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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第36話 日常への帰還

 木曜日、午後2時。

 タナトスの残党・ファントムとの、血を洗うような壮絶なサイバー戦から数日が経過した。

 私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、甘酸っぱい果実と焦がしバターの幸福な香りが満ちていた。


「……生地の膨らみ、焼き色。完璧だ」


 私はオーブンの扉を開け、静かに息を吐いた。

 本日の午後のティータイムを彩るのは、フランス・リムーザン地方の伝統菓子『チェリーのクラフティ』だ。

 耐熱の陶器皿に、種を抜いた大粒のダークチェリーをたっぷりと敷き詰める。その上から、卵、生クリーム、牛乳、砂糖、そして少量のキルシュを混ぜ合わせた滑らかなカスタード生地を流し込み、オーブンでじっくりと焼き上げる。

 焼き上がったクラフティの表面は美しい黄金色に染まり、スプーンを入れると、熱々のカスタードの中から果汁たっぷりのダークチェリーが顔を出す。素朴でありながら、果実の酸味と生地の濃厚な甘みが絶妙なハーモニーを奏でる至高のスイーツだ。


 これに合わせるペアリングは、コーヒーではない。


 『ダージリン・セカンドフラッシュ』だ。


 マスカテルフレーバーと呼ばれる、マスカットのようなフルーティーで芳醇な香りを持つ夏摘みの紅茶。その上品な渋みと華やかな香りが、クラフティの卵とバターの重さを軽やかに洗い流してくれる。


「フフッ、相変わらずいい匂いさせてるわね、トオル」


 私がダイニングテーブルに皿を並べていると、ベランダの窓が開き、隣人のエレナが顔を出した。

 今日の彼女は、秋らしいボルドー色のタイトなニットワンピースに、薄手のトレンチコートを羽織っていた。いつもはラフで露出の多い部屋着で乱入してくる彼女にしては、珍しく「よそゆき」の、洗練された大人の女性のファッションだ。

 

「……今日は玄関のチャイムすら鳴らさないのか。不法侵入で通報するぞ」


「あら、ご近所付き合いじゃない。翻訳の大きな案件が一つ片付いたから、お茶でもご馳走になろうと思って」


 エレナは悪びれもせず、窓からひらりとリビングに降り立ち、ちゃっかりと私の向かいの席に座った。

 私はため息をつき、彼女の分の紅茶とクラフティを用意した。


「……さあ、最高の状態で味わえ。温度が下がる前にな」


 私たちは焼きたてのクラフティを口に運び、ダージリンの香りを堪能した。熱々のカスタードとチェリーの酸味、そして紅茶の渋みが完璧な計算通りに調和し、私の探偵脳を心地よく満たしていく。


 あの激闘の夜から数日。私たちのチームは、それぞれの日常へと戻っていた。

 純と月子は、あの極限の緊張状態の反動で二日ほど泥のように眠った後、溜まっていた配信の企画会議と動画編集に追われている。深美はファントムの取り調べと事後処理で警視庁に缶詰めになり、セシリアは今回の騒動の情報をコントロールするためのマスコミ対策に奔走。ナオミは週末のクラブイベントの準備に忙しく、ソフィアは大学の学会発表で地方へ飛んでいる。


 私とエレナだけが、この平穏な日中の時間を享受していた。


「はぁ……美味しかった。やっぱりトオルの作るお菓子は最高ね」


 エレナが満足げにカップを置くと、足元で愛犬のチャイが短い尻尾を振りながら彼女にすり寄った。


「あらチャイちゃん、いい子ねぇ」


 エレナがしゃがみ込んで撫でてやると、チャイは嬉しそうに目を細めた。

 エレナはそのまま立ち上がり、玄関のフックに掛かっていたチャイの『赤いハーネスとリード』を手に取った。それを見たチャイは「おでかけ?」と即座に反応し、私の足首に自分の小さな体をすり寄せ、期待に満ちた瞳で見上げてきた。


「……おい。何を企んでいる」


「美味しいお茶もいただいたことだし、たまには私と『お散歩デート』してくれない? カロリー消費も兼ねてね」


 エレナは私の耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく囁いた。


「あの夜、私たちを守るために一人で死のうとしたトオルに、少しだけお説教もしたいし」


「……離れろ。僕は引きこもりだ。外の空気には未知のウイルスや排気ガス、そして何より『人間』という名のストレス源が満ちている。それに、チャイはまだアスファルトの道を怖がる」


「公道には出ないわよ。このマンションの敷地内、一階の中庭まで。あそこならチャイちゃんも歩けるでしょ?」


「……っ」


 私は言葉を詰まらせた。

 タナトスの襲撃を受けた夜。私は皆を巻き込まないため、自室のサーバーごと自爆する計画を立て、冷酷な言葉で彼女たちを遠ざけようとした。

 結果として、純や月子、そしてエレナたちの「共犯者として最後まで付き合う」という強い意志に救われ、チーム全員で迎撃作戦を成功させたのだ。

 彼女たちのその無謀なほどの信頼に対し、私はまだ、まともな借りを返せていなかった。


「クゥ〜ン」


 チャイが私の足首にぴたりと寄り添い、甘ったるい声を出した。


「……分かった。負けだ」


 私は深くため息をつき、エレナからチャイのハーネスを受け取った。


「中庭のベンチまでだぞ。それ以上は、僕の生存本能が拒否する」


「やった! トオルが自発的に玄関のドアを越えるなんて、歴史的快挙よ!」


 エレナがパッと顔を輝かせた。

 私は渋々コートを羽織り、チャイにハーネスを装着して、玄関の重い扉を開けた。至高のティータイムを完璧に終えた後でなければ、絶対に承諾しなかっただろう。


★★★★★★★★★★★


 私の住む高級マンション『メゾン・ド・ラプラス』の一階には、居住者専用の広大なプライベートガーデンがある。

 厳重なセキュリティゲートに守られたその空間は、外部の喧騒が嘘のように静かで、整備された芝生と、季節を彩る樹木が美しく配置されていた。


「わぁ……秋の風が気持ちいいわね」


 エレナがトレンチコートの襟を少し立てながら、深呼吸をした。

 木々はすでに色づき始め、赤や黄色に染まった葉がハラハラと舞い落ちている。


「ワフッ! ワフワフッ!」


 柔らかい芝生の上なら安心できると学んだのか、チャイは大はしゃぎだった。

 風に転がる枯れ葉を不器用な足取りで追いかけ、捕まえては口からポロリと落とし、また追いかける。その無限ループを繰り返している。

 エレナはそんなチャイと一緒に芝生を小走りし、「ほら、こっちよー!」と無邪気に笑っていた。


 私は中庭の隅にある木陰のベンチに腰を下ろし、その光景を静かに眺めていた。

 太陽の光が、木漏れ日となって私の肩に落ちる。


 ……悪くない。たまには、防音ガラスを通さない本物の風の音を聞くのも。


 私は心の奥底で、そんな柄にもないことを思っていた。


「はい、お待たせ。敷地内のカフェラウンジで買ってきたわよ」


 少し汗ばんだ様子で戻ってきたエレナが、自分用のカフェラテの紙カップを片手に、私の隣に腰を下ろした。

 チャイは遊び疲れたのか、私の足元で丸くなって荒い息を吐いている。


「……少しは気分転換になった?」


 エレナがラテを啜りながら聞く。


「そうだな。だが、やはり人口密度が低い場所とはいえ落ち着かない。僕の精神の平穏は、強固なファイアウォールの内側にしか存在しない」


 私はあえて憎まれ口を叩いた。


「ふふっ、相変わらず素直じゃないわね」


 エレナはクスッと笑い、そのままコトン、と私の肩に自分の頭を乗せてきた。


「……おい」


「少しだけ、このままでいさせて。……あの夜の緊張が、まだ抜けきってないみたいなの」


 エレナの声は、いつもの陽気で奔放なトーンとは違い、少しだけ低く、震えていた。

 彼女もまた、タナトスという見えない恐怖と戦っていたのだ。純や月子のように表立って武力を振るうわけでもなく、私の傍でオカルトの知識と翻訳スキルという「後方支援」だけで、あの極限状態を乗り越えた。

 その精神的負担は、計り知れない。


「……ありがとう、トオル。私たちを守ってくれて」


 エレナの温かい言葉が、秋風に乗って私の耳に届く。


「勘違いするな。君たちが無謀に突っ走るから、僕が後始末をしただけだ」


「それでもよ。……純も、月子も、深美もセシリアも、ナオミもソフィアも。みんな、あなたがいなかったら、とっくにどうにかなってたわ。……あなたがこのチームの『芯』なのよ」


 エレナの言葉に、私は視線を遠くの枯れ葉に向けた。

 引きこもりで、自己中心的で、他人に興味のなかった私が。

 今では、彼女たちの命と日常を背負い、それを守るためにキーボードを叩いている。

 それは紛れもない事実であり、私自身が選んだ「枷」だった。


「……だが、終わったわけじゃない」


 私は、ファントムが残した最後のメッセージを思い出していた。


「『神の眼は、すでにお前を見ている』。……あの言葉がハッタリでないとすれば、タナトスの背後には、さらに巨大な『黒幕』が存在する。僕たちの平穏は、いつ崩れ去ってもおかしくない薄氷の上にある」


 私のシリアスな言葉に、エレナは私の肩から頭を離し、青い瞳で真っ直ぐに私を見つめ返した。


「どんな相手でも、私たちがいれば大丈夫よ」


 彼女の顔には、もう恐怖の色はなかった。

 代わりに、自信に満ちた、スロバキアの魔女としての不敵な笑みが浮かんでいた。


「スロバキアの魔女と、数万人の特定班、そして何より……世界一頭の切れる天才探偵がついているんだから。どんな神様だろうと、悪魔だろうと、私たちが暴いてあげるわ」


「……随分と買い被られたものだ」


「あら、事実でしょ? ……だからトオル。すべての戦いが終わって、本当の平和が戻ったら」


 エレナは私の頬にそっと手を伸ばし、意味ありげに微笑んだ。


「その時は、こんな敷地内のお散歩じゃなくて、本当のデートをしてあげるわ。私の故郷、スロバキアの古城に特別に招待してあげる。……二人きりでね」


 大人の女性の色気と、大胆なアプローチ。

 並の男なら即座に首を縦に振るだろう。だが、私は金子徹だ。


「……遠慮しておく。海外へのフライトは長時間に及ぶし、何より飛行機の機内Wi-Fiは絶望的に不安定で遅いからな」


「もう! 本当にムードがないんだから!」


 エレナが呆れて私の腕をポカポカと叩く。

 足元のチャイが、二人の騒ぎに目を覚まし、「クゥン?」と首を傾げた。


「さあ、部屋に戻るぞ。紅茶の片付けも残っているからな」


 私は立ち上がり、チャイのリードを引いた。

 秋の空は高く、澄み切っている。

 これから先、どんな巨大な陰謀や劇場型の犯罪が私たちを待ち受けているかは分からない。

 だが、私にはこの強固な要塞と、少しだけ騒がしい、愛すべきチームがある。


「早くしてよトオル! 部屋に戻ったらまたお茶淹れてよね!」


 先を歩くエレナの背中を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

 非日常から、日常への帰還。

 過去の亡霊たちとの長かった戦いは、甘く香ばしいお菓子の匂いと共に、静かに幕を下ろしたのだった。


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