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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第41話 世界を敵に回しても

 水曜日、正午。

 私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、豚骨の野性味と鰹節の華やかな香りが入り混じった、南国の風が吹いていた。


 白磁の深い丼の中で、黄金色に澄んだスープが静かに湯気を立てている。

 私はレンゲでそのスープをすくい、ゆっくりと口に運んだ。

 血合い抜きの鰹荒節から引いた出汁と、豚骨の旨味が合わさった極上のダブルスープ。あっさりとしているのに、口の奥にガツンと残る強烈な旨味がある。

 タナトスとの全面戦争が続く中、私は徹夜でサイバー戦を指揮しながら、複数の自動調理鍋のタイマーと温度を極限までスケジュール管理し、沖縄のソウルフードである『沖縄そば』を完全再現していた。麺は、かん水ではなく木灰の上澄み液を練り込んで打たれた伝統的な特注麺を取り寄せている。コシが強く、スープとの絡みは絶妙だ。


 そして、そばの脇を固めるのは、沖縄の食堂には欠かせない『煮付け』の盛り合わせである。

 皮付きの豚三枚肉、プルプルのテビチ、大ぶりの島豆腐、そして結び昆布。これらもまた、私がキーボードを叩く傍らで、圧力鍋が数時間かけて黒糖と泡盛、上質な醤油と共に箸で切れるほど柔らかく煮込んでくれたものだ。

 煮付けの三枚肉を一口かじり、脂の甘みを感じたところで、そばをすする。

 途中で、卓上に用意した『コーレーグース』をスープに数滴垂らす。泡盛の芳醇な香りと、舌を刺すような鋭い辛味が加わり、一杯のそばが劇的な変化を遂げる。


「店長、最高です! このテビチ、コラーゲンの塊ですね! 明日のお肌はツルツル確実です!」


 私の隣で、月子が丼に顔を突っ込むような勢いでそばをすすっていた。彼女の盆の上には、すでに煮付けのおかわりが山盛りになっている。


「……味わって食べなさいよ、ツッキー。でも本当に美味しいわね。豚の脂が全然重くないわ」


 純もまた、紅生姜をたっぷりと乗せたそばを堪能し、満足そうにため息をついた。

 深美が警察手帳を置いて私に協力を頼んだ昨夜から一夜明け、私の部屋は、事実上の『対タナトス合同捜査本部』と化していた。警察の内部システムがシャットダウンされた今、深美にとっても、ここは最も安全で情報が集まる砦なのだ。


「キュゥゥン……」


 足元から、甘ったるい声がした。

 見下ろすと、愛犬のチャイが、自分の尻尾を追いかけてクルクルと回る遊びに飽きたのか、私のスリッパの横でゴロンと仰向けになっていた。

 彼は「僕も沖縄の風を感じたい」と言わんばかりに、小さな鼻先をヒクヒクとさせながら、前足を幽霊のように丸めて私を見上げている。


「お前には、茹でたサツマイモと無添加のヤギミルクだ」


 私が専用の器を置いてやると、チャイはすぐに起き上がり、嬉しそうにサツマイモをモギュモギュと咀嚼し始めた。

 その平和な食事風景を見届けてから、私は残りのスープを飲み干し、氷を入れた冷たいさんぴん茶で口の中をさっぱりと洗い流した。

 栄養とカロリー、そして適度なスパイスによる覚醒。

 ハッカーとしての思考力を最高出力に保つための、完璧な充電だった。


★★★★★★★★★★★


 午後1時。

 食後の余韻もそこそこに、リビングの空気は一瞬にして張り詰めたものへと変わった。


「……警察のシステムがダウンした影響は、予想以上に深刻ね」


 ダイニングテーブルに広げたタブレットを見つめながら、セシリアが静かに口を開いた。彼女は今日、自身の法律事務所からこのマンションへと拠点を移し、オーダーメイドのタイトなネイビースーツ姿で陣頭指揮を執っていた。


「ああ。警視庁のサーバーが落とされたことで、都内の主要な防犯カメラ網へのアクセスが完全に遮断された。さらに交通管制システムも手動に切り替えられ、街はパニック寸前だ」


 深美が、自身のスマートフォンで各署の状況を確認しながら、苦々しく吐き捨てる。


 タナトスが仕掛けた『神の眼』サイトは、警察の無力化を嘲笑うかのように、さらにその規模を拡大していた。

 今や、個人のWebカメラや企業の監視カメラだけでなく、ドローンや違法な小型カメラまで動員され、数万というプライバシーの暴露がリアルタイムで垂れ流されている。

 ネット上は、他人の秘密を覗き見る狂乱と、いつ自分が標的になるかという恐怖がないまぜになり、完全な無法地帯と化していた。


「特定班のカメラ特定作業はどうなってるの、Qちゃん?」


 純が、不安そうにメインモニターを見上げる。


「……進んではいる。特定班の数万人の『目』と、ナオミの音響解析を統合して、奴らがハッキングの足場にしている脆弱なルーターの法則性は見えてきた」


 私はキーボードを弾き、都内の地図に無数の赤いプロットを表示させた。


「だが、奴らのサーバーは物理的に一箇所にまとまっているわけじゃない。世界中に分散されたボットネットを経由して、常にIPアドレスを偽装している。僕が一つ潰しても、すぐに別の経路が構築される。完全なイタチごっこだ」


 根本的な解決には、ファントムが潜伏している『コア・サーバー』の物理座標を特定し、そこを直接叩くしかない。

 だが、警察の包囲網が消滅した今、私と特定班だけで広大な現実世界を捜索し尽くすのは不可能に近かった。


「……なら、私たちが『新しい包囲網』を作ればいいだけのことよ」


 セシリアが、涼しい顔で立ち上がった。

 彼女は自分のブリーフケースから、一台の分厚いノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置いた。それは彼女が国際的な取引で使用する、極めて高度な暗号化が施された端末だ。


「セシリアさん? 何をするつもりですか?」


 月子が首を傾げる。


「法と秩序が機能しないなら、別のルールで世界を動かすまでよ」


 セシリアのブルーの瞳が、獲物を狙う肉食獣のように鋭く輝いた。


「資本主義の世界において、最も強力で、最も単純なルール。……それは『金』よ」


 彼女は目にも留まらぬ速さでタイピングを開始した。

 画面に表示されたのは、英語やロシア語、中国語が入り乱れる、ダークウェブ上の巨大なアンダーグラウンド・フォーラムだった。世界中のハッカー、クラッカー、情報屋、そして暗殺者たちが集う、闇の取引所だ。


「私は今から、私の個人資産の『流動キャッシュ』と、海外のクライアントから預かっている特務ファンドを解放して、『スマートコントラクト』による懸賞金システムを立ち上げるわ」


「ふ、ファンドの解放!? セシリア、あなた正気なの!?」


 純が悲鳴のような声を上げる。


「至って正気よ。タナトスにパンドラの箱を奪われ、この国がテロリストに支配される損失に比べれば、当座の資金を溶かすことなど安いものだわ。足りなければ、私が後でいくらでも稼いで補填する」


 セシリアはふわりと微笑んだ。その笑顔には、底知れない財力と自信が満ちていた。


「ターゲットは、『神の眼』を運営するタナトスの幹部、ファントム。および、彼が使用しているコア・サーバーの物理座標。……正確な情報を提供した者、あるいは物理的にサーバーを破壊した者に対し、即座に暗号資産で報酬が支払われる契約をブロックチェーン上に刻むわ」


「ちょっと待て、セシリア。懸賞金の額はいくらだ?」


 私が尋ねると、セシリアはキーボードを叩く手を止めず、平然と答えた。


「1億ドルよ。もちろん、これは前金。成功報酬としてさらに同額を用意しているわ」


「……は!?」


 深美が絶句し、月子が持っていたさんぴん茶のグラスを落としそうになった。


「150億!? セシリア、あんたそんなお金どうやって……!」


 純が目を剥いてセシリアに詰め寄る。


「伊達に国際弁護士として、世界中の富裕層の泥沼の離婚訴訟や、国家規模の企業のM&Aを手がけてきたわけじゃないわ。……さあ、これで世界中の悪党たちが、私たちの『猟犬』に早変わりよ」


 セシリアがエンターキーを叩いた。

 瞬間、ダークウェブのフォーラムに、莫大な懸賞金が掛けられた『指名手配書』が投下された。

 スマートコントラクトにより、情報が本物であると証明されれば、誰の許可も経ずに自動的に150億円相当の暗号資産が支払われる。裏社会の住人にとって、これほど確実で魅力的な餌はない。


「……恐ろしい女だ。法を扱う人間が、最も法から遠い力を使うとはな」


 私はため息をついた。だが、その強引すぎる手法が、今の私たちに必要な『最強の一手』であることは間違いなかった。


「タナトスは強大だけれど、彼らにシノギを潰されたり、恐怖支配に不満を持っていたりする裏社会の組織は山ほどあるわ。この1億ドルという破格の懸賞金は、彼らがタナトスに反旗を翻すための最高の『大義名分』になるのよ」


 セシリアの宣言通り、ダークウェブ上の反応は異常なスピードで加速していた。


『1億ドルだと!? マジかよ!』

『タナトスの野郎、どこに隠れてる!?』

『ずっと奴らに従うのにウンザリしてたんだ。IPアドレスの履歴、全部掘り返せ!』

『日本か? 俺のカルテルが直接サーバーぶっ壊しに行くぞ!』


 これまでタナトスの報復を恐れて静観していた巨大マフィアや新興のハッカー集団たちが、150億円という莫大な富と、タナトスの支配体制を崩す好機を前にして、一斉に牙を剥き始めたのだ。

 タナトスが『神の眼』を使って一般市民を監視し、恐怖で支配しようとしたのと同じように。今度はタナトス自身が、世界中の悪意と欲望の『目』によって監視され、狩られる側に回ったのだ。


「……素晴らしいわ、セシリア。毒を以て毒を制す、ね。スロバキアの魔女も真っ青の荒業よ」


 エレナが感嘆の声を漏らし、セシリアにウインクを送る。


「これで、ファントムも今までのように悠長に構えてはいられないはずだ。……自身のサーバーの防衛と、世界中からの物理的・サイバー的攻撃の迎撃にリソースを割かざるを得なくなる」


 私はメインモニターに向き直り、特定班の裏回線を開いた。


「特定班。今、ダークウェブ側から敵のシステムに凄まじい負荷がかかっている。奴らの『眼』に綻びが生じるのは時間の問題だ。……その一瞬の隙を見逃すな」


『了解!』

『女帝の財力エグすぎだろw』

『裏社会が味方につくとか胸熱展開』

『俺らも負けてられねえ!』


 リスナーたちのボルテージも最高潮に達している。


「……金子。本当にこれでいいのか? 我々は完全に、一線を越えているぞ」


 深美が、窓の外の東京の街を見下ろしながら、ポツリと呟いた。

 警察官である彼女にとって、犯罪者に懸賞金を掛けて裏社会を動かすという行為は、自身のアイデンティティを根本から揺るがすものだろう。


「深美。……僕は最初から一線など越えっぱなしの、ただの引きこもりハッカーだ。そして君は、警察手帳を置いて僕に助けを求めた。……なら、最後まで共犯者として付き合ってもらうぞ」


 私が冷たく、しかし確かな信頼を込めて言うと、深美は小さく息を吐き、振り返って私を見た。

 その瞳には、もう迷いはなかった。


「……ああ。乗りかかった船だ。どんな泥でも被ってやるさ」


 警察の敗北から始まった絶望の盤面。

 だが、最強の弁護士が放った「金」という劇薬が、盤面を大きくひっくり返そうとしていた。

 世界を敵に回しても、あるいは世界中の悪意を味方につけてでも、私たちは勝つ。


 私は手元のさんぴん茶を飲み干し、氷がグラスに当たる乾いた音を聞きながら、モニターの奥に潜む見えない敵へと冷酷な笑みを向けた。

 反撃の時が、すぐそこまで迫っていた。


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