第44話 金子徹、外へ
私がエンターキーを叩き込んだ瞬間、デュアルモニターに無数のパケットが乱舞し、東京タワー地下のネットワークに深く食い込んでいく軌跡が描かれた。
私の書いた自己増殖型のカウンター・プログラムが、ファントムの構築した防御壁を次々と突破していく。
『……なるほど』
スピーカーから、車椅子の男――『神の眼』の支配者の、低く掠れた声が響いた。
焦りはなかった。驚愕すらしていない。
『見事なアルゴリズムだ。お前の技術は確かに5年前から進化している。……だが、ネットワークで繋がっている以上、お前の手札はそこまでだ』
画面越しの男が、車椅子の肘掛けにある物理スイッチを無造作に押し込んだ。
――ブツンッ。
純たちのウェアラブルカメラから送られてきていたストリーミングの映像が、一瞬にしてフリーズした。
直後、私のモニター上に『Connection Lost(接続切断)』『Timeout』を告げる赤いエラーウィンドウが、滝のように無数にポップアップし始めた。
「……物理回線を切断したか」
私はキーボードを何度か叩いて再接続を試みたが、応答はない。
ナオミが拾っていた環境音も、完全に途絶した。
「純? 深美? 応答しろ」
インカムに向かって呼びかけるが、ノイズすら乗らない。完全な沈黙だ。
「どうなってるの、Q!」
別室でバックアップに回っていたナオミとエレナ、そしてソフィアが血相を変えてリビングに飛び込んできた。
「……地下インフラの基幹ルーターごと、電源を落としたか、あるいは強力な電波妨害を起動した。どちらにせよ、あそこは完全に外界から切り離された『密室』になった」
私は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、現状を言葉にした。
黒幕は、私が外部からハッキングを仕掛けてくることを最初から想定していた。だからこそ、最後はネットワークの物理的な遮断という最も原始的で確実な手段に出たのだ。
「そんな……じゃあ、地下に取り残された純たちはどうなるのよ!」
エレナが顔面を蒼白にさせる。
地下には、純、月子、深美、そしてPMCの部隊がいる。
相手は重武装のテロリスト集団だ。それに、インフラを破壊するマルウェアが起動するまで残り時間は10分を切っている。
仮に深美たちが武力で敵を制圧できたとしても、あの複雑なメインサーバーの構造を即座に理解し、手動でマルウェアの散布を食い止めることは、彼女たちだけでは不可能に近い。
「……」
私は、自分の足元を見た。
チャイが不安そうに私を見上げ、鼻を鳴らしている。
ここは私の安息の地だ。分厚い壁と強固なセキュリティに守られた、絶対に安全な城。
ここから一歩でも外に出れば、私はただの無力な人間に過ぎない。
だが、通信が切れた今、私がここに座っていても何の意味もない。
「……行く」
私は立ち上がった。
自分でも驚くほど、足は震えていた。だが、立ち上がらなければならなかった。
「行くって、東京タワーに!? トオル、あなた外に出られないんじゃ……」
エレナが驚愕して私を見る。
「セシリア。ヘリを手配しろ。一番近いヘリポートから東京タワーへ飛ぶ」
私はエレナの言葉を遮り、部屋の隅で静かにタブレットを操作していたセシリアを見た。
「……話が早くて助かるわ」
セシリアは青い瞳を細め、タブレットの画面を指で弾いた。
「アルファチームを現場に投下したヘリが、事後処理と撤退支援のために、今も芝公園付近のヘリポートでローターを回したまま待機しているわ。5分でこのマンションの屋上に呼べる」
「助かる。……エレナ、チャイを頼む。絶対に部屋から出すな」
「わ、分かったわ。……死なないでよ、トオル」
エレナがチャイを抱き上げる。チャイは「どこに行くの?」と不思議そうに首を傾げていた。
私はキッチンへ向かい、あらかじめ準備しておいた保冷バッグを掴んだ。そして、セシリアと共にリビングを後にした。
★★★★★★★★★★★
屋上。
扉を開けた瞬間、強烈な突風と、耳をつんざくようなローター音が全身を叩きつけた。
黒塗りの小型ヘリコプターが、すでに屋上ヘリポートで着陸態勢に入っていた。
空気が冷たい。排気ガスと都市の埃の匂い。圧倒的な高所による目眩。
私の呼吸が浅くなり、視界が歪み始める。
一歩踏み出すごとに、膝から力が抜けそうになる。これが「外の世界」だ。私が徹底的に拒絶してきた、予測不可能で致死的な空間。
「早く乗って!」
セシリアに背中を押され、私は這うようにしてヘリの機内へと転がり込んだ。
セシリアも素早く乗り込み、ドアが閉められる。
すぐにヘリが浮き上がり、東京の空を滑るように進み始めた。
「ハァッ……ハァッ……」
機内でシートベルトを締めた私は、小刻みな震えを抑えることができなかった。
極度のストレスと恐怖。このままでは現場に着く前に、私の精神がオーバーヒートして崩壊してしまう。
私は震える手で、足元に置いた保冷バッグのジッパーを開けた。
中から取り出したのは、大きなプラスチックの弁当箱と、よく冷えた銀色の缶だ。
「……こんな状況で、食事をする気?」
向かいの席で、セシリアが信じられないといった顔で私を見る。
「……胃袋に強烈な刺激を叩き込めば、強制的に恐怖を麻痺させることができる」
私は缶のプルタブを開けた。
プシュッ、という炭酸の弾ける音が、ローターの騒音に混じる。
中身は極限まで冷やした強炭酸のノンアルコール・ビールテイスト飲料に、私が自家製の『超高濃度カフェインシロップ』と『島唐辛子のエキス』をブレンドした特製ドリンクだ。戦いの最中にアルコールで脳を鈍らせるなど、ハッカーの恥だ。
私はそれを一気に煽り、喉の奥へ流し込んだ。
カフェインの苦味と唐辛子の痛烈な刺激が胃の腑に落ち、瞬時に血流に乗って交感神経を暴力的に叩き起こしていく。
弁当箱の蓋を開ける。
そこに詰め込まれているのは、沖縄の那覇にある有名な大衆食堂『ルビー』の看板メニュー、『Cランチ』を完全再現したカロリーの塊だ。
巨大な薄切りのトンカツ。真っ赤なタコさんウィンナー。カリッと焼かれた厚切りのポーク。たっぷりのマヨネーズで和えられたマカロニサラダと、端に添えられた白米。
数時間前にソーキそばを食べたばかりの胃袋は、これ以上の固形物を拒絶している。完食など不可能だ。
だが、繊細な味覚など今の私には必要ない。必要なのは、劇薬としての「熱」だ。
私は割り箸を割り、トンカツの端を噛みちぎった。
サクッとした衣の中から溢れる豚肉の脂とソースの塩気。すかさずポークを齧り、強烈な塩味で特製ドリンクを誘う。
ジャンクな暴力性が、恐怖で凍えそうな身体に無理やり熱を灯していく。私は胃が重くなる前に箸を置き、再びドリンクを煽った。
「……狂ってるわね、あなた」
「探偵は……脳が資本だ。エンジンを回し続けなければならない」
私は小さく息を吐いた。
震えは、確実に治まってきている。
「あの男は……僕の仲間を、『盤上の駒』だと言った」
私はぽつりと呟いた。
「盤上の駒なら、プレイヤーからの通信が切れた時点で、どう動いていいか分からず死を待つだけだ。……だが、人間は違う。人は、システムの部品じゃない」
セシリアが黙って私を見つめている。
「純も、月子も、深美も。彼女たちは僕の指示がなくても、自分の意志で判断し、生き残るために最善の行動を取れる。……僕は、彼女たちを信じている」
「……そうね。あの子たちは、あなたが思っている以上に頑丈で、しぶといわ」
セシリアが、微かに口角を上げた。
窓の外に、夕闇が迫る東京の街並みが広がっている。
その中心に、赤と白の巨大な鉄塔――東京タワーが、不気味なシルエットとしてそびえ立っていた。
「……さあ。待たせたな」
私は蓋を閉めた弁当箱と空き缶をバッグにしまい、前方を見据えた。
引きこもり探偵が、ついに外の世界で、真の黒幕と対峙する時が来たのだ。




