第42話 科学とオカルトの融合解析
水曜日、午後8時。
私の安息の地であるマンションの最上階リビングは、重苦しく張り詰めた静寂に支配されていた。
目を閉じれば、そこは那覇の国際通りから少し入った、ディープで活気ある路地裏の居酒屋だ。
ダイニングテーブルの上には、沖縄の夜を彩る小鉢が所狭しと並んでいる。
コリコリとした食感にピーナッツのコクが絡む『ミミガーの和え物』。
特製のシークヮーサーぽん酢につけていただく、プチプチと弾ける磯の香りがたまらない『海ぶどう』。
塩漬けにして鰹節をまぶした、ピリッとした辛味が鼻を抜ける『島らっきょう』。
そして、甘辛い味噌が絡んで無限に箸が進む『みそぴー』。
メインの炒め物は二品。
島豆腐とスパムから出る旨味が、ゴーヤーの爽やかな苦味を完璧に引き立てる『ゴーヤーちゃんぷるー』。
ツナとネギだけを使い、麺がくっつかないよう油のコーティングと火加減を極限まで計算し尽くした、極めてシンプルな『そーみんちゃんぷるー』だ。
私はキンキンに冷えた生ビールのジョッキを傾けて喉を鳴らし、すかさず琉球ガラスのグラスに注がれた泡盛の水割りを口に含んだ。
無論、これらは前回同様、極限までアルコール成分を排除した精巧なダミー飲料だ。
私は今、現実逃避の居酒屋ごっこをしているわけではない。
セシリアが放った150億円の懸賞金により、ダークウェブからタナトスのサーバーへの苛烈なサイバー攻撃が開始されている。私はそのトラフィックの波を四台のモニターで同時に監視しながら、オーバーヒート寸前の脳を「味覚の記憶」によって強制的に冷却・リセットしていたのだ。
一切のアルコールで脳を鈍らせることなく、南国のスパイスと塩分だけを効率的に摂取し、神経を研ぎ澄ませるための、戦場における極限の儀式である。
「クゥ〜ン……」
私の張り詰めた空気を和らげるように、足元から声がした。
見下ろすと、愛犬のチャイが、私が手に持っている茹でたヤギ肉の匂いを嗅ぎつけ、後ろ足で立ち上がってピョンピョンと跳ねていた。
私が専用の器を床に置くよりも早く、チャイは待ちきれないとばかりに器に顔を突っ込み、あっという間にサツマイモと肉を平らげた。そして口の周りをペロリと舐めると、満足そうに私の足の甲に丸いアゴを乗せ、静かに目を閉じた。
この無垢な温もりだけが、私を狂気の世界から人間界へと繋ぎ止めている。
「んん〜っ! このそーみんちゃんぷるー、シンプルなのにめちゃくちゃ美味しいです! 永遠に食べられますね!」
別室で待機していた月子がやってきて、すでに三皿目となる大盛りのおかわりを平らげている。
「ゴーヤーの苦味も最高ね。……でも、少しは落ち着かない? 敵がいつ動くか分からないのに」
純が、島らっきょうをかじりながらスマホの画面を気にする。
「懸賞金の効果で、タナトスの防衛システムには相当な負荷がかかっている。奴らが防御にリソースを割いている今この瞬間こそが、唯一の休息時間だ。しっかり食べておけ」
私がみそぴーを口に運んだ、その時だった。
――ピィィィィン!!
メインモニターから、けたたましい警告音が鳴り響いた。
『神の眼』のサイトを監視していた解析ツールのアラートだ。
「……動きがあったぞ。全員、持ち場につけ」
私の声に、リビングの空気が一瞬で凍りついた。
待機していた深美、セシリア、ナオミ、エレナ、ソフィアも瞬時に集まってくる。
モニターに映し出された『神の眼』のトップページ。
そこにあった「黒い安楽椅子」の映像がノイズと共に消え、新たなライブ映像がポップアップした。
『……ハロー、世界。そして、忌まわしき安楽椅子探偵よ』
以前のファントムのものとは違う、さらに低く、重厚に歪められた合成音声が響く。
『ファントムという捨て駒を潰した程度で、勝った気になっていたのかね? 私は『神の眼』。タナトスを統べる真の支配者だ』
やはり。ファントムの逮捕は、奴らにとって想定内のトカゲの尻尾切りに過ぎなかったのだ。
カメラの画角が広がり、不気味な背景が映し出された。
そこは、ドーム状の巨大な天井のガラスが割れ落ち、そこから夜空が見える廃墟だった。
そして、その中央にある石造りの祭壇には――。
「ひっ……!」
純が思わず両手で口を覆った。
祭壇の上に、一人の男が磔にされていた。
すでに事切れている。衣服は引き裂かれ、その胸元は無惨に切り開かれていた。
『これは、私を裏切り、懸賞金に目が眩んで私の居場所を売ろうとした愚か者の末路だ。……Q、パンドラの箱を渡さなければ、次はお前の周囲の人間がこの祭壇に上がることになる。時は満ちた。世界が燃えるのを見たまえ』
映像がプツンと切れ、再び黒い安楽椅子の画面に戻った。
コメント欄の特定班たちも、あまりの凄惨な映像に言葉を失っている。
「……見せしめの殺人。やはり奴らは、己の目的のためなら命を塵芥としか思っていない真のテロリストだ」
深美が拳を震わせ、警察官としての激しい怒りを込めた声で吐き捨てた。
「ヤス! 金子、今の映像のキャッシュ、すぐにモニターに固定してちょうだい!」
ソフィアが、白衣の裾を翻してモニターの前に身を乗り出した。
彼女のブルーグリーンの瞳が、遺体の無惨な姿を食い入るように見つめている。
「どうした、ソフィア。身元が分かるのか?」
「身元なんてどうでもいいわ! 見て、この胸部の切開痕! Y字切開ではなく、あえて心臓の位置だけを正確に、そして円形に抉り取っているわ! 肋骨の切断も、医療用のストライカーノコギリではなく、刃の粗い特殊な儀式用の短剣を使った痕跡よ!」
ソフィアはモニターを指差し、興奮した様子で法医学的な所見を捲し立てた。
「さらに、手足の拘束具の食い込み方。死後に縛られたんじゃない。生きたまま、特定の『ポーズ』を取らされるように計算して固定されているわ。……これはただの拷問じゃない。血と苦痛を捧げるための、完璧な『供物』の形よ!」
「供物……?」
私が怪訝な顔をした時。
「アホイ! トオル、ソフィアの言う通りよ! ちょっとそこ、背景の空を拡大して!」
エレナが、ソフィアを退しのけるようにしてモニターの前に立った。
彼女の指示通り、私は崩落したドーム天井から見えていた「夜空」の部分に画像補正をかけ、星の輝きを鮮明に浮き上がらせた。
「やっぱりね。……Wの形に並んだ五つの星。カシオペア座よ」
エレナは自身の豊かな赤毛をかき上げ、深刻な表情で語り始めた。
「遺体の損壊痕と、カシオペア座が天頂に見える方角。……間違いないわ。これ、中世ヨーロッパの黒魔術結社が行っていた『天上の裁き』と呼ばれる儀式の模倣よ」
「……黒魔術の儀式?」
深美が顔をしかめる。
「ええ。裏切り者を神への供物とし、強大な力を得るための儀式。……『神の眼』の支配者は、自分をただのハッカーではなく、世界を支配する『神』あるいは『魔王』に見立てようとしているのよ。だからあんな悪趣味な見立て殺人を行ったのね」
「……なるほど。自己顕示欲と、恐怖支配のための異常な演出というわけか」
私は顎に手を当てた。
「金子。オカルトの知識で犯人の心理が分かったところで、居場所が分からなければ意味がないぞ」
深美が焦燥を滲ませて言う。
「いや、大きな意味がある。……ソフィアの医学的分析と、エレナのオカルト知識が、奴の『座標』を絞り込む決定的な鍵になる」
私はキーボードを弾き、日本の3Dマップを展開した。
「エレナ。その『天上の裁き』の儀式を行うために、建築物や場所に必要な『条件』はあるか?」
「ええ。祭壇は必ず『東』を向いていなければならないわ。そして、天頂のカシオペア座の光を直線で受け止めるために、天井には巨大な吹き抜け、あるいはそれに準ずる構造が必要よ」
「よし。……ナオミ、特定班。聞いたな?」
私は裏回線のマイクに向かって指示を飛ばした。
「天井が崩壊しているかガラスが割れ落ちた、東向きの広大な空間を持つ廃墟を探せ。さらに、先ほどの映像に微かに映っていた鉄骨の錆の具合から、海風に晒される湾岸エリアか、あるいは……」
『Q! ちょっと待って!』
ナオミがDJミキサーの前に座り、ヘッドフォンを耳に押し当てながら叫んだ。
彼女は先ほどの黒幕の映像の「環境音」を解析していたのだ。
『映像の裏で、ずっと低いハムノイズが鳴ってたの。最初はただの風の音かと思ったんだけど……これ、巨大な「変圧器」の作動音よ。しかも、この周波数のうねり、普通の工場じゃないわ。メガソーラーや、超大型の通信施設レベルの電力を扱ってる場所よ!』
「……東向きの祭壇、星が見える吹き抜けのドーム、そして超大型の施設レベルの電力を備えた場所」
点と点が繋がり、一つの明確な線となって私の脳裏に浮かび上がる。
『特定班、検索ヒットしたぞ!』
『条件に完全に一致する場所が一つある!』
『千葉の房総半島にある、バブル期に建設途中で放棄された巨大なドーム型のイベントホール跡地だ! 天井のガラスが割れて吹き抜けになってるし、すぐ隣に稼働中のメガソーラーと変電施設がある!』
特定班のコメントが、私の推測を確信へと変えた。
「……ビンゴだ」
私は3Dマップ上の、東京湾を挟んだ向こう側にある、廃墟のドーム施設の座標をロックオンした。
「黒幕の奴、『神の眼』という巨大な監視ネットワークを維持するために、メガソーラー級の膨大な電力を必要としていた。そして、自らを神に見立てるための儀式の舞台として、天頂が開けたこのドーム廃墟を選んだんだ」
悪趣味だが、奴の狂った美学と物理的要件には完全に合致している。
「場所は割れたぞ、深美」
「……ああ。今度こそ、逃がしはしない」
深美が腰のホルスターを叩き、決意の表情を見せた。
純も、月子も、戦場に向かう覚悟を決めている。
医学が死者の声を聞き、オカルトが狂気の意図を読み解き、音響とハッキングが座標を暴き出す。
私たちのチームだからこそ成し得た、奇跡的な融合解析だ。
私はモニターから放たれる冷たい光を静かに、そして鋭く見つめ返した。
「……さあ、終わらせよう。パンドラの箱を閉じる時間だ」




