第43話 最終地点:東京タワー
木曜日、午後1時。
私の安息の地であるマンションの最上階リビングは、南国の強烈な日差しと、陽気なラテン音楽に支配されていた。
もちろん、私が外出したわけではない。
リビングの壁一面を覆う巨大なプロジェクター・スクリーンに、沖縄県名護市にある『オリオンハッピーパーク』の鮮明な見学ツアー映像を流し、BGMとして現地の三線とサンバが混ざったような独特の音楽を流しているのだ。
室温は少し高めに設定し、サーキュレーターで潮風を模した気流を作っている。
昨夜、千葉のドーム廃墟を特定した私たちは、深美の警察部隊とセシリアのPMCを急行させた。
だが、そこは空っぽだった。祭壇と無惨な遺体だけが残され、巨大なサーバー群はすでに物理的に破壊されていたのだ。
タナトスの真の支配者――『神の眼』は、自分への包囲網が狭まっていることを察知し、私たちを千葉のダミー拠点へ誘導している間に、真の中枢システムを別の場所へと移行させていた。
私は徹夜でその移行トラフィックの残骸を拾い集め、ついに真の『最終地点』の物理座標を割り出した。
決戦は、今夜。
その前に、私は極度に疲弊した脳と神経を、この「疑似沖縄旅行」によって強制的に回復させる必要があった。
ダイニングテーブルの上には、名護の『ブラジル食堂』を模した、豚肉のスペアリブをじっくりと煮込んだソーキが乗った『ソーキそば』が湯気を立てている。
鰹と豚骨のダブルスープに、平打ちのちぢれ麺。箸で持てば崩れるほど柔らかいソーキの濃厚な脂が、あっさりとしたスープに溶け出し、絶妙なコクを生み出している。
そして、その傍らには、工場見学の締めくくりとして提供される一杯を完全再現した、霜が降りるほど冷やされたオリオンビールのジョッキがある。
無論、これも極限までアルコール成分を排除した精巧なダミー飲料だ。だが、伊江島産のシークヮーサー果汁が微かに香るこの一杯は、南国の気候とソーキの脂を洗い流すのに、これ以上ないほどの清涼感をもたらしてくれる。
私はソーキそばを啜り、キンキンに冷えたクリアフリーを喉に流し込んだ。
……悪くない。視覚、聴覚、味覚を完全に騙すことで、私の脳は今、沖縄の風を感じてリフレッシュしている。
「クゥ〜ン」
足元から、控えめな鳴き声がした。
愛犬のチャイだ。彼は私の疑似バカンスに付き合わされて少し暑いのか、冷たいフローリングの上でカエルのように後ろ足を伸ばしてペタンと這いつくばっている。
私が冷水で冷やした犬用のサツマイモのおやつを口元に持っていくと、チャイはそれを前足で器用に押さえ込み、もふもふの頬を一生懸命に膨らませて夢中で咀嚼し始めた。
その愛らしい仕草に思わず頬が緩む。この小さな癒やしこそが、私の最強の防壁だ。
食後。私は濃厚で苦味の強い、ブラジル風の本格的なエスプレッソを淹れ、小さなデミタスカップで一気に煽った。
強烈なカフェインが脳の芯を叩き起こし、疑似バカンスは終了した。
プロジェクターの電源を落とし、私はリビングの中央に集まった女たちに向き直った。
「……充電完了だ。状況を整理するぞ」
私の声に、純、月子、深美、エレナ、ナオミ、セシリア、ソフィアが一斉に表情を引き締めた。
「昨夜の千葉の廃墟は、奴らの『目』を欺くための壮大なダミーだった。だが、奴が急いでメインシステムを移行させた際、微かな電磁波の痕跡が残った」
私はメインモニターに、東京都心の3Dマップを表示させた。
赤いラインが、千葉から都心へと伸び、一つの巨大なシンボルに突き刺さっている。
「……嘘でしょ」
純が、そのシンボルを見て息を呑んだ。
「東京の、ど真ん中じゃない……」
エレナも青い瞳を見開く。
赤いラインが突き刺さっていたのは、港区芝公園。
高さ333メートルを誇る、赤と白の巨大な電波塔――『東京タワー』だった。
「『神の眼』の奴は、東京タワーの地下にある通信インフラの基幹ハブと、旧・特別高圧変電施設を物理的にジャックした」
私は淡々と事実を告げた。
「奴の目的は、ここから都内の主要なネットワークへ物理回線経由で直接マルウェアを流し込み、交通・医療・金融などのインフラを完全に麻痺させる気だ。……そして、その都市機能の停止を人質にして、僕に『パンドラの箱』のパスワードを要求するつもりだろう」
「そんなことになれば……東京中が大パニックになるわよ!」
ナオミが叫ぶ。
「東京だけじゃない。日本という国家の機能が完全に停止する。……奴が自らを『神』と名乗る、その狂った選民思想の総仕上げだ」
「……阻止するには、どうすればいい」
深美が、鋭い声で尋ねた。彼女の右手は、無意識に腰のホルスターに伸びている。
「インフラ破壊のマルウェアが実行されるまで、残り時間はあと3時間。……僕がここからサイバー攻撃を仕掛けて奴の防御を削るが、最終的には、地下施設にあるメインサーバーの電源を『物理的』に落とすしかない」
私がそう言うと、深美とセシリアが顔を見合わせた。
「突入の主力は、セシリアが手配したPMCのアルファチームと、深美の警察部隊だ。サプレッサー装備のプロに任せる。……だが、地下のメインサーバーに僕のカウンター・プログラムを直接流し込むためには、物理的なデバイスの接続が必要になる」
私は純と月子を見た。
「純、月子。お前たちは後方からついて行き、僕の『手』として動いてくれ」
「了解よ」
純が、決意に満ちた声で頷く。彼女の足元は動きやすいハイテクスニーカーだ。
「純、今回はライブ配信は厳禁だ。敵は『神の眼』の支配者だ、電波を傍受されれば一瞬で位置が筒抜けになる。通信は僕との量子暗号化されたプライベート回線のみに絞れ」
「わかってるわ。特定班のみんなには、すでに『東京タワー周辺のライブカメラ監視と、不審車両のトラッキング』を指示してあるわ。地上は彼らに任せて、私たちは地下に集中する」
「はい! 電源ケーブルだろうが分厚い壁だろうが、私が全部木刀でぶっ壊します!」
月子も気合十分に頷く。
「よし。……ナオミ、ソフィア、エレナ。君たちはここで僕のバックアップだ。各々の専門知識で、突入部隊をナビゲートしろ」
全員が力強く頷くのを確認し、私は突入部隊を送り出した。
★★★★★★★★★★★
午後3時。
秋晴れの空の下、東京タワーはいつもと変わらぬ威容でそびえ立っていた。
観光客たちがカメラを構え、クレープやアイスクリームを食べながら平和な休日を楽しんでいる。
その足元、一般客立ち入り禁止の地下管理エリアへと通じる重厚なサービスドアの前に、深美とPMCの精鋭たち、そして後方に純と月子が立っていた。
『Qちゃん、着いたわ。……ドアは電子ロックされてる』
純のウェアラブルカメラからの映像が、私のモニターに映し出される。
「3秒待て」
私はキーボードを叩き、東京タワーの管理システムに侵入した。すでに奴らと私の間で、サイバー空間での陣取りゲームが始まっている。
タァン! とエンターキーを叩く。
――ガチャン。
重い電子音がして、ロックが解除された。
「行くぞ」
深美とPMCの隊員たちが先頭に立ち、扉を押し開ける。
薄暗い地下通路。冷たいコンクリートの壁と、剥き出しの太い配管が奥へと続いている。
頭上からは、巨大な変圧器が発する「ブゥゥゥン」という低いハムノイズが絶え間なく鳴り響いていた。
『……嫌な空気ね。肌がピリピリするわ』
純が小声で呟く。
「ナオミ、音はどうだ?」
『ノイズキャンセリングかけてるけど、かなりシビアね。……待って、前方30メートル。足音が2つ。かなり重いブーツの音よ』
別回線でナオミが警告を発する。
「敵の巡回だ。アルファチーム、やれるか」
『Copy that.(了解)』
PMCの隊員たちが音もなく通路の角に身を潜める。
黒いタクティカルギアに身を包んだ、アサルトライフルを装備した大柄な男が二人が角を曲がってきた瞬間。
シュッ、シュッ!
消音器付きの特殊警棒とスタンガンによる、プロの電光石火の制圧。男たちが声も出さずに崩れ落ちる。
だが、倒れ際に一人の男が持っていたライフルが床に落ち、大きな金属音が響いてしまった。
「チッ、奥からもう一人来るぞ!」
深美が警告する。
奥の扉から慌てて飛び出してきた敵兵と、後方にいた月子の距離が近かった。
「お取り込み中失礼しまァァァす!」
月子が即座に反応した。
男が銃を構えるより早く、彼女は低い姿勢から男の懐に滑り込み、死角からアッパー気味に木刀の柄を男の顎先へ正確に打ち上げた。
ドゴォッ!!
脳を直接揺らされた男は、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
『……ふぅ。お見事ね、ツッキー』
純が後ろからひょっこりと顔を出す。
「油断するな。ここは敵の心臓部だ」
深美が男たちを拘束しながら言う。
さらに奥へ進むと、巨大な防爆扉が現れた。
扉の横には、網膜スキャナーと静脈認証のパネル。
『Boss, 爆薬で吹き飛ばすか?』
PMCの隊長がセシリアに通信を入れる。
「ダメだ。この裏はメインサーバー群だ。爆破の衝撃でシステムが損傷すれば、マルウェアの流出を止められなくなる可能性がある」
私が即座に却下する。
「……特定班が事前に調べてくれた、手動開放の裏技を使う。純、パネルの下だ! カバーを外して物理キーシリンダーの配線をショートさせろ!」
『わ、わかった! 月子、ヘアピン貸して!』
純が月子から受け取ったヘアピンを使い、カバーをこじ開ける。
指示通りに二本の配線を接触させると、「バチッ」と小さな火花が散り、ロックの赤いランプが緑色に変わった。
「月子!」
「任せてください!」
月子が巨大な手動回転ハンドルを両手で握り、全身の筋肉を使って力任せに回し始めた。
ギギギギギ……と、重々しい金属音を立てて、防爆扉がゆっくりと開いていく。
その向こう側に広がっていたのは。
無数のLEDランプが不気味に点滅する、巨大なサーバー群の森だった。
『……ここが、「神の眼」の脳味噌……』
純が息を呑む。
部屋の中央には、巨大なメインコンソールがあり、そこには一人の男が座っていた。
いや、座っているのではない。
彼は車椅子に乗っていた。
そして、その顔の半分は、痛々しい火傷の痕と、それを覆うような銀色の金属プレートで覆われていたのだ。
『……よく来たね、ネズミ共。そして、モニターの向こうのQ』
男がゆっくりと車椅子を反転させ、私たちの方を向いた。
その声は、合成音声ではなく、ひどく掠れた、しかし絶対的な冷酷さを持った肉声だった。
「……お前が、真の黒幕か」
私はモニター越しに、その男の目を睨みつけた。
『いかにも。私がタナトスの創造主であり、この「神の眼」の支配者だ。……ファントムのような小物は、私の手足に過ぎない』
男は手元のキーボードを撫でた。
『さあ、パンドラの箱のパスワードをもらおうか。あと10分で、このインフラから、日本中のネットワークを破壊するマルウェアがばら撒かれる。……君たちの足元で、数千万の人間がパニックに陥り、殺し合う光景を見たくはなかろう?』
「……断る。そして、お前の野望もここで終わりだ」
私は静かに宣言した。
「純、僕の自作ドングルをメインコンソールに挿せ! 深美、奴を拘束しろ!」
「了解!!」
純と深美、そしてPMCの隊員たちが一斉に動き出した、その瞬間だった。
『……愚かな』
男が指をパチンと鳴らした。
サーバーラックの陰から、アサルトライフルを構えた十数人の完全武装の兵士たちが、ゴーストのように姿を現し、突入部隊に銃口を一斉に向けたのだ。
『動けば、ハチの巣だ』
男が冷酷に笑う。
圧倒的な戦力差。絶体絶命の包囲網。
だが。
私の唇には、自然と笑みが浮かんでいた。
「……愚かなのはお前だ、『神』を気取る男よ」
私は手元のキーボードの、ある特定のキーをそっと撫でた。
「お前は、僕がこの3時間、ただ沖縄の真似事をして遊んでいたとでも思っていたのか?」
私は静かに、しかし絶対の確信を持って、エンターキーを叩き込んだ。
東京のど真ん中。
最も高い塔の地下で、私と数万人の特定班が仕掛けた、究極のカウンター・プログラムが、今まさに牙を剥こうとしていた。




