第31話 渋谷アンダーグラウンド・チェイス
午後8時。
私の安息の地であるマンションの最上階リビングは、肉の焼ける暴力的な香りと、スモークの香気に満たされていた。
「……メイラード反応、完璧だ」
私は分厚い鉄板の上で、ジュージューと音を立てる肉の塊を裏返した。
本日のディナーは、究極のジャンクフード『特製・黒毛和牛のグルメバーガー』だ。
粗挽きにした黒毛和牛100%のパティは、つなぎを一切使わず、塩と黒胡椒のみで肉本来の旨味を極限まで引き出している。表面はカリッと香ばしく、中はレア気味で肉汁が溢れ出す計算だ。
隣でこんがりと焼き色をつけた自家製のブリオッシュバンズに、たっぷりの特製トリュフマヨネーズを塗り、シャキシャキのレタス、完熟トマト、そして主役のパティを乗せる。さらにその上から、チェダーチーズとグリュイエールチーズをブレンドした濃厚なチーズソースを滝のように流しかける。
そして、この罪深いカロリーの塊に合わせるペアリングは、ビールではない。
『自家製クラフトコーラ』だ。
シナモン、クローブ、カルダモン、バニラビーンズなどのスパイスと、レモンやオレンジの柑橘類を黒糖でじっくりと煮込んだシロップ。これを強炭酸水で割る。
市販品にはない複雑でスパイシーな香りと、突き抜けるような爽快な炭酸が、ハンバーガーの重厚な脂を鮮やかに洗い流し、口の中をリセットしてくれるのだ。
「キュゥゥン……ワフッ!」
ふと、足元から可愛らしい抗議の声が上がった。
見下ろすと、愛犬のチャイが、目をキラキラさせて私を見上げている。
肉の焼ける匂いに完全にノックアウトされたらしく、お行儀よく「お座り」の姿勢をキープしつつも、前足をパタパタと上下に動かす『ちょうだいダンス』を披露していた。
「……お前にはトリュフもスパイスも早すぎる」
私が冷たく言い放つと、チャイは耳をペタンと後ろに倒し、この世の終わりのような悲しそうな顔で「キュ〜……」と鳴いた。
あざとい。自分の可愛さを完全に理解している手口だ。
「……チッ。仕方ないな。お前のは特別製だ」
私は別で焼いておいた、味付け一切なしの赤身肉100%のミニパティを冷まし、犬用の器に入れてやった。
チャイは「ハフッ! チャプチャプチャプ!」と歓喜の音を立ててミニパティに食らいつく。夢中で食べるあまり、丸いお尻がプリプリと揺れているのがひどく愛らしい。
その無防備な背中を見ていると、極度に張り詰めていたハッカーとしての思考が、急速に弛緩していくのを感じた。
だが、その至福の時間は、スピーカーから響いた重低音のビートによってかき消された。
『Yo, Q! 飯食ってる場合じゃないわよ!』
サブモニターに、渋谷のクラブのVIPルームにいるナオミ・セント・ジェームズが映し出された。
彼女は巨大なヘッドフォンを首にかけ、不敵な笑みを浮かべている。
「……なんだ。今、最高の肉汁とスパイスのマリアージュを楽しもうとしていたところなんだが」
『悪いけど、特大のネタが入ったわ。……あんたが探してた、シエラを拉致した実行部隊。つまりファントムの手下の残党よ』
私は手に持っていたハンバーガーを皿に置き、即座に探偵の顔へと切り替わった。
今朝、シエラを苦しめた遅効性の毒の正体は暴いたが、ファントムの足取りは依然として掴めていない。奴の「手足」を狩ることは、反撃の第一歩となる。
「……で、どこにいる」
『アタシのストリートの情報網を舐めないでよね。ウチのクラブの常連のハスラーからタレコミがあったわ。宇田川町の裏路地にある、雑居ビルの地下よ。東欧系のガタイのいい男たちが、数日前から機材を運び込んでるってさ』
「宇田川町か。……純、月子、聞こえているな?」
私は別室で仮眠を取っていた二人をインカムで呼び出した。
すでに起きて身支度を整えていた純と月子が、リビングへと飛び出してくる。
「準備バッチリよ! Qちゃん、今日こそあのファントムの尻尾を掴むわよ!」
純が気合十分に言う。彼女の足元は、いつものピンヒールではなく、動きやすいハイテクスニーカーになっていた。以前の教訓を活かしているらしい。
「店長、ハンバーガー美味しそうですね! 帰ってきたら私の分も焼いてください!」
月子は愛用のジンバルカメラと木刀の入ったケースを背負っている。
「……生きて帰ってきたらな。月子、ロケバスを出せ。渋谷の宇田川町だ」
二人が勢いよく玄関を飛び出していくのを見送りながら、私はモニターの片隅にある「防犯カメラ映像」のウィンドウを確認した。
現在、このマンションの周囲とエントランス、さらにはエレベーターホールに至るまで、セシリアが手配したPMC(民間軍事会社)のオペレーターたちが24時間体制で警備を固めている。
ファントムの脅威が去っていない極限状態の中、私が自室の物理的防衛力である純と月子を遊撃隊として外へ出せたのは、この強固な防衛ラインが構築されているからだ。
私はパラノイアだが、馬鹿ではない。自分の命を守るための算段は、常に最優先で敷いている。
★★★★★★★★★★★
午後9時。
眠らない街、渋谷。
純と月子は、ネオンと喧騒に包まれたセンター街を抜け、宇田川町の薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。
『Qちゃん、着いたわ。ナオミの言ってた雑居ビルってこれね』
インカムから純の小声が届く。
私はモニターに純のスマホカメラの映像と、渋谷周辺の防犯カメラのハッキング画面を並べて展開していた。
そして、すでに純の裏チャンネルでは『緊急クエスト:渋谷アンダーグラウンド・チェイス』と題した限定配信がスタートし、数万人の「特定班」がスタンバイしている。
「特定班、よく聞け。ターゲットは東欧系の外国人、黒のタクティカルウェアを着ている可能性が高い。純たちが今からビルに突入する。もし敵が逃走した場合、渋谷中のライブカメラと、SNSのリアルタイム検索で奴らの逃走経路を追え」
『了解!』
『渋谷のスクランブル交差点、センター街、スペイン坂のライブカメラ監視体制に入った』
『Twitterで「渋谷 外国人 逃げてる」のキーワードでスクレイピング回すわ』
数万の「目」が、渋谷の街を上空から覆い尽くす。
「よし。純、月子、突入しろ」
『お取り込み中失礼しまァァァす!!』
月子の威勢の良い叫び声と共に、ビルの地下へ続く重い鉄扉が蹴り破られた。
カメラの映像が激しく揺れ、地下のフロアを映し出す。
そこには、多数のサーバーラックと、黒ずくめの男たちが数名いた。間違いなく、ファントムの通信拠点の一つだ。
「な、何だ貴様ら!?」
「警察か!?」
男たちが慌てて立ち上がる。
「JUN様チャンネルよ!! あんたたち、アタシたちのQちゃんに喧嘩売ったこと、後悔させてあげるわ!」
純が自撮り棒を構えながら啖呵を切る。
「逃がしませんよ!」
月子が木刀を構えて踏み込む。
先頭にいた大柄な男の膝裏を正確に打ち据え、一瞬で無力化する。
男が前のめりに崩れ落ちた隙を突き、月子はポケットから結束バンドを取り出し、素早く男の手首を後ろ手に縛り上げた。
「はい、一丁上がりです!」
「チッ! 散開しろ! 合流地点へ向かえ!」
リーダー格と思われる男が叫び、残りの3人がバラバラに散って、ビルの裏口へと逃走を図った。
「月子、深追いはするな! 一人は確実に確保したな! 逃げた奴らは僕たちが追う!」
『了解ッス!』
私がキーボードを弾き、ナオミに通信を入れる。
「ナオミ! 3人逃げた! 宇田川町の裏路地から、センター街方面と、井の頭通り方面だ!」
『任せな! アタシの耳と、ストリートの「目」を総動員するわ!』
クラブのVIPルームで、ナオミがDJミキサーを操作する。彼女は渋谷のストリートでたむろしているスケーターや、客引きたちと独自のネットワークを持っている。
『Yo, ケニー! 今、宇田川の路地から黒ずくめのデカい外人が走ってこなかった!?』
『ああ、ナオミ姐さん! 2人組がスペイン坂の方に走ってったぜ! めっちゃ焦ってた!』
「特定班! スペイン坂のライブカメラを確認しろ!」
私が叫ぶ。
『カメラ4番、スペイン坂の階段を駆け上がる黒ずくめの2人組を確認!』
『パルコ方面に抜けるつもりだぞ!』
「純! その拘束した男を置いていくわけにはいかない。月子をそこに見張りに残し、お前は単独でパルコ方面へ向かえ! 僕が先回りするルートを弾き出す!」
『分かったわ! ツッキー、後は頼んだわよ!』
『任せてください!』
純が息を切らしながら、単独で夜の渋谷を駆け出す。
ジンバルカメラが、ネオンに照らされた若者たちの間を縫うように進む純の姿を、臨場感たっぷりに映し出している。
『チェイスシーンすげえ』
『JUN様走るの速くなったなw』
『一人で追うの勇気あるな』
「ナオミ、もう一人はどうした!?」
『今、別の連中からタレコミがあった! センター街を抜けて、シブチカに降りたみたい! B3出口よ!』
「地下か。……特定班、SNSでシブチカの目撃情報を拾え!」
『Twitterで「シブチカで外人が猛ダッシュしてて怖かった」って写真付きツイート発見! 1分前!』
『写真の背景、半蔵門線の改札付近だ!』
私は瞬時に渋谷駅の地下構造の図面をモニターに展開した。
地下鉄の改札付近。そこから地上に出るルートは限られている。
「純! ターゲットは分散した。スペイン坂の2人は後回しだ、地下に潜った1人を確実に仕留めるぞ。……スクランブル交差点から地下へ降りろ! 奴はA8出口から地上へ逃げようとしている!」
『了解! どいてくださーい! 通りまーす!』
純のダッシュが、渋谷のスクランブル交差点の雑踏を切り裂く。
月子ほどの圧倒的なスピードはないが、ハイテクスニーカーを履いた彼女の足取りは決して遅くはない。
A8出口の階段。
純が階段を駆け下りていくと、ちょうど下から、息を切らして駆け上がってくる黒ずくめの男と鉢合わせた。
「ビンゴよ!!」
「なっ……!?」
男が驚愕して立ち止まる。
純は階段の段差を利用し、自撮り棒を男の顔面に突きつけた。
「眩しいわよ!」
パシャパシャパシャッ!!
スマホのライトがストロボモードで発光し、男の目を焼く。
「うわっ! 目が……!」
視界を奪われた男が足を踏み外したところへ、純はカバンから取り出した催涙スプレーを浴びせかけた。
「ぐはぁッ!!」
男は階段を数段転げ落ち、顔を押さえて仰向けに倒れ込んだ。
「ハァ、ハァ……どうよ! 私だってやるときはやるのよ!」
純が息を整えながら、倒れた男にカメラを向ける。
『すげえええええ!』
『JUN様の一人勝ちだ!』
『特定班の誘導も完璧だったな』
コメント欄は勝利の歓喜に包まれていた。
現場で月子が制圧した1名と合わせ、これで実行部隊の2名を確保した。逃げた2人も、すでに深美が手配したパトカーの網にかかっている頃だろう。
「……よくやった、純、月子。ナオミと特定班もだ」
私が安堵の息を吐き、コーヒーに手を伸ばそうとした、その時だった。
『……ほう。僕の「手足」を狩るとは、少しはやるようになったな、Q』
倒れた男のポケットから、歪んだ電子音声が響いた。
男が持っていた通信用のトランシーバーからだ。
「……ファントム」
私は画面越しに、その声の主を睨みつけた。
『見事な情報網だ。ストリートのネズミ共と、ネットの野次馬を利用した人海戦術。……実に君らしい、泥臭いやり方だ』
「なんとでも言え。お前の手駒は減ったぞ。もう逃げられない」
『逃げる? 誰がそんなことを言った? ……これは、盤上で駒を削り合うゲームだ。実行部隊の数人など、最初から「捨て駒」に過ぎない』
ファントムの声には、微塵の焦りもなかった。
むしろ、この状況を楽しんでいるような、不気味な余裕があった。
『君は今、自分のチームの連携に酔いしれているだろう。だが、忘れるな。……君が「外」に目を向けている間、「内」は無防備になるということを』
「……何?」
私は眉をひそめた。
内が無防備になる?
『パンドラの箱は、必ず僕が手に入れる。……近いうちに、また最高のゲームをしようじゃないか。震えて眠れ、安楽椅子探偵』
プツンッ、と通信が途絶えた。
「……負け惜しみを」
純がスマホ越しに吐き捨てる。
「いや……」
私は嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。
ファントムの言葉。
「内が無防備になる」。
まさか。
私は即座に、自分のマンションのセキュリティシステムと、部屋の各所に仕掛けたネットワーク監視ツールのログを確認した。
異常はない。誰も侵入していないし、PMCの警備も突破されていない。ハッキングの痕跡もない。
では、奴は何を意味していたのか。
「……クゥン」
足元で、チャイが私を見上げていた。
空になった犬用の皿を鼻先で押し、「もうないの?」と聞いてくるような無垢な瞳。
私は震える手で、その小さな体を抱き上げた。
「……帰ってこい、純、月子。嫌な予感がする。……僕たちの『内側』で、何かが起きているのかもしれない」
渋谷の夜を駆け抜けたチェイスは、私たちの勝利で終わったはずだった。
だが、過去の亡霊が残した不吉な宣告は、私の安息の地に、見えない影を落とし始めていた。
冷めてしまった極上のハンバーガーと、氷の溶けたクラフトコーラ。
それを味わう気力は、今の私にはもう残っていなかった。




