第19話 解剖室の怪談
午前10時。
私は築地場外市場の人混みの中で、魂が抜けかけたような顔で立ち尽くしていた。
「店長! 見てくださいこの巨大な牡蠣! 生でいっちゃっていいですか!? あ、そっちの和牛ウニ乗せ串も美味しそう!」
私の前を歩く中野月子は、両手に食べ歩き用の海鮮を抱え、目をキラキラと輝かせている。
今日は月に一度の、私の「命懸けの買い出し日」だった。
ネットスーパーでは手に入らない、極上のスパイスや特殊な食材を仕入れるため、私は重い腰を上げて外界へ赴く。そして、大量の荷物を運ぶための「歩くカーゴパンツ」として、体力お化けの月子を日当と現物支給の条件で雇ったのだ。
「……好きにしろ。ただし、領収書はしっかり切っておけよ。経費で落ちない分はお前の給料から天引きだ」
「ケチですねー。あ、すいませーん、この大トロの握り5貫ください!」
月子の弾けるような笑顔と、スポーティな私服姿は、市場の活気によく似合っていた。すれ違う外国人観光客たちが、彼女の健康的な美脚を振り返って見ている。
傍から見れば、年の離れたカップルの食べ歩きデートに見えるかもしれないが、実態は「飼い主と、底なしの胃袋を持つ大型犬」の散歩である。私の財布からは、恐ろしいスピードで諭吉が消えていく。
「……で、店長は何も食べないんですか?」
月子が口いっぱいにマグロを頬張りながら聞いてくる。
「こんな人混みと排気ガスの中で繊細な味覚が機能するわけがないだろう。僕の目的はあの店にある『最高級のサフラン』と『カルダモン』だ。……さっさと荷物を持て、帰るぞ」
私は買い出しを終え、月子に両手いっぱいの紙袋を持たせて、タクシー乗り場へと向かった。
私のHPは、すでにマイナスに突入している。早く防音完備の部屋に帰り、チャイの無防備な寝顔を見て回復しなければ。
しかし、私のスマートフォンが、無情にも震え始めた。
着信画面には、『ソフィア・アンゲロプロス』の文字。
「……嫌な予感しかしない」
私が通話ボタンを押すと、鼓膜を劈くようなハイテンションな声が響いた。
『ヤス、トオル! あなたの美しい脳細胞を貸してちょうだい! 今夜、私の職場に純たちを連れてきて!』
「断る。僕は今、過酷な外出ミッションを終えて瀕死の状態だ」
『あら、そう? 報酬として、私が大学の研究用にキープしている「極上のイベリコ豚の心臓」を譲ってあげようと思ったのに』
「……何?」
『新鮮よ。低温調理すれば最高のステーキになるわ。もちろん、違法なルートじゃないから安心して』
……悪魔の囁きだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「……詳しい事情を話せ」
午後11時。
私と月子は、岡本純と合流し、K大学病院の地下にある『法医学教室・解剖室』へと足を踏み入れていた。
深夜の病院。しかも地下の解剖室。
これ以上の心霊スポットが他にあるだろうか。
愛するチャイをこんな不衛生で危険な場所に連れてくるわけにはいかないため、隣人のエレナに秘蔵の高級ワイン一本を報酬として渡し、強引にベビーシッターを押し付けてきた。私の心はすでにチャイへのホームシックで削られている。
「ちょっとQちゃん! なんで私までこんな所に呼ばれなきゃいけないのよ! 怖いんだけど!」
純が私の背中に隠れるようにして、ガタガタと震えている。
「文句を言うな。極上のイベリコ豚がかかっているんだ。それに、これはお前のチャンネルの絶好のネタになる」
私はため息をつきながら言った。
「ようこそ、私の神聖なるアトリエへ!」
白衣姿のソフィア・アンゲロプロスが、満面の笑みで私たちを出迎えた。
ステンレス製の冷たい解剖台。壁には巨大な遺体保管用冷蔵庫が並び、鼻をつくホルマリンと消毒液の匂いが、ここが「死者の領域」であることを無言で告げている。
『うわぁ……ガチの解剖室じゃん』
『JUN様、ついに大学病院まで潜入かよ』
『ソフィア先生相変わらず美人すぎる』
純のスマホで開始された限定配信のコメント欄が、早くもざわつき始めている。
「で、ソフィア先生。ここで何が起きているんですか?」
月子がジンバルカメラを構えながら尋ねた。
「ええ。実はここ一週間、この解剖室で『ポルターガイスト現象』が起きているのよ」
ソフィアは困ったように肩をすくめた。
「誰もいないのにメスが床に落ちたり、置いてあったステンレスのトレイが勝手に滑ったり。極めつけは、遺体用の冷蔵庫の扉が、夜中にガタガタと音を立てるの。……おかげで、助手や学生たちが『解剖された遺体の呪いだ』って怖がって、誰も地下に降りてこなくなっちゃったのよ」
「じゅ、呪い……! 絶対それ、成仏できてない霊の仕業よ!」
純が悲鳴を上げる。
「純、静かにしろ。幽霊がメスを落として何になる。……ソフィア、君は科学者だ。霊の仕業などとは微塵も思っていないだろう?」
「もちろンよ! 死者はとても静かで雄弁だけど、物理的に物を動かしたりはしないわ。……だからこそ、腹立たしいの。私の神聖な解剖の時間を邪魔する『トリック』を、あなたの頭脳で暴いてほしいのよ」
ソフィアのブルーグリーンの瞳が、挑戦的に私を見つめた。
「……いいだろう。特定班、仕事の時間だ」
私は手元のタブレットを開き、配信の音声マイクに向かって直接リスナーへと呼びかけた。
「今から僕がこの部屋を直接調べる。月子はその後ろからカメラを回せ。特定班は映像から不自然な糸、磁石、あるいは隠しカメラの類がないかダブルチェックしろ。……行くぞ」
「了解ッス!」
月子が私の背後からカメラを構え、解剖室の中を舐めるように映していく。
私も自分の目で、解剖台の裏側や壁際のキャビネットをくまなく調べて回った。
しかし、何分経っても異常は見当たらない。
『怪しい仕掛けはないな』
『メスも普通のステンレス製だ。磁石じゃ動かない』
『冷蔵庫の扉も、物理的な鍵がかかってる』
「……Qちゃん、やっぱりこれ、本物の心霊現象なんじゃ……」
純が涙目で訴えかけた、その時だった。
――カチャン。
静寂な部屋に、金属音が響いた。
月子が素早くカメラを向ける。
解剖台の上に置かれていた銀色のトレイが、まるで氷の上を滑るように、スゥーッと横に移動したのだ。
「ひぃっ!?」
そして、壁際の遺体用冷蔵庫の扉が、ガタッ、ガタガタガタッ! と激しく震え始めた。
「キャアアアアアアッ!!」
純の絶叫が地下室に木霊する。
月子も「うわっ!」と声を上げ、カメラが激しく揺れた。
「……ほう」
私はタブレットから顔を上げ、その不可解な現象を肉眼でしっかりと観察した。
確かに、誰も触れていないのに物が動いている。
だが、オカルトではない。物理的なエネルギーがそこには働いている。
「……ソフィア、この部屋の空調はどうなっている?」
私は部屋の空気がやけに乾燥し、微かに肌を撫でるような一定の気流があることに気付いていた。
「空調? 遺体の腐敗を防ぐために、常に室温は15度以下、湿度は40%以下に保たれているわ。強力な換気システムが24時間稼働しているの」
「なるほど。……特定班、解剖室の『気圧』と『静電気』について調べろ」
私がマイクに向かって指示を出すと、コメント欄の理系エリートたちが瞬時に反応した。
『気圧差か!』
『強力な換気扇が回っている密室で、どこかの扉やダクトが開くと、強烈な空気の流れが生まれる』
『湿度が低いから、静電気も発生しやすい環境だ』
「……そういうことだ」
私は謎の全貌を理解し、ニヤリと笑った。
「純、冷蔵庫の震えにビビるな。……月子、天井の換気ダクトを映せ。それから、入り口の扉の隙間だ」
月子がカメラを向ける。
扉の隙間には、一枚の紙切れが貼り付くようにして風になびいていた。
「これは『ドラフト現象』だ。この部屋は換気扇によって常に負圧になっている。そこに、どこかのバカが意図的に『給気口』を塞ぐ細工をしたんだ」
「給気口を塞ぐと、どうなるんですか?」月子が尋ねる。
「部屋の中が極端な負圧になり、僅かな隙間――例えば冷蔵庫の扉のパッキンの隙間から、無理やり空気を吸い込もうとする。その時の気流の乱れが、冷蔵庫の扉を『ガタガタ』と震わせているんだ」
『なるほど!』
『物理の授業でやったわそれ』
「じゃ、じゃあ、あのトレイが勝手に動いたのは!?」
純が叫ぶ。
「『ホバークラフト効果』と『静電気』の合わせ技だ」
私は説明を続けた。
「ステンレスの解剖台とトレイの間に、極めて薄い空気の層が流れ込み、摩擦抵抗がゼロに近い状態になっていた。そこに、この異常に乾燥した部屋で蓄積された『静電気』が作用したんだ」
「静電気……?」
ソフィアが首を傾げる。
「ああ。ソフィア、君がさっきから着ているその白衣。ポリエステルなどの化学繊維が混ざっていないか?」
「え、ええ。動きやすいストレッチ素材のものだけど……」
「君が歩き回ることで強烈な静電気が発生し、それが金属製のトレイやメスに引力を与えたんだ。空気に乗って浮いた状態のトレイなら、僅かな静電気の引力でも簡単に引っ張られて動く」
私は結論を口にした。
「つまり、これは幽霊の仕業でもなんでもない。空調の気圧バランスを意図的に崩し、静電気が起きやすい環境を利用した、極めて理系的な『悪戯』だ」
「悪戯……? 誰が、何のためにそんなことを……」
ソフィアが眉をひそめる。
「決まっているだろう。君にこの解剖室を使わせたくない人間だ」
私は部屋の隅にある、薬品庫の影を指差した。
「おい、そこに隠れている奴。さっきから『カタカタ』と震える音が、マイクに拾われているぞ。幽霊のフリをするなら、もっと呼吸を殺せ」
ビクッ! と、薬品庫の影で何かが動いた。
「月子!」
「お取り込み中失礼しまァァァす!!」
月子が木刀を構えて飛び込む。
薬品庫の影から引きずり出されたのは、白衣を着た若い男だった。
ひ弱そうな顔に丸眼鏡。ソフィアの助手をしている大学院生だ。
「ひぃぃぃっ! 許してください!」
男は床にへたり込み、土下座をした。
「……山田くん? あなたが、空調に細工をしていたの?」
ソフィアが冷たい目で見下ろす。
山田と呼ばれた助手は、涙目で頷いた。
「そ、そうです……。給気口のフィルターにラップを貼って塞ぎました……」
「なぜそんなことをしたの?」
「だ、だって……ソフィア先生が怖いんです!!」
山田が絶叫した。
「夜な夜な、一人で解剖室に籠もって、死体の内臓を取り出しながら『まあ、なんて美しい肝臓なのかしら』『愛してるわ、この血管の配置』って……嬉しそうに語りかけてるんですよ!? 僕、もう限界で……! 幽霊の噂を流せば、先生も怖がって夜の解剖をやめるんじゃないかって……!」
「……」
「……」
「……」
解剖室に、沈黙が落ちた。
純も、月子も、そして配信の向こうの特定班たちも、全員が完全に「山田くん」に同情していた。
『それは怖い』
『山田くん可哀想』
『ソフィア先生のサイコパスっぷりが原因かよ』
『俺でも逃げるわ』
「あら、心外ね。死者に対する最大の敬意と愛情表現じゃない。ねえトオル?」
ソフィアが私に同意を求めてくる。
「……僕に振るな。山田くん、君の気持ちは痛いほど分かるが、業務妨害だ。大人しく始末書を書くんだな」
私は呆れ果てて、深くため息をついた。
事件の真相は、天才監察医の異常な死体愛にドン引きした助手の、涙ぐましい抵抗だったのだ。
深夜1時。
山田助手の説教と、空調の復旧を終え、私たちは大学病院を後にした。
「はい、約束の『極上イベリコ豚のハツ』よ。血抜きも完璧にしておいたわ」
病院の裏口で、ソフィアがクーラーボックスに入った肉の塊を私に渡してきた。
「……ありがたく頂こう。だが、しばらく君の顔は見たくない」
「ふふっ。照れ隠しね。今度、トオルの部屋に遊びに行ってもいい? チャイちゃんの骨格の成長記録も付けたいし」
「絶対に来るな。オートロックのパスワードを変えるぞ」
私が冷たく言い放つと、純と月子がクスクスと笑った。
「あーあ、怖かったけど面白かったわ! スパチャも結構飛んだし、結果オーライね!」
純がスマホの収益画面を見てホクホクしている。
「店長! 私、怖かったんでお腹空きました! 深夜やってるラーメン屋行きましょう!」
月子が私の腕を引っ張る。
「……お前は昼間、築地でマグロと和牛と生牡蠣を限界まで食っただろうが」
「あれはデートの『おやつ』です! 今からが本番の夕食です!」
月子の恐ろしい宣言に、私の財布が悲鳴を上げた。
私の安息の地は遠く、騒がしくもカオスな夜は、まだまだ終わりそうにない。
極上のイベリコ豚をどう調理するか。
そして帰ったらチャイをどれだけ撫で回そうか。
そんなことだけを考えながら、私は夜の街へと消えていく月子の背中を、重い足取りで追いかけた。




