第22話 ドローンとかくれんぼ
日曜日、午後1時。
私は渋谷の裏路地にある、埃っぽい地下のレコードショップで、完全に魂を抜かれた顔で立ち尽くしていた。
「Yo, Q! この1970年代のファンクのレコード、ベースラインが最高にドープじゃない? こっちのソウルのレア盤とどっちがいいと思う?」
私の隣で、山積みのレコードの束を漁りながら目を輝かせているのは、クラブDJのナオミ・セント・ジェームズだ。
今日の彼女は、蛍光イエローのクロップドトップスに、ダメージジーンズという、目が痛くなるほど鮮やかで露出度の高いストリートファッションに身を包んでいた。彼女の輝くようなダークスキンと相まって、薄暗い店内でも強烈な存在感を放っている。
「……僕の耳は絶対音感じゃない。なぜ休日に、こんなカビ臭い地下室で君のレコード探しに付き合わされなければならないんだ」
「デートだなんて照れるじゃない! あんたのその渋い『声』を出せる喉と声帯なら、音の良し悪しも本能で分かるはずよ。それに、今日のランチは私が最高に美味いジャマイカ料理奢ってあげるからさ」
ナオミは悪びれもせずにウィンクを飛ばす。
数日前、彼女に「どうしても手に入れたいレア盤があるから、値切り交渉の時にあんたの威圧感のある声が必要なの」と押し切られ、愛するチャイを留守番させて外界へ出てきたのだが……すでに激しい後悔に苛まれていた。
「……早くしてくれ。これ以上ここにいたら、カビとホコリで僕の繊細な呼吸器がやられる」
私が鼻を押さえて抗議した、その時だった。
ブーッ、ブーッ。
ポケットのスマートフォンが、けたたましく震えた。
画面には『岡本純』の文字。
私は嫌な予感を覚えながら、通話ボタンを押した。
「……なんだ。今、非常にドープな音楽体験の最中なんだが」
『Qちゃん! 音楽とか言ってる場合じゃないわよ! 迷子よ!』
電話の向こうから、純の切羽詰まった声と、木々が風に揺れるザワザワとした音が聞こえてきた。
「迷子? お前が山で迷ったなら、Googleマップで現在地を送れ」
『私じゃないわよ! 今、月子と一緒に奥多摩の「神隠しの森」って呼ばれてる山林で配信のロケハンしてたんだけど、地元の小学生の男の子がいなくなっちゃったのよ!』
純の説明によると、配信の準備中に、近くのキャンプ場から遊びに来ていた7歳の男の子が森に入り込み、そのまま行方が分からなくなったらしい。
すでに警察と消防の捜索隊も出ているが、この森は起伏が激しく、面積も広大だ。
『日没まであと2時間もないの。ここ、夜になると気温が一桁まで下がるのよ! 薄着の子供が夜の山に取り残されたら、低体温症で死んじゃう! Qちゃん、なんとかして!』
純の悲痛な叫び。
私はため息をつき、ナオミを振り返った。
「……ナオミ。ジャマイカ料理はお預けだ。店長に機材を借りろ」
「は? どういうこと?」
「僕のスマホの音声を、この店の最高級のスピーカーとアンプに繋ぐ。……人命救助の時間だ」
数分後。
レコードショップの店長の許可を得て、私は店の奥のDJブースを占拠していた。
タブレットを開き、純と月子のいる奥多摩の現場とビデオ通話を繋ぐ。
「純、状況は把握した。警察の捜索隊はどこを探している?」
『山の東側の、なだらかな斜面よ。あっちの方が歩きやすいからって』
「なら、僕たちは西側の『険しい斜面』と『谷筋』を探す。……月子、ロケバスに積んであるアレの出番だ」
画面越しに、月子がニヤリと笑った。
『了解ッス、店長! ついに私の愛機の出番ですね!』
月子がロケバスのトランクから引っ張り出してきたのは、黒塗りの頑丈なジュラルミンケースだった。
中に入っていたのは、最新鋭の産業用ドローン。
ただの空撮用ではない。高解像度の可視光カメラに加え、赤外線サーモグラフィカメラと高感度の集音マイクを搭載した特注のデュアルレンズモデルだ。
(以前の企業案件の報酬で、月子が『絶対に経費で買ってください!』と駄々をこねて買わせたものだ)。
『バッテリーはフル充電。FPVゴーグルもセット完了です!』
月子が頭にVRゴーグルのようなデバイスを装着し、専用のコントローラーを握る。
元実業団ランナーである彼女の動体視力と反射神経は、ドローンの操縦においてもプロのレーサー顔負けの技術を発揮する。
「よし。純は限定公開で配信を立ち上げろ。特定班を招集する」
私は手元のタブレットを操作し、ドローンのカメラ映像を直接配信に乗せた。
『みんな、聞いて! 今、奥多摩で7歳の男の子が迷子になってるの。服装は青いパーカーに黄色い帽子。……特定班のみんな、月子のドローンの映像から、男の子を見つけて!』
純の悲痛な呼びかけに、日曜の昼下がりで待機していた数万人のリスナーが一斉に反応した。
『マジか、了解』
『ウォーリーを探せのガチ版だな』
『画面の隅々までチェックするわ』
『青いパーカー、黄色い帽子な』
「月子、テイクオフ」
『行きまーす!』
ブィィィィン!!
複数のプロペラが甲高い音を立て、黒いドローンが奥多摩の空へと飛び立った。
私のタブレットにも、空撮の映像がリアルタイムで映し出される。
「月子、高度は上空50メートルを維持。西側の谷筋を蛇行しながら舐めるように飛べ。特定班、画面を分割表示にする。赤外線サーモグラフィの熱源反応と、可視光カメラの青や黄色のピクセルを両方見逃すな」
『了解ッス!』
ドローンは秋の山林の上空を、滑るように飛行していく。
赤く色づき始めた紅葉の木々が、眼下に広がっている。
コメント欄の数万人の「目」が、瞬きすら惜しんで画面を凝視している。
しかし、10分、20分と経過しても、それらしき人影は見当たらない。
『動物の熱源反応はあるけど、人じゃないな』
『青いゴミ袋が落ちてただけだった』
『上空からだと、木に隠れて地面が見えない場所が多いぞ』
特定班から焦りのコメントが漏れ始める。
太陽は西の山際に沈みかけ、森の影が長く伸びていた。気温が急激に下がり始めているのが、現地の純の白い息から分かる。
「……視覚だけじゃ限界があるわね」
私の横で、レコードショップのミキサー卓をいじっていたナオミが呟いた。
彼女は、ドローンの集音マイクから送られてくる音声を、店舗の高性能アンプで増幅し、ノイズキャンセリングをかけて聴いていた。
「ナオミ、何か聞こえるか?」
「風の音と、鳥の鳴き声、それにドローンのローター音。……ノイズが多すぎるけど、フィルターをかければ……」
ナオミはDJの神業的な指先で、イコライザーのつまみを微調整していく。
低音域の風切り音をカットし、ドローンのプロペラ音の周波数を逆位相で相殺する。
「……待って。Q、これ聴いて」
ナオミが特定の帯域だけをブーストし、スピーカーから流した。
――ピーッ……ピーッ……
微かな、本当に微かな、高い電子音。
一定の間隔で鳴っている。
「この音は……防犯ブザーか?」
『純です! 警察の人が「男の子はランドセル用の防犯ブザーを持っていた」って言ってます!』
「ナオミ、その音が一番強く聞こえた座標はどこだ!」
「今、月子ちゃんが飛んでる位置から、南西に300メートル。……切り立った崖の下あたりよ!」
私は即座に月子に指示を飛ばした。
「月子! 南西へ急行しろ。目標は崖の下だ!」
『了解! フルスピード出します!』
ドローンの映像が急加速し、目的の座標へと向かう。
だが、現場の上空に到達した映像を見て、私は舌打ちをした。
「……ダメだ。広葉樹の枝葉が折り重なっていて、上空からは崖の下の地面が全く見えない」
赤外線カメラも、分厚い樹冠に阻まれて地表の熱を感知できていない。
しかし、ナオミのスピーカーからは、確かに防犯ブザーの「ピーッ」という音が聞こえ続けている。
『Qちゃん、どうするの!? もうすぐ日が暮れちゃう!』
「……月子。お前の操縦技術を信じるぞ」
『え?』
「高度を下げろ。……木々の隙間を縫って、森の中へ突入しろ」
『マジッスか!?』
月子が驚愕の声を上げる。
枝葉の密集する森の中を、高速で飛行するドローンで飛び回るのは、神業的なテクニックが必要だ。少しでも枝に接触すれば、プロペラが破損して墜落する。
『そんなの無理よ! ドローンが壊れちゃう!』
純が叫ぶ。
「機体ならセシリアの経費で何度でも買ってやる。……月子、やれるか?」
『……愚問ですね、店長。元実業団の体幹と動体視力、舐めないでください』
月子の声が、アスリートのそれに変わった。
『行きます! キャノピーダイブ!』
ブォォォォン!!
ドローンの映像が、一気に急降下した。
画面いっぱいに迫る木の枝、枯れ葉、蔦。
月子はFPVゴーグル越しに、それらの障害物をミリ単位の操作で回避していく。
右へロールし、左へピッチを傾け、太い幹の間を縫うようにすり抜ける。
まるで森を飛ぶ鷹のような、アクロバティックな超絶飛行だ。
『すげえええええ!』
『映画のチェイスシーンかよ!』
『ツッキーの操縦ヤバすぎだろ!』
コメント欄が月子の神業に熱狂する。
ドローンは森の深部、薄暗い崖の斜面に沿って飛行を続ける。
「ナオミ、音は?」
「近くなってる! 右斜め前方、距離50メートル!」
月子が機体を右に向ける。
だが、そこには何もなかった。ただの枯れ葉が積もった斜面があるだけだ。
しかし、音は確かにそこから聞こえている。
「……特定班! 画面の斜面をよく見ろ! 不自然な点はないか!?」
私は目を皿のようにして画面を睨んだ。
数万の視線が、枯れ葉の積もる斜面に注がれる。
『Qちゃん! 斜面の一部だけ、枯れ葉の色が違う! 周りは茶色いのに、そこだけ少し黒ずんでる!』
『土が陥没してるように見える!』
「……そこだ! 月子、その黒ずんだ枯れ葉の山に、ドローンのローターの風を当てて吹き飛ばせ!」
『了解! ホバリングで風当てます!』
ドローンが不自然な枯れ葉の山の上で停止し、出力を上げる。
強烈な風圧が、積もっていた枯れ葉と折れた枝を吹き飛ばした。
その下から現れたのは――ぽっかりと口を開けた、古い「コンクリートの穴」だった。
戦時中の防空壕か、あるいは古い炭鉱の通気口の跡だろう。それが長い年月をかけて枯れ葉でカモフラージュされ、天然の落とし穴と化していたのだ。
ドローンのカメラが穴の中を覗き込む。
深さ3メートルほどの底に、青いパーカーを着た小さな男の子がうずくまり、泣きながら防犯ブザーを握りしめていた。
「見つけたぞ!! 純、座標を送る! 警察を連れて急行しろ!!」
『わかった!! 行くわよツッキー!』
画面の向こうで、純と月子が森の中を全力で駆け出していく音が聞こえた。
午後5時30分。
太陽が山の端に完全に沈む直前。
純たちに案内された警察と消防のレスキュー隊によって、男の子は無事に穴から引き上げられた。
足首を捻挫し、寒さで震えてはいたが、命に別状はないとのことだった。
『みんな、本当にありがとう! 無事に見つかったわ! Qちゃんも、ナオミも、特定班のみんなも、最高よ!!』
配信画面で、純が鼻水をすすりながら泣き笑いしている。
月子も「ドローン無事でよかったです!」とVサインをしている。
私はタブレットを閉じ、深く、深く息を吐いた。
「……終わったな」
「Yeah! 完璧なセッションだったわね、Q!」
ナオミがハイタッチを求めてきたので、私は仕方なくそれに応じた。
彼女はミキサーの電源を落とし、ニヤリと笑った。
「あの月子ちゃんのアクロバット飛行の時のローター音と、あんたの焦った『そこだ!』って声、バッチリ録音させてもらったわ。これ、次のトラックの最高のサンプリング素材になるわよ」
「……お前、人命救助の最中にそんなことを考えていたのか。本当に悪魔だな」
「音楽の悪魔って呼んでよね。ほら、仕事終わったんだから、約束のジャマイカ料理、行くわよ! ジャークチキン奢ってあげる!」
ナオミに腕を引かれ、私はレコードショップの地下階段を登った。
外に出ると、渋谷の街はすでにネオンの海に沈んでいた。
奥多摩の深い森の暗闇とは違う、人工的で騒がしい光の洪水。
引きこもりの私にとってはどちらも致死的な環境だが、不思議と、今日の夕方の空気は悪くなかった。
「……早く食って、早く帰るぞ。チャイが待っているからな」
「ハイハイ、犬バカのQちゃん。最高のスパイス、堪能させてあげるわ」
ナオミの陽気な笑い声と共に、私たちは雑踏の中へと消えていった。
特定班の無数の「目」と、ナオミの「耳」、そして月子の「翼」。
私たちのチームは、もはや心霊スポットの枠を超え、どんな迷宮からも真実を見つけ出す力を持っていた。




