第25話 開かれたパンドラの箱
『Tick Tock. The game begins.』
(チクタク。ゲームの始まりだ)
私の安息の地であるマンションの最上階。
先ほどまで平和な雑談配信のコメントが流れていたメインモニターは、今や漆黒に染まり、その中央に白々しい文字列だけが点滅している。
「な、なんなのこれ……? Qちゃん、パソコン壊れたの?」
暗闇の中で、岡本純の震える声が響いた。
中野月子も、エレナ・ヴァルゴヴァも、突然の異常事態に言葉を失っている。
「……動くな。そして、絶対に自分のスマホの電源を入れるな」
私は絞り出すような声で警告し、即座に行動に移した。
安楽椅子から弾かれたように跳ね起き、デスクの裏側に手を伸ばす。そして、メインルーターの電源ケーブルと、外部に通じる光回線の物理ケーブルを力任せに引き抜いた。
プツン、という小さな音と共に、モニターの白い文字が完全に消えた。
部屋を支配していた電子機器の微かな駆動音が止み、不気味なほどの静寂が降りてくる。
「……物理切断。これでひとまずは、奴らも手出しはできないはずだ」
私は荒い息を吐きながら、フローリングの床に膝をついた。
全身から嫌な汗が噴き出している。
私の構築した、軍事施設並みのファイアウォールと多重の暗号化。それをいとも簡単に突破し、内部ネットワークの深部まで一瞬で侵入してくるなんて。
考えられる手口は一つしかない。先ほどの配信だ。コメント欄のAPIを経由して、未知のゼロデイ脆弱性を突く極めて高度な悪意のあるコードを送り込んできたのだ。
「キュゥゥン……」
張り詰めた静寂を破ったのは、ひどく心細そうな、甘ったるい鳴き声だった。
見下ろすと、私の足元で、生後3ヶ月の柴犬・チャイが小刻みに震えていた。
突然部屋が暗くなり、私が血相を変えてケーブルを引き抜く姿を見て、パニックを起こしてしまったのだろう。
チャイは短い前足を私の膝にかけ、「抱っこして」とせがむように、ウルウルと濡れた黒曜石のような瞳で私を見上げてきた。
そして、私の指先を小さな舌でペロペロと舐め、冷たい鼻先を私の手のひらにぐいぐいと押し付けてくる。
『こわいよ。まもって。ずっといっしょにいて』。
その小さな体全体から発せられる、無防備で純粋な「甘え」のオーラ。
「……すまない、チャイ。怖がらせたな」
私は震える手で、その小さな毛玉をそっと抱き上げた。
チャイは私の胸に顔を埋め、クゥクゥと喉を鳴らしながら、安心したように私の服を小さな前足でふみふみと踏み始めた。
仔犬特有のミルクのような匂い。その温かい体温と柔らかな産毛の感触が、私の極度に張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていく。
ああ、なんという恐ろしい生き物だ。世界最高峰のハッカーからの宣戦布告よりも、この仔犬の「甘え」の方が、私の心を強く揺さぶる。
「……店長。落ち着きましたか?」
月子が、スマホのライト機能だけをつけて、私の顔を下から照らした。
その光の中で、純とエレナも不安そうな顔で私を見ている。
「ああ。……すまない、取り乱した。もう大丈夫だ」
私はチャイを片腕で抱いたまま立ち上がり、部屋のローカル電源のスイッチを入れた。
温かみのあるオレンジ色の光が、再びリビングを照らし出す。
「トオル。さっきのコメント……『タナトス』って、何なの? あなたの過去と関係があるの?」
エレナが、探るような、しかし警戒を含んだ視線で尋ねてきた。
「……話さなければならないだろうな。僕がなぜ、こんな引きこもりになったのかも含めて」
私はチャイを抱いたまま、ソファに深く腰を下ろした。
純たちも、固唾を飲んで私の向かいに座る。
「『タナトス』。……それは、約5年前に僕が『Q』というハンドルネームで活動していた頃に、サイバー空間で死闘を繰り広げた、国際的なサイバー犯罪組織の名前だ」
「国際的な犯罪組織……!?」純が息を呑む。
「ああ。奴らは単なるハッカー集団じゃない。ランサムウェアによる大企業や病院への恐喝、国家機密の窃取、暗号資産の強奪。……そして何より、ダークウェブを通じて、現実世界の暗殺やテロ行為まで請け負う、真の『怪物』だった」
私は過去の忌まわしい記憶を呼び起こす。
「当時、僕はホワイトハッカーとして、各国の捜査機関と非公式に連携し、奴らのサーバーを追い詰めていた。数ヶ月に及ぶサイバー戦の末、僕はついに奴らのコア・サーバーの物理的な場所を特定し、壊滅的な打撃を与えたんだ」
「……じゃあ、その『タナトス』はもう無いんでしょ?」
月子が聞く。
「そう思っていた。幹部連中は各国の警察に逮捕され、組織は完全に解体されたはずだった。……だが、さっきのメッセージだ。『タナトスは目覚めた』」
私はギュッと拳を握りしめた。チャイが不思議そうに私の顔を見上げる。
「奴らの中に、僕の攻撃を逃れた『残党』がいた。……いや、もしかすると、当時僕が対峙していた相手は、真の『ボス』ではなかったのかもしれない」
「……じゃあ、さっきのハッキングは、その残党からの復讐ってこと?」純が青ざめる。
「おそらくそうだ。僕が最近『安楽椅子探偵Q』として表舞台で目立ちすぎたせいで、奴らに僕が生きていること、そして活動を再開したことがバレてしまったんだろう。……僕の痛恨のミスだ」
自分の傲慢さを呪う。
引きこもりという安全圏から、他人の事件を解決して優越感に浸っていた。
だが、ネットは繋がっている。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
その時だった。
ビーッ、ビーッ、ビーッ。
部屋の隅にある、重厚な耐火金庫の中から、くぐもった電子音が鳴り始めた。
「な、なに!?」
純が飛び上がる。
「……僕の『緊急用オフライン端末』だ。外部のインターネットには一切繋がっていない。人工衛星の極秘回線だけを受信する、一方向の通信端末……」
私はチャイをソファに下ろし、急いで金庫を開けた。
中に入っていたのは、分厚い装甲に包まれた無骨なノートパソコンだ。
画面には、赤い文字で『INCOMING MESSAGE(メッセージ受信)』と表示されている。
「……送信元は……『シエラ』?」
その名前を見た瞬間、私は再び目を見開いた。
「シエラって誰よ?」
「僕の……ハッカー時代の、唯一の『相棒』だ」
私は震える指で、メッセージを開封した。
そこには、暗号化されたテキストファイルと、短い音声データが添付されていた。
テキストは、僕とシエラの間でしか通じない、特殊な暗号で書かれていた。
私は頭の中で瞬時にそれを復号化する。
『Q。生きているか? もしこのメッセージを見ているなら、事態は最悪だ。
タナトスは死んでいなかった。奴らはこの5年間、地下で静かに力を蓄え、新たな「兵器」を開発していた。
俺はずっと奴らの残党を追っていたが……逆に尻尾を掴まれた。今、俺は追われている。
奴らの狙いは「パンドラの箱」だ。そして、それを開く鍵はお前が持っている。
いいか、絶対にオンラインに繋ぐな。奴らはお前の現在地を特定しようとしている。
物理的な襲撃に備えろ。誰も信じるな。……幸運を祈る』
「……っ!」
私は奥歯を強く噛み締めた。
シエラ。世界でも五本の指に入る凄腕のハッカーである彼が、「追われている」だと?
音声データを再生する。
『……はぁ、はぁ……Q、聞こえるか。……クソッ、奴ら、そこまで……っ!』
荒い息遣いと、走る音。
そして、背後で『パーン!』という乾いた破裂音が響き、音声はそこで途切れていた。
「……銃声?」
深美やセシリアのように裏社会を知らない純たちでも、それが何を意味するかは理解できたようだ。
「シエラ……!」
私は端末を強く叩いた。
最悪だ。事態は私の想像を遥かに超えて深刻化している。
サイバー空間での嫌がらせではない。これは、現実の命の奪い合いだ。
「ねえ、Qちゃん。……どういうこと? パンドラの箱って何?」
純が、恐怖で震えながら私にすがりついてきた。
「……5年前、僕がタナトスのサーバーを破壊した時、一つだけ、解析不可能な暗号化ファイルを見つけた。それが何なのかは分からない。だが、それが奴らにとって致命的な『何か』であることは間違いない。僕はそれをダウンロードし、何重ものプロテクトをかけて、僕の脳内にしかパスワードが存在しないサーバーに隠した」
私は純たちの顔を、一人一人見つめた。
「……それが『パンドラの箱』だ。奴らは、それを取り返しに来た。僕を……殺してでも」
リビングの空気が、氷点下にまで下がったように冷え切った。
「……ごめん、純。月子、エレナ。……君たちを、僕の過去の因縁に巻き込んでしまった。これは、君たちが首を突っ込んでいいレベルの事件じゃない。……今すぐ、この部屋から出て行け。そして、僕とは二度と関わるな」
私は、自分でも驚くほど冷たい声でそう告げた。
これ以上、彼女たちを危険に晒すわけにはいかない。タナトスは、邪魔者を容赦なく消す組織だ。
しかし。
「……ふざけないでよ」
純が、下を向いたまま、低い声で呟いた。
「え?」
「ふざけんなって言ってんのよ!!」
純はバンッ! とテーブルを叩き、私を真っ直ぐに睨みつけた。
その瞳には、恐怖ではなく、激しい怒りの炎が燃えていた。
「私たちが今まで、どれだけ命がけの事件に巻き込まれてきたと思ってんのよ! 幽霊マンション、首無しライダー、廃病院のヤクザ! その度に、あんたの指示で切り抜けてきたじゃない!」
「それは……!」
「今更、『危険だから関わるな』!? バカにしないで! 私たちはもう『チーム』でしょ!? 特定班だってみんな、あんたを信じてるのよ!」
純の怒声に、月子も強く頷いた。
「そうです、店長! 逃げ足と暴力なら私に任せてください! ロケバスでどこへでも逃がして見せますから!」
「スロバキアの魔女もついているわ。……それに、可愛いチャイちゃんを残して、私たちが逃げるわけないでしょ?」
エレナが、ソファで不安そうにしているチャイを抱き上げ、優しく撫でた。チャイは「クゥン」と鳴いて、エレナの指を舐める。
「お前たち……」
私は、圧倒的な彼女たちの「無謀さ」と「強さ」に、言葉を失った。
引きこもりで、他人との関わりを極力避けてきた私が、いつの間にかこんなにも厄介で、頼もしい仲間たちに囲まれていたなんて。
「……後悔するぞ。相手は、国家権力すら手玉に取る怪物だ」
「上等よ! スパチャがいくらあっても足りないくらいの、最高のエンターテインメントにしてやるわ!」
純が不敵に笑う。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の中にあった重い鉛のような恐怖が、少しだけ軽くなるのを感じた。
「……分かった。君たちの命、僕の頭脳で最後まで守り抜いてみせる」
私は決意を固め、再び立ち上がった。
「まずは、深美とセシリア、ナオミ、ソフィアを呼べ。緊急の作戦会議だ」
「呼べって……Qちゃん、ハッキングを防ぐためにスマホの電源落とせって言ったばっかりじゃない。どうやって連絡するのよ?」
純が、至極真っ当な疑問を口にする。
私は無言で再び金庫に手を伸ばし、その奥から防電磁波ポーチを取り出した。中に入っていたのは、数台の古い折りたたみ式携帯電話だった。私はそれをダイニングテーブルに放り投げた。
「僕が物理的に足を使って買ってきて用意しておいた、未登録のプリペイド式使い捨て端末だ。この部屋のWi-Fiとも、君たちのキャリア回線とも一切紐づいていない。これなら奴らのハッキングも届かない。これで各々の連絡先にかけろ」
「用意周到すぎるっていうか、どんだけパラノイアなのよ……」
純が呆れながらも、ガラケーを一つ手に取る。
「でも、スマホがないと電話番号が分からないわよ? 私、自分の番号すら怪しいのに」
「月子、お前は?」
「……私、深美さんの番号なら暗記してます! あと、ロケバスの車載ナビにも緊急連絡先として登録してありますから、そこからでも見れます!」
「よし。月子は駐車場へ行き、ロケバスから直接深美に連絡を取れ。純とエレナは、セシリアの事務所とナオミのクラブの固定電話番号を調べろ。そこから本人に繋ぐんだ」
「了解ッス!」
「わかったわ。スロバキアの魔女の記憶力、見せてあげる」
私は力強く頷く彼女たちを見渡し、メインルーターの代替となる、独立した緊急用ローカルサーバーの電源を入れた。
「……このマンションの物理セキュリティを最高レベルに引き上げる。戦場は、この部屋だ」
開かれたパンドラの箱。
過去からの亡霊との、血を洗うような真の戦いが、今、幕を開けた。




