第37話 劇場型犯罪『神の眼』始動
月曜日、午後1時。
私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、いつものような自家製スパイスの香りではなく、ほのかな醤油と柑橘の匂いが漂っていた。
「……日本のコンビニエンスストアの企業努力には、時として敬意を表さざるを得ない」
私は有田焼の平皿に美しく盛り直された『牛肉おろしがけ弁当』を箸でつつきながら、静かに息を吐いた。
薄切りの牛肉は甘辛い特製のタレでしっかりと味付けされており、その上に別添えのたっぷりの大根おろしと、酸味の効いたポン酢醤油をかけていただく。
牛肉の濃厚な脂と旨味を、大根おろしとポン酢が鮮やかに中和し、白米を無限に消費させる計算し尽くされたバランス。
私が今日、あえてコンビニ弁当を選んだのには理由がある。決して自炊の時間を惜しんだわけではない。現代の巨大チェーンが数ミリグラム単位で計算し尽くした「大衆向けの黄金比」を、私自身の舌で解析するためだ。
当然、プラスチック容器のまま食べるなどという無粋な真似はしない。肉の硬化を防ぐため、電子レンジのワット数と加熱秒数を極限まで微調整し、完璧な65度で温め直している。このクオリティの食事が手に入るのだから、現代のコールドチェーン技術には感服する。
「……ふぅ」
白米の最後の一粒まで平らげた私は、マグカップに注いでおいた温かい『ゴーヤー茶』を啜った。
独特の土臭さと、舌に直接訴えかけてくる強烈な苦味。カフェインレスでありながら、交感神経をビンタで叩き起こすようなこの破壊力は、脂と酸味を堪能した後の脳を強制的にリブートさせるお供として極めて優秀だ。
「クゥ〜ン……」
ふと視線を下げると、愛犬のチャイが、私の足元で丸くなってふて寝をしていた。
濃い味付けの牛肉は、当然ながら犬には厳禁だ。「おこぼれ」をもらえなかったチャイは、抗議の意味を込めて、私に背を向けてクッションに顔を埋めている。
しかし、私がそっとその背中を撫でてやると、数秒で「仕方ないなぁ」というように寝返りを打ち、私の指をペロペロと舐めてくるのだから、本当に愛おしい生き物だ。
チャイの無防備なお腹を撫でながら、私は思考を巡らせる。
ファントムとの戦いと、あの中庭での束の間の平穏から数日が過ぎた。
ファントムが最後に残した『神の眼は、すでにお前を見ている』というメッセージ。あれからネットの深層を監視し続けているが、タナトスの残党らしき動きは全く検知できない。嵐の前の静けさか、それともただのハッタリだったのか。
そんなことを考えていた、その時だった。
ブーッ、ブーッ。
デスクの上のiPadが、けたたましく震え始めた。
着信画面には、岡本純の文字。
「……嫌な予感しかしない」
私はゴーヤー茶の最後の一口を飲み干し、苦味で顔をしかめながら通話ボタンを押した。
『Qちゃん! テレビ! テレビかネットニュース見て!』
画面越しの純は、いつになく血相を変えていた。背景には、彼女のアパートのリビングと、真剣な顔でノートPCを操作する中野月子の姿がある。
「どうした。またどこかの心霊スポットで騒ぎでも起きたか?」
『心霊スポットなんかじゃないわよ! 東京中が……ううん、日本中が大パニックになってるの!』
純のただ事ではない様子に、私はすぐさまメインモニターのブラウザを立ち上げ、大手ニュースポータルサイトを開いた。
トップページには、赤字の特大見出しが躍っていた。
【速報】謎の盗撮サイト『神の眼』出現。都内数千箇所の映像がリアルタイム配信か
【社会】自宅のWebカメラも被害に? プライバシー侵害の極み、警察が捜査開始
「……『神の眼』だと?」
私は眉をひそめ、インカムのマイクに顔を近づけた。
ファントムの最期の言葉と同じフレーズだ。偶然のはずがない。
「純、そのサイトのURLを送れ」
『今送るわ! ツッキー、Qちゃんの裏回線に飛ばして!』
『了解ッス!』
送られてきた暗号化リンクを経由し、私は自身のIPを偽装してそのサイトへとアクセスした。
漆黒の背景に、シンプルな白字で『The Eye of God』と書かれたヘッダー。
そしてその下には、まるで監視カメラの管理画面のように、無数の小さなサムネイル動画がタイル状に並んでいた。
「……なんだ、これは」
私は絶句した。
サムネイルの数は、ざっと見ただけでも数千、いや数万に及ぶ。
そして、その一つ一つをクリックすると、それぞれの場所の『リアルタイム映像』が高画質で再生されるのだ。
ある映像は、渋谷のスクランブル交差点を上空から見下ろしている。公共のライブカメラのハッキングだろうか。
だが、問題はそれ以外の映像だった。
『……これ、個人の家のリビングよね?』
純が震える声で言う。
ある映像は、どこかの家庭のリビングで、ジャージ姿の男性がテレビを見ながら鼻をほじっている姿を鮮明に映し出していた。テレビの上のWebカメラが乗っ取られているのだ。
別の映像は、女子高生の自室。ノートPCのカメラから、着替えの様子が盗撮されている。
さらに別の映像は、銀行のATMの斜め上からのアングル。利用者が入力する暗証番号の手元が、ハッキリと映り込んでいた。
「……公共の防犯カメラ、個人のWebカメラ、スマホのインカメラ、さらには……街中に仕掛けられた違法な小型カメラ。これら全てをハッキングし、一元管理してネットに垂れ流しているのか」
『しかもこれ、サイトを見に来た誰でも、無料で自由に見れちゃうのよ! ネットの掲示板はもう「あのアイドルが映ってる」「〇〇町のATMのパスワード抜けるぞ」って、完全なお祭り騒ぎよ!』
純の言う通り、サイトの横に設置された匿名チャット欄は、常軌を逸したスピードで滝のように流れていた。
人間の覗き見願望と悪意を煮詰めたような、まさに地獄の釜の底だ。
『……金子! 見ているか!』
私のインカムに、別の回線から怒声が飛び込んできた。
警視庁捜査一課の、原田深美だ。
「ああ。とんでもない劇場型犯罪が始まったな」
『警視庁は今、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。サイバー犯罪対策課がサイトの遮断とサーバーの特定に動いているが、全く歯が立たないらしい! サイトを一つ落としても、ミラーサイトがゴキブリのように無限に増殖しているんだ!』
「当然だ。これだけの規模の映像データを遅延なくストリーミング配信するには、世界中に分散された巨大なCDN(コンテンツ配信ネットワーク)と、それを統括する極めて高度なアルゴリズムが必要だ」
私はキーボードを叩き、サイトのソースコードを解析しながら言った。
「これは、数人の愉快犯やハッカー集団にできる芸当じゃない。……国家レベルのインフラ乗っ取りだ。タナトスの背後にいた『黒幕』が、ついに表舞台に姿を現したというわけだ」
「アホイ! ちょっとトオル、これ見て!」
突然、隣人のエレナが血相を変えてリビングに飛び込んできた。
「エレナ、今は緊急事態だ。……って、なんだその画面は」
「『神の眼』のサイトのトップページよ! 数秒前から、一番上に固定された映像が出現したの!」
私は急いでメインモニターのブラウザを更新した。
エレナの言う通り、数万のサムネイルの最上部に、ひと際大きな映像ウィンドウが追加されていた。
そこに映っていたのは、真っ白な空間に置かれた、一つの『黒い安楽椅子』だった。
誰も座っていない椅子。
そして、その映像の下には、赤字でこう書かれていた。
『To Q. The world is watching you.(Qへ。世界がお前を見ている)』
『Will you open the box, or watch the world burn?(箱を開けるか、世界が燃えるのを見ているか?)』
「……っ」
私は息を呑んだ。
挑戦状だ。
私という、引きこもりの安楽椅子探偵個人に対する、世界中を巻き込んだ壮大な宣戦布告。
『Qちゃん……! これって……』
純が絶句する。
『名指しされたわね。しかも「箱」のことまで』
ナオミが、いつの間にか通話に参加しており、シリアスな声を出した。
「……ああ。奴らは、僕が持っているパンドラの箱の中身……あるいは鍵を要求している。この『神の眼』というプライバシー暴露の地獄を止めたければ、箱を渡せという脅迫だ」
『ふざけてるわね。そんな要求に屈する理由はないわ』
セシリアの冷ややかな声が続く。
『でも、このままじゃ日本中の人たちのプライバシーが丸裸にされちゃうよ!? 犯罪も起き放題になる!』
月子がカメラの前で木刀を握りしめながら叫ぶ。
「……分かっている」
私は深くため息をつき、冷めきったゴーヤー茶の入ったマグカップをテーブルに置いた。
口の中に残る強烈な苦味が、今の私の心境と完璧にリンクしている。
「特定班、聞こえるか」
私は、純の裏回線に繋がっている、数万人のリスナーたちに向かって語りかけた。
私の呼びかけに、裏チャット欄の動きが一瞬だけ止まる。
「表のネットは今、他人の不幸とプライバシーを覗き見る悪意に染まっている。……だが、君たちは違うはずだ。僕たちと共に数々の心霊事件の皮を剥ぎ、真実を暴いてきた共犯者だろう?」
『当たり前だ!』
『Qちゃん、指示をくれ!』
『あんなクソサイト、ぶっ潰してやる!』
『特定班の意地見せたるわ!』
リスナーたちの力強いコメントが、画面を埋め尽くしていく。
「頼もしいな。……目標は、この『神の眼』を構築している物理的なコア・サーバーの破壊。あるいは、奴らの手足となっている物理カメラのネットワークの遮断だ」
私は安楽椅子から立ち上がり、部屋の中央に立った。
足元でチャイが「どうしたの?」と首を傾げている。
「純、月子、深美、セシリア、ナオミ、エレナ、ソフィア。……全員、各々の武器を準備しろ」
私が名前を呼ぶと、モニターの向こうの彼女たち、そして目の前のエレナの表情が、戦士のものへと変わった。
「これはもう、単なるオカルト配信でも、ハッカー同士の小競り合いでもない。……都市全体を人質に取った、見えないテロリストとの全面戦争だ」
私は鋭い眼光で、モニターに映る『神の眼』の映像を睨みつけた。
「僕たちチームQと、数万人の特定班の総力戦で、あの不遜な『眼』を完全に潰してやる」
引きこもり探偵と、姿なき黒幕との真の死闘が、今、不気味な産声を上げて始まったのだ。




