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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第30話 異国の魔術、科学のメス

 午前8時。

 長かった夜が明け、私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、白々とした朝の光が差し込んでいた。


 江東区の地下倉庫での「リアル脱出ゲーム」を力技で突破し、私のハッカー時代の相棒であるシエラは無事に救出された。彼は今、セシリアが手配した安全なセーフハウスで、ソフィアの治療と監視の元に置かれている。

 事後処理を押し付けられた深美は怒り狂いながら警視庁へ戻っていったが、純と月子は疲労困憊で帰宅する気力もなく、私のマンションのゲストルームのベッドで泥のように眠っている。そしてリビングのソファでは、徹夜でオカルトサイトの翻訳を手伝ってくれたエレナが丸くなり、スヤスヤと寝息を立てていた。


 私もPCの前で仮眠を取ろうと、背もたれに深く体重を預けた。

 その時だった。


「……クゥゥン」


 足元から、甘えるような鼻鳴らしが聞こえた。

 見下ろすと、生後3ヶ月の柴犬、チャイが私を見上げていた。

 チャイはトコトコと近づいてくると、私のズボンの裾を小さな口で軽く咥えてクイクイと引っ張った。私が手を伸ばすと、彼は耳を後ろにペタンと倒す「飛行機耳」になり、そのまま私の足の甲にコテンと倒れ込んで、無防備なピンク色のお腹を見せつけてきたのだ。


「……おはよう、チャイ。お前も起きたのか」


 私がその柔らかなお腹を優しく撫でてやると、チャイは目を細め、喉の奥でゴロゴロと幸せそうな音を鳴らしながら、私の指先をペロペロと舐めた。

 徹夜でハッキングと指揮を続け、殺伐としていた私の思考。それが、この新しくも愛らしいアプローチと温かい体温を感じることで、ゆっくりと「日常」へと引き戻されていく。

 本当に、恐ろしいほどの癒やし能力を持った生き物だ。


 しかし、私の短い平穏は、けたたましい電子音によって打ち破られた。


 ――ピリリリリリッ!


 サブモニターのビデオ通話が、緊急の着信を告げていた。

 発信元は、シエラを治療しているセーフハウスのソフィアからだ。


「……嫌な予感がする」


 私はチャイを抱きかかえたまま、通話ボタンを押した。


『ヤス! 金子、起きてる!? 大変よ!』


 画面に映し出されたソフィア・アンゲロプロスは、いつもの余裕のある微笑みではなく、焦燥に満ちた顔をしていた。背景には、ベッドで苦しそうに身悶えするシエラの姿がある。


「どうした、ソフィア。VXガス系の神経毒は、PMCの部隊が装置を破壊したから吸い込んでいないはずだろう?」


『ええ、ガスは吸っていないわ! でも、別の毒よ! 彼、さっきから異常な頻脈と、強烈な幻覚症状を起こしているの!』


 ソフィアがカメラをシエラの腕に向けた。

 そこには、静脈に沿うようにして、不気味な「紫色の幾何学模様の斑点」が浮かび上がっていた。まるで、毒々しいタトゥーか、何らかの呪いの印のようだ。


『ひぃぃっ……! 壁から、無数の手が……! 俺を、引きずり込もうと……!』


 シエラが虚空を掴みながら、うわ言を叫んでいる。


「遅効性の毒……。いや、待てよ。ファントムのゲームのルールでは、パスワードさえ言えば助かるはずだった。もし事前に致死性の毒を仕込んでいたのなら、ゲームの前提が崩れる。奴の美学に反するはずだ」


『皮膚から吸収されるタイプのペースト状の毒物が、彼の衣服の裏に塗られていたみたい! 洗浄したけど遅かったわ。……これ、ただの化学兵器じゃない。症状が複雑すぎる!』


 ソフィアがタブレットでバイタルデータを睨みながら叫ぶ。


「アホイ! ……ちょっとトオル、その画面の模様、見せてちょうだい!」


 私の背後で、騒ぎを聞きつけたエレナ・ヴァルゴヴァが、目をこすりながらソファから身を乗り出してきた。

 彼女は画面に映るシエラの腕の斑点と、彼が幻覚に怯える様子を見て、青い瞳を鋭く細めた。


「……間違いないわ。これ、スロバキアや東欧の古い伝承にある『ヴルダラクの接吻』よ」


「ヴルダラクの接吻? 吸血鬼だと?」


 私は眉をひそめた。オカルトの話をしている場合ではない。


「ただの伝承の名前よ!」


 エレナは私の横に立ち、モニターのソフィアに向かって早口で言った。


「中世の東欧で、政敵を暗殺したり、人を狂気に陥れて社会的に抹殺したりする時に『魔女』が使っていた毒のレシピよ! 皮膚に塗ると紫色の斑点が浮かび上がり、強烈な幻覚を見せて、最後は心不全で死ぬの!」


「……なるほど。ファントムの別働隊が、シエラを拉致する際に抵抗を封じるための『麻酔』や『自白剤』代わりにこの魔女の軟膏を使ったんだな。その残留成分が、今になって遅効性の深刻な症状を引き起こしたというわけか」


『魔女の毒ですって? 興味深いわね。……でもエレナ、私は医者よ。オカルトじゃこの人は救えないわ。その「毒」の具体的な成分は分かる!?』


 ソフィアがプロの顔で問い返す。


「ええ、古い民俗学の文献で読んだことがあるわ。主成分はナス科の植物。特に『ベラドンナ』と『マンドレイク』の根。それに、ある種の幻覚キノコを混ぜ合わせて、動物の脂で煮詰めて軟膏にするのよ!」


『ベラドンナとマンドレイク……! なるほど、点と点が繋がったわ!』


 ソフィアの表情が、天才科学者のそれに変わった。


『ナス科植物に含まれる「アトロピン」や「スコポラミン」などのトロパンアルカロイドね! 強力な抗コリン作用による頻脈、口の渇き、そして中枢神経への作用による強烈な幻覚! 紫色の斑点は、毒素に対する毛細血管の異常拡張と微小出血だわ!』


「……つまり、実行犯は古代の『魔女の軟膏』を、現代の化学技術で再現してシエラに塗ったということか」


『ええ! おそらく、皮膚からの吸収率を極限まで高めるために、DMSOジメチルスルホキシドのような強力な浸透性溶剤を混ぜているはずよ!』


 ソフィアが早口で分析結果を弾き出す。

 オカルトと民俗学の知識がヒントを与え、現代医学と化学の知識がそれを解剖し、正体を暴き出したのだ。

 異国の魔術と、科学のメス。

 二人の知識が見事に融合した瞬間だった。


『でも金子、問題があるわ!』


 ソフィアが悔しそうに声を上げる。


『毒の成分は分かったけど、拮抗薬の「フィゾスチグミン」を投与するには、相手が使った毒の「正確な配合比率」が分からないと危険すぎる! 投与量を間違えれば、逆に心停止を引き起こすわ!』


「……配合比率、か」


 私はチャイをそっと床に下ろし、キーボードに両手を乗せた。

 私の得意分野だ。


「純! 起きろ! 仕事の時間だ!」


 私はゲストルームのドアを叩き、純を叩き起こした。

 数分後、目をこすりながら起きてきた純の裏チャンネルが稼働し、朝の通勤・通学時間帯にもかかわらず、通知を受け取った数千人の精鋭リスナーたちが集結した。


『朝から何事!?』

『Qからの緊急招集だ!』

『仕事休むわ』


「特定班、よく聞け! 人命がかかっている!」


 私はマイクに向かって状況を手短に説明した。


「ターゲットは、ファントムに雇われた実行部隊だ。過去1ヶ月以内、表のSNSや海外の園芸・植物愛好家のフォーラムで、日本宛に『ベラドンナ』や『マンドレイク』などの危険なナス科植物を大量発送した、あるいは自慢している業者の書き込みを探せ! 仮想通貨のアドレスなど、何でもいいから手がかりを見つけるんだ!」


『了解!』

『公開情報なら任せろ!』

『海外の園芸マニアの掲示板、片っ端から翻訳かけてスクレイピングする』


 数千人の「目」が、一斉に表のインターネットの海へと潜っていく。

 そして、わずか数分後。彼らの圧倒的な人海戦術が実を結んだ。


『Q! 東欧の非合法なボタニカルフォーラムで、自称「錬金術師」のバイヤーが「極東のVIPから大量注文が入った」って自慢してる書き込みを発見!』

『そいつのプロフィール欄に、寄付用のビットコインアドレスが載ってる! スクショ貼るわ!』


「……素晴らしい。ここから先は僕の領域だ」


 私は特定班が見つけたビットコインアドレスを起点に、Torネットワークの深層へとダイブした。

 ミキシングサービスで複雑化された取引履歴を、私の自作アルゴリズムで強制的に紐解いていく。


「……見つけたぞ。10日前のトランザクションだ。このバイヤーから『B-エキス500ml』『M-ルート200g』が購入されている。さらに、別のケミカルサイトの履歴も抜いた。『高純度DMSO 1リットル』だ」


 私はその数値を画面に表示させた。


「エレナ。この分量から、奴が作った軟膏の『配合比率』を割り出せるか?」


「ええ、任せて! スロバキアの魔女の数学を見せてあげるわ!」


 エレナはホワイトボードマーカーを手に取り、ガラス窓に直接数式と古代の単位を書き込み始めた。

 彼女の頭脳には、無数の言語と歴史的文献のデータが詰まっている。


「……できたわ! ベラドンナのアルカロイド濃度を標準値とした場合、この軟膏のトロパンアルカロイドの含有比率は、全体の約4.2%よ!」


「聞いたな、ソフィア!」


 私が叫ぶ。


『完璧よ! その比率なら、血中濃度から逆算して、最適な拮抗薬の投与量が導き出せるわ!』


 ソフィアは即座に医療キットからアンプルを取り出し、注射器に正確な量の薬液を吸い上げた。


『シエラ、少しチクッとするわよ。……神々の加護があらんことを!』


 ソフィアが、シエラの静脈に解毒剤をゆっくりと注入する。

 数秒の、永遠にも似た沈黙。


 やがて。


『……はぁっ……はぁっ……』


 シエラの異常に早かった呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。


『幻覚が……消えた……。壁の手が……なくなった……』


 虚空を彷徨っていたシエラの瞳に、理性の光が戻る。

 モニター上のバイタルデータも、危険水域を脱し、正常値へと向かって緩やかに下降していた。


『……ふぅ。峠は越えたわ。もう大丈夫よ、金子』


 ソフィアが額の汗を拭い、カメラに向かって微笑んだ。


「……よくやった、ソフィア。エレナもだ」


 私は深く、深く息を吐き出し、キーボードから手を離した。


「当然よ! 私のオカルト知識が役に立ったでしょ?」


 エレナが胸を張り、ドヤ顔をする。


「ええ、エレナの文献知識がなければ、毒の特定が間に合わず、手遅れになっていたかもしれないわ。素晴らしい連携だったわね!」


 ソフィアも画面越しに賛辞を送る。


 ファントムの実行部隊が使った、オカルトめいた未知の恐怖。

 だが、どんな魔術も呪いも、知識と論理で解体してしまえば、ただの化学反応に過ぎない。

 私たちは、また一つ、過去の亡霊の牙をへし折ったのだ。


★★★★★★★★★★★


 午前10時。

 完全に危機が去り、緊張の糸が切れたリビング。

 徹夜明けの胃袋は、脂っこいものや刺激物を拒否していた。


「……よし。極上の朝食にしよう」


 私はキッチンに立ち、昨夜のうちに仕込んでおいた干し貝柱と昆布の出汁を火にかけた。

 そこに、炊いた白米を入れ、米粒が花開くまで弱火でじっくりと煮込む。


 『特製・中華粥』だ。


 トッピングには、細切りにした生姜、茹でた鶏のササミ、パクチー、そして少量の良質なごま油を垂らす。


「ほら、エレナ。純と月子も呼んで来い。胃袋を温めるぞ」


「わぁ……いい匂い! スパイスじゃないトオルの料理も最高ね!」


 エレナが嬉しそうにどんぶりを受け取る。

 そこに、再び寝室で仮眠を取っていた純と月子が、いい匂いに釣られて起きてきた。


「んん〜……なんかお腹に優しそうな匂いがする……」

「店長、私どんぶり三杯いけます!」


 女たちがズズッと粥をすする音が、平和なリビングに響く。

 貝柱の深い旨味と、生姜の香りが、徹夜で疲弊した体に染み渡っていく。


「ワフッ!」


 足元では、チャイが「僕のご飯はまだ?」と急かしてくる。

 私はチャイのために、味付けなしのササミとヤギミルクを用意してやった。チャイは一心不乱にそれを平らげている。


 ファントムとの戦いは、まだ終わっていない。

 奴は必ず、また「パンドラの箱」を狙って仕掛けてくるだろう。

 だが、恐怖はない。

 私の最強の頭脳と、特定班の目、そしてこの騒がしくも頼もしい仲間たちがいれば、どんな謎も呪いも解き明かしてみせる。


 私は熱いプーアル茶を啜りながら、膝に乗ってきたチャイの柔らかな背中を撫でた。

 戦いの前の、静かで温かい朝餐は、ゆっくりと進んでいった。



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