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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第33話 Qの覚悟、アリスの叫び

 月曜日、午後1時。

 私の安息の地であるマンションの最上階リビングは、香ばしいライ麦パンと、肉の焼ける野性的な匂いに満ちていた。


「……火入れの温度、完璧だ」


 私はまな板の上の極厚の牛肉の塊をスライスし、静かに息を吐いた。

 本日の勝負飯は、『特製ローストビーフのクラブハウスサンド』だ。

 赤身の旨味が凝縮されたオージービーフのブロック肉を、低温調理器でじっくりと5時間加熱し、最後に表面だけを強火で焼き付けて香ばしさを閉じ込める。

 軽くトーストしたライ麦パンに、マスタードを効かせた自家製マヨネーズソースを塗り、シャキシャキのレタス、トマト、そしてスライスしたてのローストビーフを何層にも折り重ねていく。


 これに合わせるペアリングは、冷たい炭酸でも甘い紅茶でもない。


 『アイリッシュ・コーヒー』だ。ただし、今夜の過酷な作戦に備え、アイリッシュ・ウイスキーは数滴の香りを纏わせる程度に留め、深く焙煎したエスプレッソの苦味と、トップに浮かべた濃厚な生クリームの甘みをメインに据えた「デカフェ仕様」である。


 肉のタンパク質とパンの炭水化物、そしてカフェイン。

 戦いに向けた極限のエネルギーチャージ。

 だが、今の私には、この最高傑作を味わうほどの心の余裕はなかった。


「……ポトッ」


 足元で、小さな音がした。

 見下ろすと、愛犬のチャイが、お気に入りの「ロープのおもちゃ」を私のスリッパの前に落とし、首をかしげて私を見上げていた。

 昨夜の盗聴器騒動からずっと、私がモニターを睨みつけてピリピリとした空気を発しているのを察知しているのだろう。チャイは「遊んで!」と無邪気にねだるのではなく、「僕が遊んであげるから、元気出して?」とでも言いたげな、少し心配そうなビー玉のような瞳で私を見つめている。


「……すまない、チャイ。今日は遊んでやれない」


 私が低い声で言うと、チャイは少し寂しそうに耳を伏せ、ロープのおもちゃの上に小さな顎を乗せて伏せた状態になった。その健気な姿に胸がギュッと締め付けられるが、決意を鈍らせるわけにはいかない。

 私はコーヒーを一口啜り、インカムのスイッチを入れた。


「全員、聞こえるか」


 セキュア回線を通じて、チームQのメンバー全員に通信を繋いだ。


『Qちゃん? どうしたの、夜の作戦の前に』


 岡本純の明るい声が返ってくる。


「急な呼び出しですまない。……昨夜、品川のダミー倉庫にパンドラの箱を移すと言ったな。あれは嘘だ」


『えっ……? どういうこと?』


 原田深美が警戒を含んだ声で問う。


「品川に向かうのは、セシリアが手配したPMCのプロたちだけだ。お前たちは行かなくていい。……いや、それどころか、今後の作戦から一切手を引いてもらう。これまでの報酬は十分に支払う。チームQは、たった今をもって解散する」


 ――沈黙。


 通信回線越しにも、全員が息を呑む気配が伝わってきた。


『……はあ!? ちょっとQちゃん、何言ってんの!? 冗談でしょ!?』


 純の怒声が静寂を破る。


「冗談ではない。……タナトスの本隊は、ダミー倉庫ではなく、僕がいるこのマンションを直接狙ってくる。僕は、この部屋のネットワークに致死量のウイルスを仕掛け、奴らが侵入した瞬間に物理サーバーごと自爆させて、全てを終わらせるつもりだ」


『なっ……! 自分ごと道連れにする気!? ふざけんな!』


 純が激怒する。


「お前たちはただの素人だ。本物のサイバーテロリストとの殺し合いに付き合う義理はない。僕一人で、過去の因縁にケリをつける」


『勝手なことを! 私は現役の警察官だぞ!』


 深美が吠える。


『……原田刑事、感情的にならないで。金子さんの覚悟は本物よ。私たちのリスク許容度を超えているわ』


 セシリア・クロスが、氷のように冷たい声で同調した。


「セシリアの言う通りだ。……今までご苦労だった。二度と僕に関わるな」


 私は純たちの叫びを強制的に遮断し、システムの電源を落とした。

 静かになった部屋で、私はサンドイッチを口に運んだ。味など全くしなかった。


 これでいい。

 ファントムとの決着は、僕がこの命と引き換えに完遂する。

 彼女たちを、これ以上の危険に晒すわけにはいかないのだ。


★★★★★★★★★★★


 午後4時。

 作戦決行まで、あと10時間。

 私がマンションと連動した自爆トラップの構築を終えた頃、リビングのインターホンが鳴った。


 モニターを確認すると、最上階の私の部屋のドアの前に、純と中野月子が立っていた。

 彼女たちの前には、最後の砦としてセシリアが配置した黒スーツのPMCの警備員が立ち塞がっている。


『通しなさいよ! セシリアには話をつけて、1階のエントランスとエレベーターの警備は通してもらったのよ!』

『申し訳ありません、このフロアだけは金子様から「絶対に誰も通すな」と厳命されております』


 純が食ってかかるが、プロの巨漢はビクともしない。

 だが、そこに隣の部屋のドアがガチャリと開いた。


『アホイ(Ahoj)! ご苦労様、屈強な殿方。……でも彼女たちは、私のお客様なのよ』


 スロバキア人のエレナ・ヴァルゴヴァが、胸元の大きく開いたシルクのガウン姿で現れ、警備員の肩に色っぽく手を置いた。


『え、あ、いや、しかし……』


 エレナの圧倒的な色香と予期せぬ登場に、プロの警備員が一瞬だけ怯む。


『お取り込み中失礼しまァァァす!!』


 そのコンマ1秒の隙を、月子が見逃すはずがなかった。

 彼女は警備員の脇をすり抜け、私の部屋のドアノブを強引に捻った。エレナが事前に私の部屋のオートロックの暗証番号を覗き見ていたのだろう、ドアはあっさりと開いた。


 バンッ!!


 リビングのドアが乱暴に蹴り開けられ、純が肩で風を切って乗り込んできた。


「ふざけんな!!」


 純の怒声が、静寂な要塞に響き渡った。

 彼女の目は真っ赤に充血し、厚いメイクの下からでも分かるほど、怒りで顔が紅潮していた。


「……PMCは何をしている。まあいい、帰れ純。僕の警告が聞こえなかったのか」


 私はPCのモニターから目を離さず、冷たく言い放った。


「聞こえたわよ! だから来たんじゃない!」


 純はズカズカと私に歩み寄り、私のPCデスクを両手でバンッ! と強く叩いた。


「私たちを、ただの足手まといのお荷物だと思ってるわけ!?」


「そうだ。君たちは足手まといだ。だから……」


「嘘つけ!!」


 純の叫びが、私の言葉を遮った。

 彼女は、私の手元――キーボードに乗せたまま、小刻みに震えている私の両指を、真っ直ぐに指差した。


「あんた、手が震えてるじゃないの!」


「……っ!」


 私は咄嗟に手を引っ込めようとしたが、純はその震える手をガシッと力強く握りしめた。

 温かく、少し汗ばんだ彼女の手のひら。


「……あんたは、怖いんでしょ」


 純の声が、怒りから、微かな震えを帯びたものに変わった。


「自分一人で全部の責任を負って、死ぬのが。……他人の命を背負う覚悟がないから、勝手に十字架背負って、一人でカッコつけて逃げようとしてるだけでしょ!」


 図星だった。

 私は息を呑み、反論の言葉を見つけられなかった。


 引きこもりで、他人との関わりを極力避け、安全圏から高みの見物をしてきただけの男。

 それが、スパチャという遊びの延長で、いつの間にか「仲間の命」という重すぎるものを背負ってしまったのだ。

 もし私の判断ミスで、純が、月子が、エレナが、深美が死んだら。

 その恐怖が、私の「共に戦う」という選択肢を奪い、自己犠牲という安易な逃げ道へと走らせていたのだ。


「……探偵は、一人でいい。助手を危険に晒す探偵は、ただの三流だ」


 私は視線を落とし、絞り出すように言った。


「だからって、勝手に私たちを切り捨てないでよ……!」


 純が私の手を握る力を強める。


「私たちは『共犯者』でしょ!? 幽霊マンションの時からずっと、あんたの指示でどんなヤバい場所にも突っ込んできたじゃない! ……あんた一人に、全部の十字架を背負わせたりしないわよ!」


「店長!」


 後ろに立っていた月子も、真剣な顔で一歩前に出た。


「私、店長のご飯が食べられなくなるのは絶対に嫌です! だから、私の胃袋を満たし続ける責任、最後まで取ってくださいね!」


「……お前は相変わらずブレないな」


 私が思わず苦笑した、その時だった。


「クゥ〜ン……」


 足元から、甘く細い声がした。

 見下ろすと、チャイが私たちのピリピリした空気を読んだのか、私と純の間を縫うように入り込んできた。

 そして、私の足と純の足に、交互にスリスリと身をこすりつけ、「喧嘩しないで」と仲裁するように、丸い瞳で私たちを見上げてきたのだ。


「……チャイちゃん」


 純が思わず目尻を下げ、チャイの頭を撫でる。


 その小さく温かい毛玉の存在が、私の胸に巣食っていた恐怖と孤独の強張りを、完全に解きほぐしてくれた。

 ああ。どうやら私は、とんでもなく厄介で、強くて、愛おしいチームを作ってしまったらしい。


「……後悔するぞ。相手は国家を敵に回すテロリストだ」


 私は大きく息を吐き、純の目を見返した。


「上等よ! 逃げ帰って引きこもるくらいなら、スパチャで最高級の棺桶でも買ってもらうわ!」


 純が、いつもの不敵な笑みを浮かべた。


「……分かった。自爆プログラムは破棄する。品川の囮作戦と並行して、ここで奴らを迎撃するぞ。……他のメンバーにも連絡を入れろ」


「了解、ボス!」

「ラジャッス!」


 純と月子が歓声を上げる。

 私の安息の地は、もはや私一人のものではなくなっていた。

 過去の亡霊を葬り去るための最終決戦が、この最強で最狂のチームと共に、今夜幕を開ける。



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