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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第27話 過去の亡霊

 午前4時。

 私の安息の地であるマンションの最上階リビングには、八角とシナモンの甘くエキゾチックな香りが漂っていた。


「……スープの透明度、完璧だ」


 私は大型の電気圧力鍋のフタを開け、静かに息を吐いた。

 昨夜の21時、タナトスによるマンションのロックダウンという絶体絶命の危機を脱して以来、私は一睡もせずに防衛システムの再構築と、奴らのハッキング経路の逆探知を続けていた。

 これから始まる底知れない悪意との「戦争」。そのために、私の脳と、集結した7人の女たちの肉体に、極限まで効率よくエネルギーを補給しなければならない。このスープは、サイバー戦の傍ら、自動調理で深夜から一晩かけて煮込んでおいたものだ。


 本日の早すぎる朝食は、ベトナムの国民的麺料理『フォー・ボー』。

 牛骨と牛すじ肉を下茹でし、直火で表面を黒焦げになるまで炙った玉ねぎと生姜を放り込み、シナモンスティック、クローブ、コリアンダーシードなどのスパイスを加えて圧力をかけ、奥深い香りを引き出した極上のスープ。

 ぬるま湯で戻した平打ちの米粉麺を器に盛り、生の牛もも肉の薄切りを乗せる。その上から熱々の黄金色のスープをたっぷりと注ぎ込むと、牛肉にふわりと熱が入り、美しい桜色へと変わっていく。

 たっぷりのパクチー、ミント、そしてライムを添えて完成だ。


 そして、この熱くスパイシーな麺料理に合わせるペアリングは、冷たいベトナムコーヒー……ではない。


 『特製チョコレートミルクセーキ』だ。


 フランス産の高級クーベルチュールチョコレートを湯煎で溶かし、マダガスカル産バニラビーンズをふんだんに使ったアイスクリーム、冷たいミルクと一緒にブレンダーで滑らかになるまで攪拌する。

 カカオの濃厚なコクと、脳天を突き抜けるような冷たい甘さ。徹夜の作業で枯渇した脳のブドウ糖を急速チャージし、フォーのスパイスで火照った口内を冷却する至高の組み合わせだ。


「さあ、腹が減っては戦はできぬ。食え」


 私がダイニングテーブルに8人分のフォーとミルクセーキを並べると、疲労困憊だった女たちの顔にパッと生気が戻った。


「うわぁっ! なにこれ、めちゃくちゃいい匂い!」


 岡本純が目を輝かせて箸を取る。


「店長、いただきます! ズズッ……んんんーっ! スープの旨味が深すぎます!」


 中野月子は、すでに二口目で麺の半分を吸い込んでいた。


「このミルクセーキ、脳への糖分供給には最適ね。……でもカロリーが恐ろしいわ」


 白衣姿のソフィア・アンゲロプロスが、ストローを咥えながら妖しく微笑む。


「……こんな緊迫した状況でも、完璧な食事を用意するとはな」


 原田深美は呆れたように言いながらも、プラチナブロンドの髪を後ろで束ね、しっかりとフォーを啜っている。


「極限状態でも優雅さを忘れないのは、英国の流儀にも通じるわね。……美味しいわ」


 セシリア・クロスがミルクセーキのグラスを傾け、隣でナオミ・セント・ジェームズが「このスパイスの効かせ方、マジでドープよQ!」と親指を立てる。


「トオル、私パクチー大盛りでお願いね!」


 エレナ・ヴァルゴヴァが、私の背中に豊満な胸を押し付けながら追加を要求してくる。


 足元では、チャイが「僕にも!」と短い尻尾を振っていたが、玉ねぎのエキスが溶け込んだスープは犬には猛毒だ。私はチャイに無添加のヤギミルクを与え、自らもフォーを口に運んだ。


 温かいスープが胃に染み渡り、強張っていた神経がほぐれていくのを感じる。

 だが、その平穏な食事風景は、突如として鳴り響いた「不協和音」によって破られた。


 ――ビィィィィン!!


 金庫の中に隔離してある、緊急用のオフライン端末から、甲高いアラート音が鳴ったのだ。

 私は箸を置き、瞬時に探偵の顔へと戻った。


「……全員、食事は中断だ。来やがったぞ」


 私は金庫から分厚いノートPCを取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。

 画面には、ノイズ混じりの映像が映し出されている。

 そこに現れたのは、真っ白な「能面」のような仮面を被った、黒衣の人物だった。


『……ハロー、Q。久しぶりだな』


 ボイスチェンジャーで低く歪められた声。

 だが、その独特のイントネーションと、言葉の端々に混じる冷笑的な響きに、私は強烈な既視感を覚えた。


「……お前は。5年前、僕が追い詰め、国際手配の末に獄中で病死したはずの……」


『ご名答。……地獄の底から這い上がってきた亡霊さ』


 ファントム。

 かつて私が壊滅させたサイバー犯罪組織「タナトス」の最高幹部の一人。天才的な暗号化技術と、人を心理的に追い詰めるトラップの構築を得意としていた男だ。

 死んだという報道は、組織の残党が仕組んだ偽装工作だったのか。


「……シエラはどうした」


 私は、私にSOSを送ってきたハッカー仲間の安否を問うた。


『ああ、あのネズミか。安心しろ、まだ息はある。……だが、彼が仕掛けたプロテクトを突破するのに少し手間取ってね。彼から奪ったこの端末を使って、お前に直接アクセスさせてもらった』


 仮面の奥の瞳が、画面越しに私を射抜く。


『単刀直入に言おう。お前が5年前に我々のメインサーバーから盗み出したデータ……「パンドラの箱」を返せ。あれは我々タナトスの新たな世界の礎となるものだ』


「断る。あれの中身が何であれ、お前たちのような犯罪者に渡すつもりはない」


『強気だな。お前は昔から、自分の頭脳を過信しすぎている』


 ファントムが画面の向こうでキーボードを叩く。

 ノートPCの画面が切り替わり、どこかの薄暗い建物の内部図面が表示された。


『江東区にある、閉鎖された巨大な地下物流倉庫だ。……そこに、お前の大事な友人であるシエラを「少しばかり複雑な装置」と共に閉じ込めた』


「装置だと……?」


『簡単に言えば、致死性の神経ガスを散布する時限装置だ。制限時間は60分。……お前が直接ここへ来てパンドラの箱のパスワードを入力すれば、ガスは止まり、友人は助かる。どうだ? シンプルな「リアル脱出ゲーム」だろう?』


「……卑劣な真似を」


 深美が怒りに声を震わせる。


『警察の介入は無駄だ。この倉庫は既に我々が物理的にハッキングし、全扉をチタン製のシャッターで封鎖している。強行突破しようとすれば、即座にガスが散布される仕組みだ』


 ファントムの仮面が、歪んで笑ったように見えた。


『さあ、Q。お前の引きこもりの殻を破り、外の世界へ出てくる時が来たぞ。友人の命を救いたければな。……Tick Tock。時間は過ぎていくぞ』


 プツンッ、と通信が切れた。

 画面には、非情にも「60:00」からカウントダウンを始める赤いタイマーだけが残された。時刻は午前4時2分。


「……行くしかないわね」


 沈黙を破ったのは、純だった。

 彼女はいつもの派手なファーコートを羽織り、決意の目で私を見た。


「Qちゃん、あんたはここから動かないんでしょ? だったら、私たちが代わりに行ってあげるわよ。あんたの友達を助けにね」


「……純。相手は本物のテロリストだ。遊びじゃない」


「分かってるわよ! でも、私たちだって伊達に修羅場をくぐり抜けてきたわけじゃないわ! ね、ツッキー!」


「はいっ! 物理的な障害なら、私が全部ぶっ壊して進みます!」


 月子が木刀を背中に背負い、力強く頷く。


「……私も行く。江東区なら私の管轄内だ。非番だろうが関係ない。目の前の命を見捨てるわけにはいかない」


 深美が腰のホルスターの感触を確かめながら立ち上がった。


「セシリア、ナオミ、エレナ、ソフィア。君たちはここに残れ。僕のバックアップと、いざという時の各方面への根回しが必要だ」


「任せてちょうだい。警察上層部への圧力は私がかけておくわ」


 セシリアがスマートフォンを手に取る。


「私は通信の暗号化と、現場の環境音の解析を担当するわ」


 ナオミが持参した機材のセッティングを始める。


「私は……チャイちゃんのお守りをしているわね。いつでもスロバキアの呪術で犯人を呪い殺せるようにしておくわ」


 エレナがチャイを抱き寄せる。


「ガスの成分が分かったらすぐに教えて。解毒剤の調合レシピを指示するわ」


 ソフィアが医療キットを開く。


 私は、頼もしすぎる女たちの顔を見回し、深く息を吐いた。


「……月子、ロケバスを出せ。江東区の廃倉庫まで、法定速度の限界で飛ばせ」


 制限時間は、残り55分。

 過去の亡霊が仕掛けた悪意に満ちたリアル脱出ゲームが、今、幕を開けた。


 午前4時25分。

 江東区の湾岸エリアに位置する、巨大なコンクリートの塊。旧・湾岸地下物流倉庫。

 純、月子、深美の三人は、早朝の空いている道路と月子の卓越したドライビングテクニックにより、予想を上回る早さで現場に到着していた。


『Qちゃん、着いたわよ。入り口のシャッターは閉まってるけど、横の通用口が少し開いてる』


 インカムから純の声が届く。

 私はデュアルモニターの一つに純のスマホからの映像を、もう一つに倉庫の図面とハッキングツールを展開していた。


「罠だ。だが進むしかない。……純、限定公開で裏配信を立ち上げろ。タイトルは『緊急クエスト:地下迷宮からの脱出』だ」


『了解!』


 こんな早朝にもかかわらず、私がSNSの裏アカウントに投下した「緊急招集アラート」の通知を受け取った数千人の精鋭『特定班』たちが、瞬く間に配信へと集結した。


『こんな朝早くから何事!?』

『タイトル物騒すぎ』

『Qからの緊急要請ならガチだな』


「特定班、よく聞け」


 私はマイクに向かって冷静に語りかけた。


「今回は、悪趣味なハッカーが仕掛けたリアル脱出ゲームだ。時間内に謎を解かなければ、人質が死ぬ。……君たちの知力を総動員してくれ」


『うおおおお燃えてきた』

『任せろ』

『謎解きなら徹夜組の俺らに任せろ』


 画面の向こうの精鋭たちのボルテージが一気に上がる。

 現場の三人が通用口をくぐり、薄暗い地下通路へと足を踏み入れた。


『……真っ暗だな。カビの匂いがする』


 深美が懐中電灯で周囲を照らす。


 数十メートル進むと、巨大な鉄格子の扉に行く手を阻まれた。

 扉の横には、不自然に真新しい電子キーパッドが取り付けられている。そして、その上の壁には、スプレーペンキで奇妙な図形が描かれていた。


「……ファントムの野郎、本当に脱出ゲームのつもりか」


 私は舌打ちをした。

 壁に描かれているのは、丸や十字、点を組み合わせた記号の羅列だ。


『Qちゃん、これ何!? 暗号!?』


「ああ。フリーメイソン暗号、別名『ピッグペン暗号』だ。アルファベットを幾何学的な枠に当てはめて変換する古典的な暗号だが……特定班、解読できるか?」


 私の指示からわずか10秒。


『解けた。「T R U T H(真実)」だ』

『ピッグペン暗号の基本法則通りに変換すればすぐに出る』

『キーパッドのアルファベットに対応してるはずだ』


「純、キーパッドに『T R U T H』と打ち込め!」


『わ、わかった! T、R、U、T、H……』


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 ガチャン!


 重々しい音と共に、鉄格子のロックが解除された。


『開いたわ! すっごい、特定班天才!』


『……喜ぶのは早いぞ。こんなのはただの挨拶だ』


 私が警告した通り、鉄格子を抜けた先の空間は、さらに異様な様相を呈していた。

 広大な地下倉庫のフロアには、無数の「廃車」が迷路のように積み上げられていたのだ。


『な、何これ……車の墓場?』


 月子がカメラを回しながら呟く。


 その時、倉庫内のスピーカーから、再びファントムの歪んだ声が響き渡った。


『見事だ、特定班とやら。だが、ここからが本番だ。……この車の迷路のどこかに、次のフロアへ進むための「鍵」を隠した。ヒントは「赤い目を持つ鋼鉄の獣」。……さあ、探したまえ』


「赤い目を持つ鋼鉄の獣……?」


 深美が眉をひそめる。


「特定班、画面に映る廃車の中から、該当する特徴を持つものを探せ! テールランプが赤い車か、あるいは……」


 数千人の精鋭たちの「目」が、月子のカメラが映し出す暗闇の迷路を凝視する。

 残り時間は、あと30分。

 チームQとリスナーの知力を結集した、命懸けの探索が始まった。


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