第38話 監視される探偵たち
月曜日、午後6時。
私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、カツオと昆布の合わせ出汁、そして秋の気配を感じさせるキノコの香りが立ち込めていた。
「……器に移し替える時間すら惜しい。だが、妥協はしない」
私は、電子レンジから取り出した『キノコご飯』のプラスチック容器のフタを開け、そこに熱々に熱しておいた極上の「一番出汁」を一気に注ぎ込んだ。
チルド弁当特有の少し硬くなったご飯粒が、出汁を吸って瞬時に解けていく。舞茸、ぶなしめじ、エリンギといったキノコ類の香りが、カツオ出汁の風味と共に爆発的に立ち上る。
仕上げに、千切りにした新鮮な三つ葉を散らし、ほんの僅かな柚子胡椒を添える。即席の『キノコ出汁茶漬け』だ。
これに合わせるペアリングは、強烈なカフェインでも炭酸でもない。
『加賀棒ほうじ茶』だ。
一番茶の茎の部分だけを浅く焙煎したこのほうじ茶は、苦味や渋みが全くなく、どこまでも上品で甘い香りが特徴だ。
キノコと出汁の繊細な旨味を、ほうじ茶の香ばしさが優しく包み込み、胃袋の中から疲労した脳へと染み渡っていく。
たかがコンビニのミニ丼。だが、温度管理と出汁のブースト次第で、それは立派な料亭の〆の一品へと昇華する。
私はメインモニターから一切目を離すことなく、その出汁茶漬けを流し込むようにかき込み、熱いほうじ茶で口内をリセットした。
都市全体を人質に取ったテロリストとの全面戦争。その最前線を維持するための、極限のエネルギー補給だ。
「……スピー」
ふと、足元から規則正しい寝息が聞こえた。
視線を落とすと、愛犬のチャイが、私の両足首の間にすっぽりと収まり、私の靴下を枕代わりにして無防備に爆睡していた。
私がキーボードを叩くために足の位置を少し動かすと、チャイは「んぅ……」と小さく唸り、さらに私の足にぴたりと身を寄せ、ぬくもりを求めて丸くなる。
張り詰めた異常事態の中で、この小さな毛玉の静かで温かい寝息だけが、私の正気を保つアンカーとなっていた。
私はチャイを起こさないように、しかし瞬きすら惜しんで、モニターを睨み続けた。
「……トオル。これ、動きがあったんじゃない?」
別室から戻ってきて私の隣に立ったエレナ・ヴァルゴヴァが、画面を指差した。
世界中の防犯カメラやWebカメラをハッキングしてリアルタイムで垂れ流す悪趣味なサイト、『神の眼』。
そのトップページには、私への挑戦状と共に、誰も座っていない『黒い安楽椅子』の映像が固定表示されていた。私はサイトのソースコードを解析し、コア・サーバーの物理的な位置を特定しようと試みていたが、相手の構築したCDN(コンテンツ配信ネットワーク)は異常なまでに強固だった。
その時だ。
――ピコン。
『神の眼』のトップページが自動更新され、黒い安楽椅子の映像の周囲に、新たに「5つ」の小さなウィンドウがポップアップした。
「……なんだ?」
私は目を細めた。
追加された5つの映像。それは、どこかの街角や見知らぬ他人の部屋ではなかった。
『ちょっとQちゃん! 見て、これ!!』
インカムから、岡本純の怒りに満ちた声が飛んできた。
「ああ、見ている」
一つ目の映像。
そこには、散らかったアパートの一室で、スウェット姿ですっぴんの純が「どこよ! どこから撮ってんのよ!」と叫びながら部屋の隅を睨みつけ、その後ろで中野月子が木刀を構え、鋭い視線で周囲を警戒している姿が映っていた。
純の自室だ。
『やだ、嘘でしょ!? 私の部屋のWebカメラ、物理的にシール貼って塞いであるのに! すっぴん流すなんて万死に値するわよ!』
「君を映しているのはPCのカメラじゃない。……君の斜め後ろ、テレビの横に置かれている『スマートスピーカー』だ。それに内蔵されている見守り用カメラが乗っ取られている」
『これかぁぁっ!!』
映像の中で、純がスマートスピーカーにタオルを乱暴に被せる様子が、リアルタイムで配信される。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
二つ目の映像。
警視庁の廊下だ。自販機の前で、缶コーヒーを買っている原田深美の姿が、天井の監視カメラから鮮明に映し出されていた。
「深美! 警視庁の内部カメラがハッキングされているぞ!」
『……何だと!? 馬鹿な、ここは内部の閉域網だぞ! 外部からアクセスできるはずが……!』
インカム越しの深美の声が、驚愕で震えている。国家権力の中枢のセキュリティすら、奴らにとっては紙切れ同然ということか。
三つ目の映像。
都心のハイグレードオフィス。ガラス張りの会議室で、部下たちに指示を出しているセシリア・クロスの姿。
四つ目の映像。
渋谷の地下クラブ。DJブースで機材のメンテナンスをしているナオミ・セント・ジェームズ。
五つ目の映像。
本郷の大学病院。地下の解剖室の入り口で、コーヒーを飲んでいるソフィア・アンゲロプロス。
「……エレナ以外の全員、完全に捕捉されている」
私は奥歯を強く噛み締めた。
ここ数日、私の部屋に入り浸っているエレナの姿はない。私のマンションの強固な物理セキュリティだけは突破できていない証拠だ。
しかし、それ以外のチームQのメンバーたちの「現在の姿」が、全世界に向けて、リアルタイムで晒されているのだ。
『な、なんなのよこれ……! 私たち、ずっと見張られてるってこと!?』
純の怒りが、徐々に焦燥へと変わっていく。
「そうだ。奴らの目的は、ただプライバシーを暴くことじゃない。僕の『手足』であり『目』である君たちの存在を世界中に知らしめ、精神的に追い詰め、行動を萎縮させることだ」
『神の眼』の匿名チャット欄は、瞬く間にこの5つの映像に食いついた。
『おい、この女たち誰だ?』
『警視庁のカメラ映像とかヤバすぎだろ』
『オフィスにいる女、美人じゃん』
『これ、YouTuberのJUN様じゃね? すっぴん酷いなw』
『Qへの挑戦状の隣に並んでるってことは、こいつらQの仲間か!』
特定班だけでなく、野次馬や悪意を持った無数のインターネットユーザーたちが、彼女たちの身元を暴こうと動き始めた。
『……Q! クラブの防犯カメラの電源、元から落としたわ!』
ナオミが素早く行動に出る。
だが。
ナオミの映像がブラックアウトしたわずか数秒後。
別の角度からの映像が、再びウィンドウに表示された。
今度は、彼女の斜め上に設置された、火災報知器に偽装された小型カメラからの映像だった。
『なっ……!? 切っても別のカメラが起動する!?』
「無駄だ。都市部には無数の『目』がある。一つを塞いでも、奴らはAIによる顔認証システムを使って、瞬時に周囲の別のカメラをハックして君たちを映し出す。……まさに『神の眼』だ」
私は吐き捨てるように言った。
これは、ハッカーとしての技術力を見せつけると同時に、圧倒的な「暴力」だ。逃げ場のない現代社会の構造そのものを武器にしている。
『……全く、悪趣味な連中ね』
インカムから、セシリアの冷ややかで気品を損なわない声が響いた。
彼女は自分のオフィスのブラインドを全て下ろし、落ち着いた動作で紅茶を一口飲んだ。
『金子さん。私の顔が売れるのは別に構わないけれど、このまま監視され続けるのは気分が悪いわ。どうやってこの低俗な見世物を終わらせるつもり?』
「……物理的な逃亡は不可能だ。だが、ネットワークの海において、完全無欠なシステムなど存在しない。どんなに強固な『眼』でも、そこには必ず死角がある」
私はキーボードに両手を乗せた。
「特定班。聞こえているか」
私は裏回線で、数万人のリスナーたちに呼びかけた。
表のサイトが阿鼻叫喚のパニックに陥っている中、私の裏配信に集う特定班たちは、奇妙なほど冷静だった。
『待ってたぜQちゃん』
『指示をくれ』
『ウチの姐さんたちのすっぴん晒すとか、万死に値するわ』
「頼もしいな。……今から君たちにやってもらいたいのは、敵の『カメラの特定』だ。メンバーたちを映しているカメラが『どこにある、何という機種のカメラか』を、映像の画角と画質から片っ端から割り出せ」
『は? なんで?』
『カメラ塞いでもキリがないって言ったじゃん』
「塞ぐんじゃない。……奴らが『どういう基準』でカメラをハックしているか、そのネットワークの法則性を見つけるんだ」
私は目を細め、モニターに映る5つの映像を睨みつけた。
「街中のすべてのカメラを同時にハックして監視するなど、スーパーコンピューターでも不可能だ。奴らは必ず、特定の『バックドア』を持った特定のメーカーのカメラや、特定のネットワークを経由してアクセスしているはずだ。その偏りを見つければ、奴らのシステムの『根幹』に逆ハッキングを仕掛けられる」
『なるほど!』
『そういうことか、任せろ!』
『よし、まずは純の部屋のスマートスピーカーの型番からだ!』
特定班の集合知が、一斉に解析を開始する。
「純、月子、他のメンバーも。……カメラに映ることを恐れるな。むしろ、奴らがどんなカメラを使っているか分かるように、あえて外へ出て、様々な場所を歩き回れ。カメラのサンプルが多ければ多いほど、反撃の糸口は早く見つかる」
『……ええっ!? このすっぴんで外歩けって言うの!?』
純が絶望的な声を上げる。
「命とプライバシーがかかっているんだ。化粧なんかしている暇はない。行け」
『鬼! 悪魔! 引きこもり!! ……やってやろうじゃないの! ツッキー、行くわよ!』
純が怒りに燃えながらパーカーを羽織り、月子と共に外へ飛び出していく映像が流れる。
深美も警視庁の廊下から外へ歩き出し、セシリアたちも各々の場所で動き始めた。
彼女たちが動くたびに、『神の眼』の映像は次々と別のカメラへと切り替わっていく。
コンビニの防犯カメラ、交差点のライブカメラ、他人のスマホのレンズ。
それは、世界中が見守る中での、異常な「かくれんぼ」。いや、逃げ隠れしない「鬼ごっこ」だ。
「さあ、ファントムの背後にいる黒幕。お前のその自慢の『眼』を、僕たちチームQと特定班の数万の視線で、丸裸にしてやる」
私はキーボードを叩く速度を限界まで引き上げた。
プライバシーが完全に剥奪された極限状態。だが、私の安楽椅子からの指揮は、少しのブレも生じていない。
究極の監視社会を逆手にとった、私たちの壮大な反撃が、今始まったのだ。




