第26話 電脳の迷宮、閉ざされた部屋
そういえば、あの「怪物」が再び目覚めるほんの数日前。
私は、一人の狂気的な女医によって、致死レベルの外出を強制されていた。
『金子! 今日は最高のデート日和ね!』
白衣を脱ぎ捨て、ヴィヴィッドなイエローのドレスに身を包んだソフィア・アンゲロプロスは、上野の科学博物館の特別展『人体解剖の歴史と標本展』の入り口で、目を輝かせていた。
「……なぜ僕が、休日にホルマリン漬けの臓器を見に来なければならないんだ」
『あなたのビタミンD不足と運動不足を解消するための、メディカル・デートよ。ほら見て! あの19世紀の頭蓋骨、大後頭孔の形が芸術的だわ!』
「興味ない。帰っていいか」
『ダメよ。この後は地中海料理のレストランで、オメガ3脂肪酸と良質なタンパク質をたっぷり摂ってもらうんだから。あなたのその明晰な脳細胞を維持するためには、食生活の改善が必須なの!』
彼女は私の腕をがっちりとホールドし、嬉々として人間の骨や臓器の展示を案内して回った。
すれ違うカップルたちが、ソフィアのモデルのような美貌と、彼女が語るエグい解剖学用語のギャップにドン引きしていたのを覚えている。
引きこもりである私にとって、あれは拷問に近い「愛」の形だった。
だが、あの日の青空と、オリーブオイルの香る平和なランチタイムを……今となっては、ひどく愛おしく感じる。
「金子! 着いたわよ!」
現在。
私のマンションの最上階リビング。
使い捨てのガラケーで緊急招集をかけてから約20分。一番早く駆けつけてきたのは、偶然近くの大学病院で当直明けだったソフィアだった。
「ヤス! なんだか物々しい雰囲気じゃない。死体でも出たの?」
彼女はいつも通りの明るい声で玄関から入ってきた。
リビングには、緊迫した表情の私と、青ざめた純、木刀を握りしめる月子、そしてチャイを抱きしめるエレナがいる。
「ソフィア先生……死体は出てないけど、私たち、今から死体になるかもしれないのよ」
純が涙目で訴える。
「あら、それは困るわ。純の解剖はもっと後でじっくりやりたいもの」
ソフィアが冗談めかして言った、その瞬間だった。
――ブツンッ。
部屋の照明が、唐突に落ちた。
代わりに、天井の四隅にある火災報知器の非常灯が、不気味な赤い光を点滅させ始めた。
「きゃっ!?」
純が悲鳴を上げる。
それだけではない。
ガコンッ、ウィィィィィン……!
リビングの広大なパノラマウィンドウの向こう側から、重々しい機械音が響き始めた。
このマンションの最上階にのみ備わっている、要人警護用の防犯チタンシャッターが、自動的に降りてきたのだ。
外の夜景が完全に遮断され、部屋は赤い非常灯の光だけが照らす、完全な「密室」と化した。
「……な、なにこれ!? 窓が塞がれた!」
「店長! 玄関のドアも開きません! 電子ロックが完全に死んでます!」
玄関に走った月子が、ドアノブをガチャガチャと回しながら叫ぶ。
私が物理的にネットワークを切断した直後、いや、その数秒の隙を突いて、奴らは「マンション全体のセントラル制御システム」を乗っ取ったのだ。
私の部屋のローカルネットだけでなく、建物のインフラそのものをハッキングし、この部屋を巨大な檻に変えた。
『――Welcome to your coffin, Q.』
(君の棺桶へようこそ、Q)
壁に埋め込まれたスマートスピーカーから、機械的に歪められた合成音声が響いた。
タナトスだ。
『パンドラの箱のパスワードを教えろ。猶予は与えない。……さもなくば、その部屋で蒸し焼きになれ』
合成音声が途切れると同時、部屋の空調システムが凄まじい轟音を立てて稼働し始めた。
吹き出してくるのは、強烈な「熱風」だった。
「あっつ……! なによこれ、暖房が全開になってる!」
純がファーコートを脱ぎ捨てる。
「奴ら、スマートホーム機能をハックして、この部屋の室温を限界まで上げる気だ。チタンシャッターで密閉されたこの部屋なら、あっという間にサウナ状態になる」
私は額に滲む汗を拭いながら、暗闇の中で重厚なノートパソコンを開いた。
「店長、私がシャッターかドアを木刀でぶっ壊します!」
月子が構えを取るが、私は首を振った。
「やめろ、無駄だ。軍事レベルのチタン合金だぞ、お前の腕が折れる。……それに、無理に物理破壊を試みれば、マンションの防衛システムが作動して、催涙ガスが噴射される設定になっている」
「ええっ!? なんでそんな物騒なマンションに住んでるんですか!」
「……万が一の襲撃に備えて、僕が管理会社をハックして追加しておいた設定だ」
過去の自分のパラノイアが、今になって牙を剥いている。皮肉なものだ。
「ハァッ、ハァッ……」
ソファーの上で、チャイが苦しそうに舌を出し、パンティングを始めていた。
犬は人間よりも暑さに弱い。室温はすでに35度を超えようとしている。
「チャイ! 大丈夫!?」
エレナがチャイを抱き寄せ、持っていたミネラルウォーターを手に取ろうとする。
「待って、エレナ!」
ソフィアが鋭い声で制止した。
彼女は白衣を脱ぎ捨て、ヴィヴィッドなドレス姿のまま、冷静に周囲を見回した。
「急激な体温上昇時に、冷たい水を一気に飲ませると胃痙攣を起こすわ。……月子、そこのキッチンから氷とタオルを持ってきて。純、あなたはなるべく床に近い場所に伏せなさい。熱い空気は上に溜まるわ」
「わ、わかった!」
ソフィアの的確な医学的指示により、パニックになりかけていた女たちが動く。
ソフィアは氷水で濡らしたタオルをチャイの首元と脇の下に当て、動脈を冷やして体温を下げさせた。チャイの呼吸が少しだけ落ち着く。
「……さすがね、ソフィア先生」
エレナが安堵の息を吐く。
「フフッ。極限状態の密室サバイバル。これって、最高の吊り橋効果を狙ったデートのシチュエーションじゃない?」
ソフィアは赤い非常灯の下で、妖艶に微笑んで私を見た。
こんな命の危機に瀕している状況でも、彼女の頭のネジは外れたままだ。だが、その狂気じみた冷静さが、今は恐ろしく頼もしい。
「金子。私のデート相手が熱中症で死んだら承知しないわよ。……あなたの脳細胞は、まだ熱変性を起こしていないわね?」
「……愚問だ。僕は天才ハッカーだぞ」
私は汗で張り付く前髪をかき上げ、ノートPCの画面に全集中を向けた。
外部のネットワークは使えない。
ならば、この部屋の中に張り巡らされた「物理的な配線」から、マンションの制御基盤に逆ハッキングを仕掛けるしかない。
「月子!」
「はいっ!」
「そこの壁にある、スマートホームのコントロールパネル。あれを木刀で叩き割れ!」
「了解ッス! 破壊活動なら任せてください!」
月子が渾身の力で木刀を振り抜き、壁のタッチパネルを粉砕する。
破片が飛び散り、壁の中に隠されていた色とりどりの配線が剥き出しになった。
「金子、これを使うといいわ」
ソフィアが、自分の医療バッグから「手術用のメス」と「ピンセット」を取り出し、私に渡した。
「……助かる」
私はメスでLANケーブルの被膜を削り取り、中の銅線をノートPCの特殊な変換ポートに直結させた。
これで、マンションの神経系に物理的に繋がった。
「……タナトス。僕の『家』で、僕に勝てると思うなよ」
私は目にも留まらぬ速さでタイピングを開始した。
室温はすでに40度に達しようとしている。
額から落ちた汗がキーボードを濡らすが、私の指は止まらない。
奴らはマンションの制御用サーバーに、堅牢なパスワードロックをかけている。
だが、これは僕が住んでいるマンションだ。僕が一度もセキュリティの脆弱性を調べていないはずがない。
「……あった。空調管理システムのバックドア。僕が半年前にこっそり作っておいたやつだ」
私はそこからシステムの中枢に侵入し、タナトスの書いた悪意あるスクリプトを次々と上書きしていく。
『……Error. Unauthorized access.(エラー。不正なアクセス)』
スピーカーの合成音声が、焦ったようにノイズを発する。
「黙れ。ここは僕の城だ」
エンターキーを、強く叩き込む。
――ガコンッ!
大きな音と共に、空調システムが停止した。
熱風が止み、代わりに換気ファンが勢いよく回り始める。
「エアコンが止まった!」
純が歓声を上げる。
「まだだ。ドアとシャッターのロックを強制解除する」
私はさらにコードを流し込んだ。
ウィィィィン……!
窓を覆っていたチタンシャッターが、ゆっくりと上がり始めた。
玄関の電子ロックも「ピッ」という音と共に解除される。
窓の向こうに、東京の美しい夜景が再び姿を現した。秋の涼しい夜風が、熱気のこもった部屋に流れ込んでくる。
「はぁっ……はぁっ……」
「助かったぁ……」
純と月子が、床にへたり込んだ。
チャイも「ワフゥ」と鳴いて、涼しい風の吹く窓辺へと歩いていく。
「……お疲れ様、金子」
ソフィアが、私の汗を自分のハンカチで優しく拭ってくれた。
彼女のブルーグリーンの瞳が、間近で私を見つめている。
「脈拍110。血圧も正常範囲内。……見事な集中力だったわ。ますますあなたの脳に興味が湧いたわ」
「……解剖は死んでからにしてくれ。今はまだ、やらなければならないことがある」
私がソフィアから少し距離を取った、その時。
バンッ!!
玄関のドアが勢いよく開け放たれた。
飛び込んできたのは、息を切らし、拳銃のホルスターに手をかけた原田深美と、後ろに続くセシリア、そしてナオミだった。
「金子! 無事か! 玄関の前まで来ていたんだが、急にドアがロックされて中に入れなかったんだ!」
深美が叫ぶ。
「Q! 電話かけても繋がらないから焦ったわよ!」
ナオミも息を弾ませている。
「……ええ。私の手配した特殊部隊が扉を爆破する寸前だったわよ」
セシリアが、涼しい顔を作りながらも、微かに肩で息をしている。
チームQの全メンバーが、私のリビングに集結した。
「……心配かけたな。僕の快適な引きこもり部屋が、一時的にサウナにされただけだ」
私は強がりを言って、ソファに倒れ込んだ。
「でも、これはただの挨拶にすぎない。……タナトスは本気で僕を、そして君たちを殺しに来ている」
私は、開かれた夜景の窓を見つめた。
この光の海のどこかに、あの怪物が潜んでいる。
パンドラの箱を巡る、過去からの亡霊との真の戦いが、ついに始まったのだ。
「……さあ、反撃の準備をしよう。特定班の『目』を、総動員するぞ」
私の静かな宣言に、集まった7人の女たちが、力強く頷いた。




