第29話 法律の抜け穴、正義の壁
午前4時50分。
私の安息の地であるマンションの最上階リビング。
デュアルモニターの一つに表示された赤いタイマーは、無情にも『10:00』を切り、一秒ごとにその数字を減らしている。
背後では、セシリア、ナオミ、ソフィア、エレナの四人が、固唾を飲んで画面の向こう側の攻防を見守っていた。
私の指はキーボードの上で硬直し、無意識のうちに貧乏ゆすりをしていた。極度の緊張と焦燥。ハッカーとしての私の武器である「冷静な思考」が、刻一刻と迫るタイムリミットによって削り取られていく。
「……スピー」
ふと、足元から微かな音がした。
見下ろすと、生後3ヶ月の柴犬、チャイが私の脱ぎ捨てたスリッパを顎枕にして、完全に野生を失った姿で爆睡していた。
私の貧乏ゆすりの振動すら、心地よい揺りかごだと思っているらしい。時折「ムニャ」と口を動かす呑気な寝顔が、この狂った状況との奇妙なコントラストを生み出している。
「……全く、大物だな」
この小さな毛玉の無防備さに、私の熱くなりすぎた脳が少しだけ冷やされた。
「……よし。思考クリア」
私は貧乏ゆすりを止め、インカムのスイッチを強く押し込んだ。
「純、月子、深美! 聞こえるか! 残り時間は9分だ。奥の扉はどうなっている!?」
『着いたわ! ……でも、これ……っ!』
純の切羽詰まった声と共に、月子のカメラが目の前の光景を映し出す。
江東区の地下物流倉庫、その最奥部。
そこには、銀行の金庫室に使われるような、分厚いチタン合金の扉が鎮座していた。
扉の横には、高度な静脈認証と虹彩認証のパネル。
そして何より絶望的なのは、扉の一部が防弾ガラスになっており、中の様子が見えることだった。
『シエラ……!』
深美がガラスに張り付いて叫ぶ。
部屋の中央の椅子に、手足を拘束されたパーカー姿の男がぐったりと気を失っていた。私の相棒、シエラだ。肩のあたりから血が滲んでいる。
そして彼の足元には、無骨な金属製のシリンダーと、それに接続されたタイマー。シリンダーのバルブは、今にも開きそうだ。
『ようこそ、最後の部屋へ』
頭上のスピーカーから、ファントムの歪んだ声が響き渡った。
『さあ、Q。パンドラの箱のパスワードを言え。あと8分で、そのシリンダーからVXガスベースの特製神経ガスが散布される。……中に入れられたネズミは当然死ぬし、ガラスの前にいるお前の可愛い助手たちも、ただでは済まないぞ。この部屋の気密性は、そこまで高くないからな』
「……卑劣な」
私は即座にキーボードを叩き、扉の電子ロックへのハッキングを試みる。
だが。
「……ダメだ。完全に物理的に切断されている。外部からのネットワーク侵入は不可能だ」
『Qちゃん、どうするの!? 私、パスワードなんて知らないわよ!』
純が半狂乱になって叫ぶ。
『月子ちゃん、その扉、木刀でどうにかなる!?』
通信越しにナオミが聞く。
『無理です! トラックが突っ込んでも凹まないレベルの装甲です!』
月子が悔しそうに扉を叩く。
「……私が、警視庁の特殊急襲部隊と爆発物処理班を呼ぶ」
深美が、自身のスマートフォンを取り出しながら言った。
「このレベルの扉なら、指向性爆薬で蝶番ごと吹き飛ばせるはずだ。……今すぐヘリで向かわせる!」
「原田刑事、計算が合わないわ!」
画面の向こうから、ソフィアが叫んだ。
彼女は手元の医療データとタイマーを睨みつけている。
「警視庁からどんなに急いでヘリを飛ばしても、現場上空への到着、ラペリング降下、そして地下への突入と爆薬のセッティング……どう考えても最短で15分はかかる! ガス散布まであと7分しかないのよ! 間に合わない!」
「……っ! だからといって、他に方法が……!」
深美の顔に、絶望の色が浮かぶ。
警察の組織力は強大だが、その「初動の遅さ」という致命的な弱点が、今この極限状態において牙を剥いていた。
「金子! お前なら……お前ならパスワードを知っているんだろう! 言え! 人命には代えられない!」
深美がインカム越しに私に怒鳴る。
私は唇を噛み締めた。
「……言えない」
「なぜだ!!」
「あの『パンドラの箱』には、世界中のインフラを乗っ取れるゼロデイ脆弱性のリストと、国家機密レベルのバックドアの鍵が詰まっている。……ファントムに渡せば、数十万、数百万の命が脅かされることになる」
「……っ!」
一人の命か。
見知らぬ数十万の命か。
トロッコ問題の最悪なバリエーション。ファントムは、私のこの思考の泥沼化まで計算して、このゲームを仕掛けていたのだ。
『ハハハハ! 悩め、Q! お前のその崇高な「正義」とやらが、仲間を殺すんだ!』
ファントムの嘲笑が響く。
残り、5分。
万策尽きた。そう思われた、その時だった。
「……警察のお遊戯に付き合っている暇はないわね」
私の背後で、冷ややかで、しかし絶対的な自信に満ちた声がした。
セシリア・クロス。
彼女は手元のタブレットで何かの座標を確認すると、耳につけた小型のBluetoothマイクに向かって、流暢な英語で指示を出した。
「アルファ・チーム。Go」
――ズズンッ!!
画面の向こう、純たちがいる地下倉庫全体が、局地的な地震でも起きたかのように激しく揺れた。
『きゃあああ!?』
『な、何!?』
純と月子が床に倒れ込む。
深美が咄嗟に二人を庇うように覆いかぶさった。
「な、なんだ!? 爆発か!?」深美が叫ぶ。
「ええ。1階の床――つまり地下室の天井を、指向性爆薬で吹き飛ばしたのよ」
セシリアが、まるで紅茶のおかわりを頼むような優雅な口調で言った。
「な……!?」
深美が言葉を失う。
画面の中で、チタン製の扉の向こう――シエラが捕らわれている部屋の「天井」が、突如としてドゴォォォン!という轟音と共に崩れ落ちた。
もうもうと舞い上がる粉塵の中、天井に開いた大穴から、真っ黒なタクティカルギアに身を包み、アサルトライフルを構えた数人の男たちが、ロープを使って1階部分から降下してきた。
『Clear!(クリア!)』
『Target secured!(ターゲット確保!)』
男たちは電光石火の早業でシエラの拘束を解き、彼を抱え上げる。
さらに別の一人が、ガス散布装置のタイマーの基盤に、何らかの液体窒素のようなものを吹き付け、物理的に凍結・破壊した。
タイマーが『02:14』で完全に停止する。
『……な、何者だ貴様ら!? どこから侵入した!?』
ファントムの狂ったような声がスピーカーから響くが、男たちは一切無視し、シエラにワイヤーを括り付けて、引き上げる合図を出した。
「……セシリア、あれは」
私も驚愕で目を見開いた。
「私の事務所が『危機管理契約』を結んでいる、海外の民間軍事会社のオペレーターよ。元SASやNavy SEALsの精鋭たち。……昨夜、金子さんのマンションが襲撃された時点で、嫌な予感がして彼らを都内の拠点に待機させておいたの。あなたたちがこの江東区の倉庫に向かったと同時に、ヘリで屋上へ降下させ、1階から突入させたのよ」
「ヘリだと……!? なぜローター音に気づかなかった!?」
「この地下倉庫、外の音を完全に遮断する防音構造になっているでしょう? ファントムが仕掛けた分厚いチタンシャッターの密閉性が、逆に彼らの頭上からの奇襲を隠してくれたのよ」
「ここは日本だぞ!?」
インカム越しに、深美が激怒した。
「民間人が重火器や爆発物を持って国内で軍事作戦を行うなど、銃刀法違反、爆発物取締罰則違反、テロ特措法違反……数え切れないほどの重罪だ!! セシリア・クロス、お前、自分が何をしたか分かっているのか!?」
深美の怒号はもっともだ。
警察官である彼女の目の前で、完全に違法な武装集団が、違法な手段で事態を解決してしまったのだ。法の番人としての彼女の存在意義を根底から覆す行為である。
だが、セシリアはふわりと絹糸のようなブロンドをかき上げ、冷たいブルーの瞳で深美を見据えた。
「原田刑事。あなたのその『陳腐な正義』と『法律』は、あと2分で失われるはずだった命を救えたの?」
「……っ!」
「法は、人間を守るためのツールに過ぎないわ。ツールが機能しないなら、別のツールを使う。それが私のやり方よ」
「だからといって、法を犯していい理由にはならない!!」
「法的な責任なら、全て私が被るわ」
セシリアは断言した。
「彼らの使用した機材は全て『工事用の工業機材』として偽装申告済み。突入は『遭難者の緊急救助』を目的とした緊急避難的措置として、私が後で完璧な法的根拠をでっち上げてあげる。……あなたたち警察の初動の遅さを棚に上げて、私を起訴できるかしら?」
「貴様ぁ……ッ!!」
深美がギリッと血が出るほど唇を噛み締め、腰の手錠に手を伸ばす。
警察官としての彼女の矜持が、無法者たちを許すなと叫んでいる。
「……やめろ、深美」
私は静かに介入した。
「今回は、セシリアの『裏技』に救われた。……シエラは助かり、お前たちも無事だ。結果が全てだ」
「……金子、お前まで」
「法律の抜け穴を突くのは、ハッカーも弁護士も同じだ。……そして、その泥を被る覚悟が彼女にあるなら、僕は彼女のやり方を支持する」
私の言葉に、深美は荒い息を吐きながら、手錠を握りしめた拳をワナワナと震わせた。
決して納得はしていない。彼女の強固な正義感が、こんな暴挙を許すはずがない。
だが、崩れた天井から無事に引き上げられていくシエラの姿を見上げた時、彼女の拳の力が、わずかに緩んだ。
「……お前たちは、本当に最悪の犯罪者集団だ」
深美は怒りに満ちた声で吐き捨てた。
「この一件、警察として絶対に握りつぶしはしない。後でたっぷりと調書を取ってやる。……だが」
彼女はそれ以上は言葉を続けず、ただ、助け出された命を見て、小さく、本当に小さく息を吐き出した。
警察官としてのプライドと、人間としての安堵。その間で激しく葛藤する彼女の横顔は、誰よりも気高く見えた。
『……チッ! 狂っている! お前ら全員、狂っているぞ!!』
計画を完全にぶち壊されたファントムが、スピーカー越しに絶叫する。
「お前にだけは言われたくないな、ファントム」
私は冷ややかに言い放った。
「パンドラの箱は渡さない。……次は、僕がお前をハントする番だ。震えて眠れ」
私は手元のキーボードを叩き、ファントムが仕掛けていた地下倉庫のローカルネットワークに、逆に致死量のマルウェアを流し込んだ。
スピーカーから鼓膜を破るようなノイズが鳴り響き、通信は完全に遮断された。
ゲームセットだ。
私たちは、過去の亡霊が仕掛けた悪意の迷宮を、法律と常識の壁を暴力的にぶち壊すことで突破したのだ。
「……ふぅ。これで私の顧問料、また跳ね上がるわよ、Q」
セシリアがタブレットを閉じながら微笑む。
「……もう、スパチャの全額を持っていってくれ。鴨肉は自腹で買う」
私は安楽椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
足元では、チャイがまだスリッパを抱きしめてスヤスヤと眠っている。
法の正義と、仲間の命。
どちらが重いかなど、彼らにとっては、この安らかな寝息を守ることに比べれば些末な問題だった。




