第24話 嵐の前の静けさ
午後6時。
私の安息の地であるマンションの最上階キッチンには、焦がしバターとサワークリームの芳醇な香りが漂っていた。
「……生地の弾力、焼き色。完璧だ」
私はフライパンの中で黄金色に輝く半月型の料理を眺め、静かに頷いた。
本日のディナーは、東欧の伝統的なダンプリング『ピエロギ』だ。
小麦粉、卵、少量のサワークリームを練り込んだ特製の生地を薄く伸ばし、二種類のフィリングをたっぷりと包み込む。
一つは、滑らかに裏ごしした男爵いもに、酸味のあるカッテージチーズと飴色に炒めた玉ねぎを混ぜ込んだクラシックなポテト&チーズ。
もう一つは、粗挽きの豚肉に細かく刻んだマッシュルーム、そしてディルを効かせたミート・ピエロギだ。
これらを一度熱湯で茹で上げ、もっちりとした食感を引き出した後、多めの澄ましバターで表面がカリッとするまで焼き上げる。
皿に盛り付け、冷たいサワークリームと、カリカリに炒めたベーコンビッツをトッピングする。
そして、この濃厚なバターとチーズの風味を迎え撃つペアリングは、ワインでもビールでもない。
『純米大吟醸の日本酒』だ。
私は、冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた、微炭酸を含むモダンな造りの日本酒を、薄張りのワイングラスに注いだ。
マスカットや青リンゴを思わせる華やかな吟醸香。そして、口に含んだ瞬間に弾けるフレッシュな酸味と米の旨味。
ピエロギの重厚なバターのコクとサワークリームの乳酸のニュアンスが、日本酒の持つ乳酸菌由来の酸味と奇跡的なマリアージュを果たし、口の中を爽やかにリセットしてくれる。まさに和洋折衷の至高の組み合わせだ。
「よし、ディナーの準備は整った」
「わぁぁぁ! 何この可愛い餃子みたいなやつ! めっちゃいい匂い!」
リビングのソファから跳ね起きてきたのは、岡本純と中野月子だった。
「トオル! これ、ピエロギじゃない! スロバキアの『ピロヒ』とそっくり! 懐かしい!」
さらに、いつものようにベランダから侵入してきた隣人のエレナ・ヴァルゴヴァが、目を輝かせてキッチンカウンターに身を乗り出してきた。
「お前たち、匂いを嗅ぎつける能力だけは警察犬並みだな」
私がため息をつきながら三人分の皿とグラスを用意すると、足元で「ワフッ!」と本物の犬が吠えた。
生後3ヶ月の柴犬、チャイだ。
彼は「僕も警察犬です! ご飯ください!」と言わんばかりに短い尻尾を振り、私のスリッパに前足を乗せて背伸びをしている。
「……お前にはバターもチーズも塩分過多だ。茹でたサツマイモと鹿肉のミンチだ」
私がチャイ専用のディナーを床の皿に置くと、彼は「ハフッ、ハフッ」と嬉しそうな音を立てて平らげ始めた。
「さあ、食え。バターが固まる前にな」
「「「いただきます!!」」」
三人の女たちが、一斉にピエロギにフォークを突き刺す。
「んんんーっ! 皮がもっちもち! 中からチーズとポテトがとろけて最高!」
「お肉の方もハーブが効いてて美味しいです! ……あ、この日本酒、すごく合いますね!」
「トオル、天才よ! 故郷のおばあちゃんの味より洗練されてるわ!」
賑やかな咀嚼音と感嘆の声が響く。
月子に至っては、私が用意した大量のピエロギを文字通り「秒」で吸い込んでいく。
引きこもり探偵、崖っぷち配信者、大食いカメラマン、そしてスロバキアの魔女。
こんなカオスな面子で囲む食卓にも、すっかり慣れてしまった自分がいる。
午後8時。
食後の片付けを終え、私たちはリビングでくつろいでいた。
今日は珍しく、警察からの呼び出しも、弁護士からの厄介な案件も、監察医の不気味な往診もない。
完全な、平和な夜だった。
「ねえQちゃん。今日は特に事件もないし、久しぶりに『まったり雑談配信』やってもいい?」
純が、ソファでチャイの柔らかいお腹を撫でながら提案してきた。
「好きにしろ。ただし、僕の顔は絶対に映すなよ」
「分かってるってば。音声だけ繋いでおくから、適当に相槌うってよね」
純はスマホを三脚にセットし、月子に簡単な照明を当ててもらい、配信をスタートさせた。
タイトルは『JUN様とQの、平和な週末まったり雑談』。
『こんばんはー! JUN様です! 今日は事件もないので、みんなでのんびりおしゃべりしようと思いまーす!』
配信が始まると、待機していた数万人の『特定班』たちが一斉にコメントを流し始めた。
『平和が一番』
『Qちゃんいるー?』
『ツッキー、今日もいっぱい食べた?』
『エレナさんの声も聞きたい』
「みんなこんばんはー。ツッキーもエレナもいるわよ。Qちゃんは今、あっちの安楽椅子でコーヒー飲んでる」
『……僕はただの音声AIだと思ってくれ』
私が気だるげにマイクに向かって呟くと、コメント欄に草とスパチャが飛び交った。
平和だ。本当に平和な配信だ。
「いやー、それにしても最近、怒涛だったわよね。VRゲームの中で殺人未遂が起きたり、ウーバーイーツの配達員がカジノに拉致されたり、山の中でドローン飛ばしたり」
「ドローンの時はマジで焦りましたけど、無事に男の子が見つかってよかったですよねー」
月子が画面外から相槌を打つ。
『偽Qのタカシ君も面白かったわね。実家の子ども部屋から防音マンションのフリして、お母さんに怒られてたやつ』
エレナが笑いながら言うと、コメント欄も『タカシ元気かなw』『カツ丼食べてるよ』と盛り上がる。
数万人のリスナーと、これまでの事件を振り返り、笑い合う。
それは、底辺配信者だった頃の純には想像もできなかった、温かく、熱狂的なコミュニティの姿だった。
「本当に、みんなのおかげよ。特定班の力がなかったら、私、今頃どうなってたか……」
純が少しだけ感傷的な声で言った、その時だった。
私のデュアルモニターの一つ、純の配信の「コメント解析ツール」を映している画面に、奇妙なアラートがポップアップした。
「……ん?」
私はコーヒーカップを置き、モニターを凝視した。
平和な雑談で流れるコメントの滝の中に、不自然な文字列が等間隔で投稿されていた。
『User_Unknown:54 68 61 6e 61 74 6f 73』
『User_Unknown:20 69 73 20』
『User_Unknown:61 77 61 6b 65 2e』
「……Qちゃん? どうしたの?」
私のキーボードを叩く音が急に激しくなったのを聞いて、純が振り返る。
「純、配信のコメント欄のモデレーター権限を僕に渡せ。……変なスパムが紛れ込んでいる」
『え? スパム? 普通のコメントしか見えないけど……』
「お前たちの見ている表のチャット欄じゃない。システムの裏側、APIを経由して直接文字列を流し込んでいる奴がいる。しかも、ただの荒らしボットじゃない」
私は目にも留まらぬ速さでタイピングを行い、その不審な投稿のIPアドレスを弾き出そうとした。
だが、相手は複数のプロキシを経由しており、さらにその経路が数秒ごとに切り替わる高度な偽装を行っていた。
「……こいつ、素人じゃないな」
『ちょっとQちゃん、急に怖い声出さないでよ。特定班のみんなもザワザワしちゃってるじゃない』
純の言う通り、表のコメント欄にも『Qどうした?』『事件か?』という文字が踊り始めていた。
「特定班。……今、僕が拾い上げた文字列を画面に固定表示する。これを解読できる奴はいるか?」
私は、先ほどの謎の文字列を配信画面の端にテロップとして表示させた。
『54 68 61 6e 61 74 6f 73 20 69 73 20 61 77 61 6b 65 2e』
『51 2c 20 50 61 6e 64 6f 72 61 27 73 20 62 6f 78 20 69 73 20 6f 70 65 6e 65 64 2e』
コメント欄の精鋭たちが、瞬時に反応する。
『これ、ただの16進数だろ』
『アスキーコードに変換すれば読めるぞ』
『待って、今デコードする』
わずか10秒後。
特定班の一人が、解読されたテキストをチャット欄に投下した。
『解読結果:Thanatos is awake. Q, Pandora's box is opened.』
『和訳:タナトスは目覚めた。Q、パンドラの箱は開かれた』
「――――ッ」
その文字列を見た瞬間、私の心臓が、氷の塊を飲み込んだように冷たく、激しく脈打った。
タナトス。
それは、ただのギリシャ神話の死神の名前ではない。
かつて。
私が引きこもりの探偵になる前。
裏社会で「ホワイトハッカーQ」として活動していた時代に、私の全てを懸けて壊滅に追い込んだ、最悪のサイバー犯罪組織の名前だ。
「……店長? どうしたんですか? 顔色が……」
月子が心配そうに私の顔を覗き込む。
純も、エレナも、私の異変に気づき、配信の空気が一気に凍りついた。
「……タナトス……? なによそれ、中二病の荒らし?」
純が戸惑いながら笑おうとするが、私の表情を見て口を閉ざした。
私は無意識のうちに、強く拳を握りしめていた。
警察によって完全に解体されたはずの組織。その幹部たちは全員、電子の海に沈めたはずだった。
生き残りがいたのか?
いや、それとも……あの「怪物」が、地獄の底から蘇ったというのか。
『User_Unknown:I have a present for you, Q.』
(プレゼントがあるよ、Q)
再び、裏ルートからメッセージが投下される。
同時に。
――プツンッ。
私の部屋のメインモニター、サブモニター、そして純の配信用のiPad。
全ての画面が、一瞬にしてブラックアウトした。
「えっ!? ちょっと、配信落ちた!?」
純が慌ててスマホを操作するが、反応しない。
「……純、月子、エレナ」
私は、絞り出すような低い声で言った。
「今すぐ、スマホの電源を切れ。Wi-Fiルーターのコンセントを抜け。……僕の部屋のネットワークが、完全に掌握された」
「「「えっ……!?」」」
私の言葉の意味を理解する前に。
真っ暗になったメインモニターの画面に、白い文字がカタカタと浮かび上がってきた。
『Tick Tock. The game begins.』
(チクタク。ゲームの始まりだ)
私の平穏な日常。
鴨肉を焼き、スパイスの香りを楽しみ、チャイの寝顔を眺めながら、画面の向こう側の事件を解決する、安全で退屈な安息の地。
それが今、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「……ワフゥ?」
不安を感じ取ったチャイが、私の足元で小さく鳴いた。
私はチャイを抱き寄せ、暗闇の中でモニターの白い文字を睨みつけた。
パンドラの箱が開かれた。
私がかつて封印したはずの、過去の亡霊が、この部屋の扉を叩いている。
嵐の前の静けさは、完全に終わりを告げた。
……さあ、どうやってこの盤面をひっくり返してやろうか。




