第32話 裏切り者は誰だ
日曜日、午後2時。
私は代官山にある、緑に囲まれたオープンテラスのカフェで、深い、本当に深いため息をついていた。
「……だから言っただろう。休日の代官山など、人間が息をする場所じゃないと」
「もう、文句ばっかり言わないの! Qちゃん、ここ数日ずっとPCの前に張り付いてて、顔色最悪だったわよ? 少しは太陽の光を浴びないと、ソフィア先生にまた怒られるわよ」
私の目の前の席で、岡本純がストローでアイスティーをかき混ぜながら笑った。
今日の彼女は、いつもの派手なギャル服やブランドロゴの主張が激しい服ではなく、体のラインを美しく見せるアースカラーのリブニットに、黒のワイドパンツを合わせていた。べっ甲縁の伊達メガネとタイトにまとめた髪型が、彼女が本来持っている端正な顔立ちを際立たせ、「洗練されたクリエイター」のような知的な魅力を放っている。
正直、すれ違う男たちが何度も振り返るレベルだ。
「……それにしても、なぜ僕が君と『デート』などしなければならないんだ」
「息抜きよ、息・抜・き! ツッキーは別のバイトだし、チャイちゃんはエレナが『私が責任を持って甘やかすわ』って引き受けてくれたでしょ?」
確かに、今日の外出前、チャイは私の足首にすり寄り、「行かないで」とばかりに私の靴下を軽く甘噛みして引き留めてきた。その愛らしい抵抗を振り切るのには、ファントムの暗号を解く以上の精神力を要した。エレナに抱っこされながら、恨めしそうにこちらを見るチャイの顔が脳裏に焼き付いている。
私が注文したエチオピア産のスペシャリティコーヒーと、純が頼んだ『季節のフルーツタルト』が運ばれてきた。
タルトの上には、宝石のように輝くシャインマスカットと完熟の桃が山盛りに乗っている。バターの香るサクサクのタルト生地と、甘さ控えめのカスタードクリーム。純はそれをフォークで切り分け、幸せそうな顔で口に運んだ。
「ん〜っ! 美味しい! やっぱり甘いものは正義ね!」
私は浅煎りのコーヒーを啜った。華やかなベリー系の酸味と、紅茶のようなクリアな後味が、少しだけ私の疲労を和らげてくれる。
だが、私の頭の片隅には、常に「あの問題」が暗い影を落としていた。
「……息抜きなんてしている場合じゃないんだがな」
私は声を落とし、周囲に聞かれないように呟いた。
私がこの無防備なオープンテラスを自ら指定したのには、明確な理由がある。風の音や周囲の雑音、そして僕のポケットに入っている小型の超音波ジャマーが、あの「見えない耳」を物理的に塞ぐのに最適な環境だからだ。
「ここ三日間。僕たちの動きは、ことごとくファントムに読まれている」
純のフォークの手が止まり、彼女の表情も真剣なものに変わった。
渋谷でのチェイスから数日。
ファントムの「手駒」を二名確保した私たちは、彼らのスマホの解析や、ナオミの裏社会の情報網を使って、ファントムの次なるアジトの候補をいくつか割り出していた。
だが。
深美が所轄の刑事を動かして踏み込もうとした瞬間には、すでにアジトはもぬけの殻。
セシリアがPMCのオペレーターを向かわせたダミー会社も、到着の10分前にサーバーが物理的に破壊され、証拠隠滅されていた。
それだけではない。私が新たに構築した「パンドラの箱」を隠すためのダミーサーバーのIPアドレスまで、なぜか即座に特定され、DDoS攻撃を受けたのだ。
「……まるで、私たちの作戦会議を、特等席で聞いているみたいよね」
純が悔しそうにタルトを睨む。
「ああ。僕のマンションのネットワークは完全に独立させ、軍事レベルの暗号化を施している。ハッキングされている痕跡は1ビットもない」
「じゃあ……やっぱり」
「……チームの中に、ファントムに情報を流している『裏切り者』がいる。そう考えるのが、最も論理的な帰結だ」
私は苦い事実を口にした。
昨夜のオンライン会議では、ついにこの疑惑が表面化し、チーム内に最悪の「疑心暗鬼」が生まれてしまったのだ。
深美は「民間人の口の軽さが原因ではないか」と疑い、ナオミは「警察の内部情報が漏れているんじゃないの?」と反論した。セシリアは「私のPMCに内通者はいない」と冷たく言い放ち、ソフィアは「裏切り者の脳を解剖して嘘のメカニズムを調べたいわ」と物騒なことを言った。月子ですら、気まずそうに沈黙していた。
「Qちゃんは、誰かを疑ってるの?」
純が、不安そうな瞳で私を見つめた。
「……探偵としては、全員を疑うのがセオリーだ。だが」
私はコーヒーカップを置き、純の目を見返した。
「僕は、君たちを信じている。このチームに裏切り者なんていないと、僕の『直感』が告げている」
「Qちゃん……」
純の顔に、パッと明るい色が戻る。
「だからこそ、論理の矛盾を潰さなければならない。ハッキングではない。内通者でもない。……ならば、残る可能性は一つだ。物理的な『盗聴器』が、我々の身近に仕掛けられている」
「盗聴器? でも、マンションの中はQちゃんが毎日専用の機材で電波チェックしてるじゃない」
「ああ。室内には何もない。……だが、盲点があった。自撮り棒を出せ」
私は純がテーブルに置いている「自撮り棒兼用のスマホスタビライザー」を指差した。
どんな服を着ていようと、彼女は配信者としての魂であるその機材だけは、必ず肌身離さず持ち歩いている。
「あの渋谷の地下アジトに突入した時のことを思い出せ。月子が先頭の男を制圧した際、君はブレない映像を撮るために、自撮り棒を一旦サーバーラックに立てかけただろう」
「え? あ、うん……。三脚モードにして固定したわ」
「その数秒の隙だ。……あの部屋には、奥の暗がりに隠れて逃げ遅れたフリをしていた別の工作員がいた。奴が、君の機材にこれを押し込んだんだ」
私は手を伸ばし、純の自撮り棒を手元に引き寄せた。
そして、グリップの底にある、三脚を取り付けるための小さなネジ穴の部分を凝視した。
「……あったぞ」
「嘘……」
私はポケットからマルチツールを取り出し、ネジ穴の奥に詰め込まれていた黒いパテのようなものを掻き出した。
その中から、米粒ほどの大きさの銀色の部品が転がり出た。
超小型のコンデンサーマイクと、ボタン電池、そして微弱な電波を発信する送信機が一体化した、軍事用のプロ仕様の盗聴器だ。
「この盗聴器は、自撮り棒のBluetoothの電波に偽装して音声データを送信するタイプだ。だから僕の電波探知機でも『純の機材が発している正規の電波』としてスルーされてしまったんだ。最新の軍事技術だよ」
「あ、あいつ……! 私を利用して……!」
純が怒りでワナワナと震え、拳を強く握りしめた。
だが、私は逆に、口元に冷酷な笑みを浮かべていた。
「怒るな、純。……これで、チームの疑心暗鬼は晴れた。裏切り者は誰もいなかった。それどころか……ファントムの野郎は、自分から僕に『逆転の糸口』をプレゼントしてくれたんだ」
「逆転の糸口?」
「ああ。奴は今も、この盗聴器から流れる音声を、どこかの受信機で聞いているはずだ。今は僕のジャマーでノイズしか聞こえていないだろうがね。……ならば、これを使って『極上の嘘』を囁いてやればいい」
私は盗聴器をハンカチで包み、音を遮断しないようにテーブルの上に置いた。
「さあ、純。急いでマンションに帰るぞ。最高の『脚本』を書く時間だ」
私たちは急いでカフェの会計を済ませ、タクシーに飛び乗った。
私の探偵脳は、すでにファントムを狩るための完璧な罠を構築し始めていた。
★★★★★★★★★★★
午後4時。
マンションの最上階。
リビングのドアを開けると、「ワフッ!」という元気な鳴き声と共に、チャイが弾丸のように飛んできた。
「おお、よしよし。いい子にしていたか」
私がしゃがみ込むと、チャイは私の顔中を舐め回し、「遅いよ! 寂しかったよ!」と全身で喜びを表現してくる。
その無邪気な温もりに触れ、私はファントムへのどす黒い殺意を静かに腹の底へ沈めた。この愛らしい日常を脅かす者は、決して生かしてはおかない。
「あら、おかえりなさいトオル。早いお帰りだったわね」
ソファで優雅に紅茶を飲んでいたエレナが、微笑みながら迎えてくれる。
「ああ。……エレナ、至急全員に連絡を取れ。これから、この部屋で『重要な作戦会議』を行う。……ただし、絶対にこの部屋では『声』に出して真実を語るな」
私はエレナに、ハンカチに包んだ盗聴器を見せ、スマホのメモ帳アプリで『盗聴されている。これを使ってファントムを罠にかける』と打ち込んで見せた。
エレナは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに状況を理解し、妖艶な笑みを浮かべて頷いた。
★★★★★★★★★★★
午後6時。
私のリビングには、チームQの全メンバーが集結していた。
深美、セシリア、ナオミ、ソフィア、月子、純、エレナ、そして私。
私たちは、テーブルの中央に『盗聴器の仕込まれた自撮り棒』を置き、それを囲むように座った。
全員の手元には、それぞれタブレットやスマホがあり、そこには私が書いた『台本』が表示されている。
私は一度大きく頷き、合図を出した。
ここから先は、ファントムに聞かせるための「芝居」だ。
「……みんな、集まってくれてありがとう」
私は、わざとらしく深刻な声を出した。
「実は、僕が隠し持っている『パンドラの箱』のデータだが……このマンションのサーバーに置いておくのは、もう限界だ。奴らのサイバー攻撃が激しすぎる」
『えっ、じゃあどうするの?』
純が、台本通りに焦った声を出す。
「明日の深夜2時。完全にネットワークから切り離された、オフラインの『物理サーバー』にデータを移す。場所は、僕が個人で契約している、品川区のレンタル倉庫の地下金庫だ」
『それ、大丈夫なの? 運ぶ途中で襲われたら……』
ナオミが演技の乗った声で言う。
「心配ない。移動は僕と月子の二人だけで、ロケバスを使って極秘裏に行う。他のメンバーは、万が一に備えてこのマンションの防衛に残ってくれ」
『……ええ。それが一番安全ね』
セシリアが、氷のように冷たい声で相槌を打つ。
完璧だ。
これで、ファントムの耳には「明日の深夜2時、Qが少ない護衛で、品川の倉庫にパンドラの箱を物理的に運ぶ」という情報がすり込まれたはずだ。
奴がこの千載一遇のチャンスを逃すはずがない。必ず、品川の倉庫に襲撃を仕掛けてくる。
私は手元のタブレットで、皆にメッセージを送った。
『(品川の倉庫はダミーだ。そこには、僕が仕掛けた致死量のウイルス入りの囮ドライブを置いておく。奴らがそれにアクセスした瞬間、奴らの本拠地の位置情報が完全に露呈する)』
メンバーたちが、次々と無言で頷く。
疑心暗鬼は完全に消え去り、そこにあるのは「反撃」への強烈な一体感だった。
『(深美、PMCと連携して品川周辺の包囲網を敷け。ナオミとエレナは後方支援。ソフィアは待機。……純、月子、明日は忙しくなるぞ)』
全員の目に、獲物を狙う肉食獣のような光が宿っている。
このチームを敵に回したことの恐ろしさを、ファントムの野郎にたっぷりと味わわせてやる。
私は、足元で無邪気に眠るチャイの頭を撫でながら、静かに、そして残酷に微笑んだ。
「……さあ、ファントム。パンドラの箱を開ける準備はいいか?」
私の呟きは、盗聴器には拾われないほどの、微かなささやきだった。
過去の亡霊を完全に葬り去るための、最後のゲームが、今始まろうとしていた。




