第17話 歌姫の憂鬱、モデルの矜持
午後3時。
私の安息の地であるマンションの最上階は、濃厚なカカオの香りに満たされていた。
「……焼き上がりは完璧だ」
私はオーブンの扉を開け、熱気を逃がしながら満足げに頷いた。
天板に乗っているのは、焼きたての『クラシック・ブラウニー』。
フランス産の最高級クーベルチュールチョコレートをたっぷりと使い、ローストしたクルミを練り込んである。表面はサクッと薄い膜を張り、中は生チョコのようにしっとりとした「ファッジ」状態に仕上げるのがQ流だ。
私は熱々のブラウニーを四角く切り出し、純白のプレートに乗せた。
そして、その上に冷たいマダガスカル産バニラビーンズを使用した濃厚なバニラアイスクリームを、ディッシャーで丸くすくって鎮座させる。
温かいブラウニーの熱で、アイスクリームの下部がとろりと溶け出し、漆黒のケーキに白いソースとなって絡みついていく。
『Warm brownie and vanilla ice cream』。温と冷のコントラストが生み出す、背徳的で至高のデザートだ。
これに合わせるペアリングは、コーヒーではない。
『モヒート』だ。
グラスにたっぷりのフレッシュミントとライムを入れ、ペストルで軽く潰して香りを引き出す。そこにブラウンシュガーとキューバ産のホワイトラムを注ぎ、クラッシュアイスを山盛りにして、最後に強炭酸水を静かに注ぐ。
ミントの爽快感とライムの酸味、そしてラムのキレが、ブラウニーの重厚な甘さを鮮やかにリセットしてくれる。
「キュゥン……」
甘い匂いに釣られて、足元から声がした。
生後3ヶ月を迎えた柴犬のチャイが、鼻をヒクヒクさせながらお行儀よく「お座り」をして私を見上げている。
「お前には毒だ。……だが、犬用ボーロならあるぞ」
私が無添加のヤギミルクボーロを一粒やると、チャイは「サクッ」といい音を立てて食べ、尻尾をブンブンと振った。
平和な午後だ。
しかし、私の平穏は、いつだって彼女たちによって破られる運命にある。
ブーッ、ブーッ。
ダイニングテーブルのiPadが震えた。
画面には、岡本純からの着信が表示されている。
「……嫌な予感しかしない」
私はモヒートを一口飲み、ミントの清涼感で頭をクリアにしてから通話ボタンを押した。
『Qちゃん! 今から配信繋ぐわよ! ちょっと特定してほしい奴がいるの!』
画面の向こうの純は、珍しく本気で怒っているようだった。
背景はどこかの高級タワーマンションの一室らしい。
「僕は今から至高のティータイムなんだが。……何があった」
『私の誇りに関わる大事件よ!』
事の発端は、2時間前。
純は、専属カメラマンの中野月子を伴って、都内の高級カフェで「ある人物」とお茶をしていた。
その相手とは、純がかつて読者モデルをしていた頃の同期、絵里香だった。
『純、YouTubeなんてまだやってるの? 30万人登録? ふーん、すごいじゃない。でも、そろそろ落ち着いたら? 私は夫のサポートで毎日大変でさぁ〜。週末はハワイに行くんだけど、純はいつまでその金髪と派手なメイクでいくつもり?』
絵里香は、全身をハイブランドで固め、左手薬指の巨大なダイヤモンドを見せつけるようにして、純にマウントを取り続けていたらしい。
「……なるほど。昔の女友達からの痛烈なマウント攻撃で、君の自尊心が傷ついたと。だから僕にその『絵里香』の旦那の裏垢でも特定しろと?」
『違うわよ! 私はそんな陰湿なこと頼まないわよ!』
純は怒って反論した。
現在、純と月子がいるのは、その絵里香の住むタワーマンションの40階の部屋だった。
絵里香はマウントを取りつつも、純に「ある相談」を持ちかけてきたのだ。
『絵里香の家、最近「出る」らしいのよ。誰もいないのに勝手にテレビがついたり、夜中にドアがノックされたり。……で、「純、オカルト系のYouTuberやってるんでしょ? お祓いとかできないの?」って嫌味ったらしく言われたの!』
「ほう。それで、君は『うちの探偵チームに任せなさい』と見栄を張ったわけか」
『見栄じゃないわよ! 私はね、今の自分がやってることに誇りを持ってるの! 綺麗に着飾って社長夫人に納まるのが女の幸せだなんて、古い価値観よ! ……だからQちゃん、この部屋の謎を暴いて、絵里香の鼻を明かしてやって!』
純の瞳には、いつものような「金儲け」の欲はなく、ただ純粋な「意地」が燃えていた。
「……仕方ないな。月子、カメラを部屋全体に向けろ。特定班、出番だ」
私はモヒートを片手に、サブモニターで純の配信のコメント欄を立ち上げた。
待機していた数万人の「目」が一斉に動き出す。
月子のジンバルカメラが、絵里香の豪華なリビングを舐めるように映していく。
大理石の床、巨大な有機ELテレビ、スマートスピーカー、そして窓の外に広がる東京の絶景。
絵里香本人は、怯えた様子でソファの隅に座っていた。
『えーっと、夜中の2時くらいに、急にあのテレビがついて、ザーッて砂嵐の音が鳴るの……。それに、誰もいない廊下から足音が聞こえて……』
絵里香が震える声で証言する。
「特定班。部屋の家電の配置と、ルーターの型番を確認しろ」
『了解』
『テレビは最新のスマートTVだな』
『エアコンも照明もIoT対応のやつだ』
『これ、外部からハッキングされてるだけじゃね?』
リスナーたちの指摘通りだ。
ポルターガイスト現象の9割は、物理的なトリックか、ネットワークの脆弱性を突かれたイタズラだ。
「絵里香さん。この部屋のWi-Fiパスワード、どこかにメモしてあるか?」
私がスピーカー越しに尋ねると、絵里香はビクッと肩を揺らした。
『え、ええ……。リビングのコルクボードに、夫が書いた付箋が貼ってあるけど……』
「……なるほど。絵里香さんの旦那の会社はIT企業だったな。セキュリティ意識が低すぎる。……特定班、この部屋に不自然な『追加機器』がないか探せ」
月子がカメラをコルクボードやテレビの裏、観葉植物の鉢などにズームしていく。
『あった。テレビの裏のコンセント。変なアダプタが刺さってる』
『あれ、小型のWi-Fi中継機だ。しかもカメラとマイクが内蔵されてるモデル』
『完全に盗撮・盗聴されてんじゃん』
「……ビンゴだ」
私はブラウニーのアイスが溶けかけた部分をすくい、口に入れた。
カカオの苦味とバニラの甘さが、推理のスピードを加速させる。
「絵里香さん。残念だが、幽霊はいない。君の部屋は、何者かによって物理的に『監視装置』を仕掛けられ、家電を遠隔操作されている」
『えっ……?』
「問題は、誰が、何の目的でやったかだ。……絵里香さん、最近、旦那さんの様子がおかしかったり、周囲で恨みを買うようなトラブルはなかったか?」
『そんな……夫は毎日仕事で忙しくて……』
絵里香が言葉を濁した、その時。
コンセントに刺さっていた小型機器から、ノイズ混じりの「声」が響いた。
『……チッ、邪魔が入ったわね』
若い女の声だった。
『せっかく、ヒステリーを起こして家から出て行ってもらおうと思ったのに。YouTuberなんか呼んでんじゃないわよ、おばさん』
「だ、誰!? あなた誰よ!」
絵里香がパニックになって叫ぶ。
『誰って? あなたの旦那の「本当のパートナー」よ。……あの人、あなたの見栄っ張りな性格と、金遣いの荒さにもうウンザリしてるの。早く離婚してくれない?』
泥沼だ。
絵里香が自慢していた「セレブ生活」の裏には、夫の不倫と、愛人からの陰湿な嫌がらせが隠されていたのだ。
『な……嘘よ……! あの人が私を裏切るわけ……!』
絵里香が泣き崩れる。
マウントを取っていた相手の惨めな姿。
純にとっては「ざまぁみろ」と笑える状況だったはずだ。
だが。
「……ふざけんな」
純の低い声が、リビングに響いた。
彼女はカメラの前に立ち、スピーカーに向かって怒鳴りつけた。
「あんた、人の家にコソコソ隠しカメラなんか仕掛けて、機械いじって幽霊のフリ? 陰湿すぎて反吐が出るわ! 文句があるなら、直接顔見て言いなさいよ!」
『はぁ? なによあんた、底辺YouTuberのくせに』
「底辺で上等よ! 私はね、自分の足で心霊スポット歩いて、自分の顔晒して、泥水すすって稼いでんの! 男の金でタワマン住んでる女も、男の影に隠れてコソコソ嫌がらせしてる女も、どっちもダサいのよ!!」
純の啖呵が、タワーマンションの部屋に響き渡る。
それは、絵里香への叱咤であり、同時に、自分自身の「今の生き方」に対する強烈なプライドの宣言だった。
『かっけええええ』
『JUN様マジ漢』
『姐さん一生ついていきます!!』
『赤スパ(10,000円)』
限定公開のコメント欄が、純の言葉に熱狂し、スパチャが飛び交う。
『う、うるさいわね! どうせあんたたちには、私がどこにいるか分からないんだから!』
女がスピーカー越しにキャンキャンと吠える。
「……いや、分かるぞ」
私が氷のような声で介入した。
「君が使っているその小型Wi-Fiの電波到達距離は、せいぜい30メートル。つまり、君はこのマンションのすぐ近く……いや、このマンションの『同じフロア』か『真上・真下の部屋』にいる」
『なっ……!?』
「特定班。このタワマンの最近の賃貸契約情報、あるいは『Airbnb(民泊)』の貸し出しリストを照合しろ」
『検索完了。真上の部屋が、3週間前からマンスリーマンションとして貸し出されてる!』
「決まりだ。……月子」
私が名前を呼ぶと、月子は既に玄関のドアノブに手をかけていた。
彼女の目は、獲物を狙う肉食獣のそれだった。
「はい、店長! すぐ上の階ですね! エレベーターより階段の方が早いです!」
月子は重い撮影機材を持ったまま、文字通り弾丸のように部屋を飛び出していった。
非常階段を駆け上がる凄まじい足音が、配信のマイク越しにも聞こえてくる。
『ちょ、ちょっと、来るの!? 警察呼ぶわよ!』
スピーカーの女が焦る。
「呼べばいい。不法侵入と通信傍受で捕まるのは君の方だ」
数分後。
上の階の部屋の前に到着した月子が、「お取り込み中失礼しまァァァす!!」という叫び声と共に、ドアの隙間から逃げ出そうとした若い女を、柔道の鮮やかな大外刈りで廊下の絨毯に沈める映像が流れた。
完全制圧。
ゲームセットだ。
事件解決後。
警察に不倫相手を引き渡し、純と月子は私のマンションに帰還した。
「ただいまー! いやー、スッキリした!」
純は晴れやかな顔でリビングに入ってきた。
絵里香は夫との離婚を決意し、慰謝料をふんだくって自立する道を選んだらしい。去り際、純に「あんた、少しカッコよくなったわね」とこぼしていたそうだ。
「お疲れ様。……腹が減っているだろ」
私は、純と月子のために残しておいたブラウニーとバニラアイスを温め直し、新しいモヒートを作ってテーブルに並べた。
「うわぁ! 美味しそう! 店長、いただきます!」
月子が秒速でブラウニーを口に運び、「んん〜っ! チョコが濃厚!」と幸せそうな顔をする。
純もソファに腰を下ろし、モヒートを一口飲んだ。
「……ふぅ。美味しい。ミントが効いてるわね」
「少しは憂鬱が晴れたか?」
私が尋ねると、純はブラウニーの甘さに目を細めながら、小さく笑った。
「ええ。……私ね、今日、絵里香のタワマン見て、一瞬『いいなぁ』って思っちゃったの。でも、あのハリボテの生活を見て、目が覚めたわ」
純は私の方を真っ直ぐに見た。
「私には、一緒に泥水すすってくれる体力お化けの後輩がいて、画面の向こうには何万人っていう共犯者がいて……。そして、生意気だけど世界一頭のいい、引きこもりの探偵が後ろにいる」
「……」
「今の私、人生で一番楽しいわ。モデル時代なんかより、ずっとね」
純の屈託のない笑顔に、私は少しだけペースを乱された。
私はグラスの氷をカランと鳴らし、視線をそらした。
「……勘違いするな。僕は君の人生を楽しくするために指示を出しているわけじゃない。僕の平穏な生活と、極上のスパイスを買うための資金を稼ぐためだ」
「はいはい、そういうことにしておくわよ。素直じゃないんだから」
純がクスクスと笑う。
私の足元では、チャイが「僕にもちょうだい」と短い尻尾を振っていた。
崖っぷちの歌姫は、もう迷わない。
彼女の誇りは、ハイブランドのドレスでもタワーマンションでもなく、このカオスなチームの「顔」として、どんな怪異にも立ち向かうことなのだ。
……さて、明日のランチは何にしようか。
騒がしい夜は、甘く冷たいデザートと共に更けていった。




