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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第40話 警察の敗北、探偵の出番

 火曜日、午後10時。

 私の安息の地であるマンションの最上階リビングに、磯の香りと、上質な酢の匂いが漂っていた。


 白木の鮨下駄に、美しく切り出された平貝の貝柱が乗る。

 前日の夜、純のフェイク映像作戦によって『神の眼』のコアサーバーへと繋がるトラフィックの逆探知に成功して以来。私は丸一日、一睡もせずに特定班の数万人の「目」を指揮し、都内のカメラネットワークの解析作業を続けていた。

 ようやく初期段階の封じ込めプログラムが走り出し、私は24時間ぶりにまとまった休息を取っている最中だった。


 本日は「名古屋の鮨屋」を完全再現した、自宅での極上ディナーである。

 江戸前鮨が握りを主体とするのに対し、名古屋の名店と呼ばれる鮨屋は、三河湾や伊勢湾で獲れる極上の地魚を使った「つまみ」で客に酒を飲ませることに重きを置いている。私は豊洲の仲卸を通じ、三河湾産の新鮮な魚介を空輸で仕入れていた。


 まずは平貝の磯辺焼き。軽く炙った肉厚の貝柱を、最高級の有明産海苔で包んで手渡しで供する。サクッとした海苔の食感と、平貝の濃厚な甘みと香ばしさが口いっぱいに広がる。

 すかさず、よく冷えた薄張りのグラスに注いだビールを喉に流し込む。

 続いて、日間賀島産のシャコの塩茹で。身がパンパンに詰まり、中心には濃厚な爪と卵が入っている。さらに、マダカの昆布締め、渡り蟹の内子を添えたつまみ。

 これらをつまみながら、私はすでにビールを三杯空け、続いて麦焼酎の名酒を取り出した。これを、硬度の低いミネラルウォーターで完璧な比率の水割りにし、すでに二杯目を飲み干そうとしている。


 ……しかし、当然ながらこれらは本物のアルコールではない。


 ビールは最新の脱アルコール製法でホップの苦味だけを残した『アルコール0.00%のIPA』。焼酎の水割りも、麦の香気成分だけを極限まで抽出した『ノンアルコール・スピリッツ』である。

 都市を人質に取ったテロリストとの全面戦争の最中、私の最大の武器である「脳」をアルコールで鈍らせるような真似は絶対にしない。これはあくまで、味覚と嗅覚で「極上の晩酌」を脳に錯覚させ、張り詰めた神経を戦略的にリラックスさせるための精巧な儀式なのだ。


 焼酎テイストのノンアルコール飲料を片手に、ここから軽く鮨を数貫だけ握る。

 シャリは、江戸前の強い赤酢とは異なり、米酢と塩をベースにした少し甘みのある名古屋流のブレンドだ。

 車海老の茹で上げ、三河湾産の穴子のツメ塗り、そして本マグロの中トロ。

 つまみをメインに据え、鮨はあくまで〆として軽く食す。これぞ、大人の至福の晩酌だ。


「ウフッ……クゥゥ……」


 足元を見ると、愛犬のチャイが自分専用のふかふかのクッションの上で、丸くなって眠っていた。

 どうやら夢の中で原っぱでも走っているらしく、短い四肢をピクピクと動かしている。時折、寝言のように小さな声を漏らすその無防備な姿は、どんな名画よりも私の心を穏やかにしてくれた。


 ピンポーン。


 その静寂を破るように、玄関のインターホンが鳴った。

 モニターを見ると、そこに立っていたのは深美だった。

 だが、いつもの凛とした彼女の姿ではない。肩で息をし、髪は乱れ、その表情には深い疲労と、隠しきれない「絶望」の色が濃く滲んでいた。


「……どうした、深美」


 私がロックを解除し、玄関のドアを開けると、彼女はふらつくような足取りでリビングへと入ってきた。


「金子……」


 彼女の声は、ひどく掠れていた。


「座れ。顔色が悪いぞ。……何があった」


 私は彼女をスツールに座らせ、温かいお茶を出そうとした。


「酒を、くれ……」


 深美が、うわ言のように呟いた。


 私は黙って、本物の麦焼酎のボトルを開け、新しいグラスに水割りを作って彼女の前に置いた。

 深美は震える手でそれを受け取ると、一気に半分ほど飲み干し、大きく息を吐いた。


「……負けた」


 深美は、カウンターの上に両手を置き、ギリッと拳を握りしめた。


「警察が、あのハッカー集団に……タナトスに、完全に負けたんだ」


「……詳しく話せ」


 深美は、悔しさに唇を震わせながら語り始めた。

 前日の純たちのフェイク作戦の裏で、警察もサイバー犯罪対策課を総動員し、『神の眼』のサーバーを特定して一斉にシャットダウンさせる総攻撃を仕掛けていたらしい。

 だが、それがタナトスの逆鱗に触れたのか、あるいは最初から誘い込むための罠だったのか。


「一時間前。警視庁の内部ネットワークに、未知のマルウェアが一斉に侵入した。……奴らは、警察のサーバーを踏み台にして、都内のNシステム、交通管制システム、さらには各署の防犯カメラの映像網を完全に掌握したんだ」


「……何だと?」


 私は眉をひそめた。


「それだけじゃない。捜査車両のGPSデータは書き換えられ、警察無線は強烈なジャミングと偽の指示の音声で大混乱だ。110番通報の受理システムにまで障害が出始めている。……上層部はパニックになり、被害のさらなる拡大と情報の流出を防ぐために、警察内部のネットワークを物理的に全てシャットダウンする決断を下した」


 深美の言葉の重さに、私は沈黙した。

 ネットワークの物理的な切断。それはつまり、現代の警察組織が「目」と「耳」、そして「手足の連携」を完全に奪われたことを意味する。


「今の警察は、ただの制服を着た烏合の衆だ。監視カメラ一つ確認できず、連携して応援を呼ぶこともできない。……我々は、完全に無力化された」


 深美のブルーの瞳から、悔し涙が溢れそうになっていた。彼女はそれを隠すように、残りの水割りを一気に煽った。


「奴らは……タナトスは、私たち警察を嘲笑っている。国家の治安維持機関が、たった数人のテロリストに手も足も出ないなんて……っ!」


 私は、静かに彼女の言葉を聞いていた。

 タナトスの狙いは、警察の無力化によって、私を完全に孤立させることだ。

 私がこれまで頼りにしてきた「公権力という強大な矛」をへし折ることで、私に「パンドラの箱」を渡すようプレッシャーをかけているのだ。


「……金子」


 深美が、スツールから立ち上がった。

 そして、彼女は自分の内ポケットから、桜の紋章が輝く『警察手帳』を取り出し、カウンターの上にコトリと置いた。


「深美……?」


「私は、警察官だ。法と秩序を守り、市民の安全を守るのが私の使命だ。……だが、組織が機能しない今、警察という看板にすがっていても、誰も救えない」


 深美は、私を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、かつて私を「違法なハッカー」として敵視していた頃の軽蔑はない。

 あるのは、純粋な正義感と、私という一人の人間に対する強烈な「信頼」だった。


「私は今、警察官としてではなく、原田深美という一人の個人として、お前に頼みがある」


 彼女は、私に向かって深く頭を下げた。


「どうか、私にお前の知恵を貸してくれ。……お前のその頭脳と、特定班の力で、あの『神の眼』を潰し、タナトスを引きずり出してほしい。そのためなら……私は、お前の手足となって戦う。どんな泥を被る役目でも引き受ける」


 警察官としての矜持をテーブルに置き、一個人の正義を貫くために、引きこもりのハッカーに頭を下げる。

 それは、彼女にとってどれほどの屈辱と、そして覚悟が必要だっただろうか。

 私は、カウンターの上に置かれた警察手帳と、彼女の震える肩を静かに見つめた。


「……顔を上げろ、深美」


 私が静かに言うと、深美はゆっくりと顔を上げた。

 私は、手元にあった平貝の磯辺焼きをもう一つ手早く作り、彼女の前に置いた。


「……これは?」


「名古屋の鮨屋では、つまみで酒を飲ませるのが流儀だ。……空きっ腹で焼酎を飲むと、悪酔いするぞ」


 深美は呆然としてその海苔巻きを受け取り、一口食べた。その瞬間、彼女の張り詰めていた顔の筋肉が、少しだけ緩むのが分かった。


「……美味しい」


「警察が機能不全に陥ったことは痛手だ。だが、それで盤面が詰みというわけじゃない」


 私は自分のグラスに新しい氷を入れ、ノンアルコールの焼酎テイストを注ぎながら言った。


「僕の特定班は、警察の巨大なデータベースなんぞに依存していない。彼らは自分たちの足と目で情報を集め、独自のネットワークで繋がっている、独立した知性の集合体だ。……警察の『目』が潰れたなら、僕たち数万人の『目』が、代わりにこの街を監視してやる」


 私はグラスを軽く掲げた。


「君の個人的な依頼、引き受けよう。……その代わり、現場での荒事は全て君と月子に任せるぞ。僕はこの部屋から一歩も出ないからな」


 深美の瞳に、再び強い光が戻った。


「……ああ。任せておけ」


 彼女は小さく笑い、カウンターの上に置かれた警察手帳を再び拾い上げ、愛おしそうに懐にしまった。

 手帳を置いたのは決意の表れだ。だが、彼女の心の中から警察官としての魂が消えたわけではないのだ。


「それから、金子。……もう一杯、水割りを作ってくれないか。今度は、少し濃いめで頼む」


「僕のバーテンダー料は高いぞ。スパチャで払ってもらうからな」


「後で純に払わせるさ」


 私たちは、静かにグラスを合わせた。

 国家権力の敗北。それは、タナトスに対する究極の絶望を意味するはずだった。

 だが、この部屋にあるのは絶望ではない。

 一人の誇り高き刑事と、引きこもりの探偵、そして数万人の見えない仲間たちによる、真の反撃の狼煙だった。


 さあ、タナトス。警察のシステムを潰して勝った気になっているのなら、教えてやろう。

 本当に恐ろしいのは、権力やシステムではなく、怒れる個人の『集合知』だということを。


 足元で夢を見ながら無邪気に寝言を漏らしているチャイを見下ろしながら。

 私は、目前のモニターから放たれる冷たい光を、静かに、そして鋭く睨みつけた。


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