグラスを置くコトンという音に反応して片耳だけをピクッと動かすが、すぐにまた静かな寝息を立て始めた。ピートの強い香りが鼻先をかすめたのか、小さく「クシュッ」とくしゃみをして鼻を前足で擦る。
タナトスという巨大な敵との、都市全体を巻き込んだ戦いから数ヶ月。
季節は春に向かい、この部屋には私が望んだ平穏が完全に戻ってきている。
だが、私の傍らに置かれたタブレットが、短い振動音を立てた。
画面には、純の配信チャンネルの通知が表示されている。
『【ゲリラ配信】都内最恐の廃工場に潜入! 何か出たら即撤収!』
チャンネル登録者数100万人を超えても、彼女のやることは基本的に変わっていない。
私はグラスを片手に、その配信を開いた。
画面には、錆びた鉄骨と剥き出しのコンクリートが続く、薄暗い廃工場の内部が映し出されている。月子のジンバルカメラによる、滑らかで臨場感のある映像だ。
『えー、みんなこんばんは。JUN様です。今日はね、K区にある使われなくなった印刷工場跡に来てるんだけど……』
純の声は、マイクを通しても分かるほど緊張していた。
『なんかここ、空気が重いっていうか……変な臭いがするのよね。油みたいな、薬品みたいな』
コメント欄がものすごいスピードで流れていく。
『ガチでヤバそう』
『後ろの影動かなかった?』
『気をつけて』
「……月子、カメラを少し左へ振れ」
私はインカムのスイッチを入れ、直接二人の耳に音声を届けた。
『あ、Qちゃん! 見てたのね』
純がホッとしたような声を出す。
月子が無言でカメラを左へパンさせる。
そこには、鉄扉が半開きになった奥の部屋があった。
カメラのライトが、その部屋の中央に置かれた真新しいドラム缶と、床に散乱するポリタンクを照らし出した。
『……これ、何?』
純が不審そうに近づこうとする。
「待て、純。入るな」
私はグラスを置き、モニターを凝視した。
ドラム缶とポリタンクの配置。そして、先ほど純が言った「薬品のような臭い」。
「月子、床の汚れをズームしろ」
カメラが床のコンクリートを拡大する。そこには、赤褐色の染みが点々と続いており、奥の暗がりへと消えていた。
「血痕ではない。特殊な化学薬品が酸化した痕だ。……これは、心霊スポットの演出じゃない」
ガチャリ。
突然、リビングの玄関のドアが開く音がした。
続いて、ヒールの足音が遠慮なく廊下を進んでくる。
「アホイ! トオル、起きてる?」
リビングに入ってきたのは、部屋着の上にカーディガンを羽織ったエレナだった。彼女は完全に私の部屋の合い鍵を自分の家のように使いこなしている。
「……ノックくらいしろ。なぜ当たり前のように正面から入ってくる」
「隣なんだからいいじゃない。それより、今の純の配信、見てるわよね? あの床の染み……」
「ああ。どうやら、純たちはヤバい場所に踏み込んでしまったらしい」
私は手元のキーボードを引き寄せた。
「深美に繋ぐぞ」
私が連絡を入れるより早く、別の回線から着信があった。深美からだ。
『金子、純たちの配信を見ているか』
深美の声は切羽詰まっていた。
「見ている。K区の廃工場だな」
『そこは、うちの課が追っている違法薬物の密造拠点の可能性がある場所だ。昨夜から内偵を張る予定だったんだが、人員不足で後回しになっていた。まさか純たちが先に入り込むとは……』
「警察の初動の遅さが、また僕たちの厄介事を増やしたというわけか」
『嫌味を言っている場合じゃない! 奴らはプロの犯罪集団だ。武器も持っているはずだ。今すぐ二人を撤退させろ! 私も部隊を連れて現場に急行する』
「分かっている」
私は通話を切らずに、純たちへの音声ラインを開いた。
「純、月子。今すぐそこから出ろ。その工場は心霊スポットじゃない。違法薬物の密造プラントだ。中にいるのは幽霊じゃなく、本職の犯罪者だ」
『えっ……!?』
純が息を呑む音が聞こえた。
『ウソでしょ……じゃあ、この臭いって……』
「いいから早く戻れ。月子、純の背後を守れ」
『了解ッス! 先輩、走りますよ!』
月子が純の腕を引き、来た道を引き返そうとした、その時だ。
ガチャン、と。
工場の入り口方面から、金属の重い扉が閉まる音が響いた。
『……おい、誰か入ってきたぞ』
『配信者か? チッ、面倒な。捕まえろ!』
荒々しい男たちの声と、複数の足音が暗闇の中から迫ってくる。
逃げ道が塞がれた。
『Qちゃん! 敵、3人……いや、4人いるわ! 入り口を塞がれた!』
純の焦った声が響く。
『店長、強行突破しますか? 私の木刀なら……』
月子がジンバルカメラを片手に構え、もう片方の手で背中の木刀に手を伸ばす音が聞こえる。
「やめろ。相手は刃物か、最悪、銃を持っている可能性がある。狭い通路での乱戦はリスクが高すぎる」
私はキーボードを叩き、廃工場の図面をハッキングして呼び出した。
「ナオミ、繋がっているか」
『ええ、バッチリ聞いてるわよ』
渋谷のクラブから、ナオミのクリアな声が返ってくる。
『男たちの足音、革靴ね。かなり重い装備を持ってる。距離は約20メートル。純たちの現在位置からだと、右の階段を上るのが一番安全よ』
「聞いたな、純。右の階段から二階へ上がれ。そこから工場の裏側、搬入口のキャットウォークに抜けられるはずだ」
『わ、わかった!』
純と月子が、階段を駆け上がる。
足音が追いかけてくる。
『待てコラァ!』
男たちの怒号が工場内に反響する。
二人がキャットウォークに出た直後、前方の非常階段からも別の男たちの姿が現れた。挟み撃ちだ。
『Qちゃん! 前にもいる!』
「エレナ、チャイを頼む」
「任せて。……チャイちゃん、おいで」
エレナがソファの端で、目を覚ましたチャイを優しく抱き上げる。
「深美、現場まであと何分だ」
『あと3分だ! すでに包囲網は敷いている!』
「よし。僕が『隙』を作る」
工場の配電盤などのインフラは物理的に遮断されており、外部からのハッキングは通用しない。ならば、こちらの手持ちの武器を最大化するしかない。
私はキーボードを叩き、純のスマートフォンと月子のジンバルカメラのシステムに直接アクセスした。
「ナオミ。この間の地下道で使った『視覚・聴覚攪乱プログラム』のパッチを送る。純のスマホのスピーカーと、月子のカメラの超高輝度LEDライトに連動させろ」
『了解! 最高に不快な周波数とストロボのビート、送るわ!』
「純、スマホのボリュームを最大にして前方の敵に向けろ! 月子、ライトを後方の敵に向けろ!」
『いくわよ!』
私が実行コマンドを叩き込んだ瞬間、純のスマホから、三半規管を直接揺さぶるような不規則な逆位相の高周波ノイズが爆音で鳴り響いた。同時に、月子のカメラのLEDライトが、人間の網膜の処理速度の限界を超えるランダムなストロボ発光を開始する。
『ぎゃあっ!?』
『目が……! なんだこの音は!』
挟み撃ちにしていた男たちが、突如として襲いかかった視覚と聴覚への暴力的なバグに平衡感覚を奪われ、その場にうずくまる。
「今だ、月子! キャットウォークの奥、非常扉を蹴破れ!」
『了解ッス!』
月子の前蹴りが、暗闇の中で重い金属音を響かせた。
錆びついた扉が外側へ吹き飛ぶ。
冷たい夜風が吹き込み、純のカメラに外の街灯の光が差し込む。
『開いたわ!』
二人が外の非常階段へ飛び出した直後だった。
パトカーのサイレンは聞こえない。だが、階段の下の暗がりに、黒塗りのワンボックスカーと無数のヘッドライトが音もなく集結していた。
『……遅かったじゃないか、と言いたいところだが、今回は手間が省けた』
暗闇から、冷ややかな声が響く。
非常階段を降りた純たちの前に現れたのは、防刃ベストを着用し、特殊警棒を構えた深美と、完全武装の警察の突入部隊だった。
『目標確認。……全車両、ライト点灯。制圧開始』
深美が低く鋭い声で指示を出すと同時、無数の眩いライトが廃工場の裏口を一斉に照らし出した。
逃げ出そうとしていた男たちが、その圧倒的な光の壁と警察の包囲網の前に、バールやナイフを力なく取り落とす。
『確保完了。……お前たちの出番はここまでだ。あとは警察で引き受ける』
深美が息を吐きながら、通信機越しに言った。
「手際が良くなったな。君の昇進も伊達じゃないというわけか」
私はグラスを傾け、氷がカランと鳴る音を楽しんだ。
画面の向こうの純の配信では、特定班たちが怒涛の勢いでコメントを流している。
『Qちゃん神アシスト!』
『音と光のコンボえぐすぎw』
『デカ美の包囲網完璧!』
『赤スパ(10,000円):今日も最高のエンタメをありがとう』
「……フフッ。結局、トオルの平穏な引きこもり生活は、長くは続かない運命なのね」
エレナがチャイの背中を撫でながら、妖艶に微笑む。
「……まあな」
私はモニターから視線を外し、手元のロックグラスを見つめた。
ノンアルコール・モルトのピート香が鼻腔を抜ける。グラスの氷が静かに溶け、微かな音を立てた。
足元では、チャイがエレナの腕の中で再び無防備な寝息を立て始めている。
防音の効いた安全な城。私はキーボードから手を離し、ゆっくりと背もたれに体重を預けた。
「……特定班。次の座標を送れ」




