第16話 激辛カレーと隣人の愛
秋晴れの午後2時。
私の安息の地であるマンションの最上階から、私は渋々ながら外の世界へと足を踏み出していた。
「ほらチャイ、行くわよー! 都会のお散歩デビューね!」
岡本純が、甲高い声でリードを引く。
その先には、生後3ヶ月を迎え、すべてのワクチンプログラムを終えた柴犬の仔犬、チャイの姿があった。
赤い唐草模様の小さなハーネスを装着されたチャイは、初めての「都会の公道」に完全にフリーズしていた。
先日の慰安旅行の際、大自然のドッグランでは狂ったように走り回っていたくせに、マンションのエントランスを出て、硬いアスファルトの地面に肉球が触れた瞬間から、彼の短い四肢はピーンと突っ張り、まるで置物のように動かなくなってしまったのだ。
「キュゥゥン……」
チャイは情けない声を出し、振り返って私を見上げた。
その黒曜石のようなつぶらな瞳は、『ここ、どこ? こわい。だっこして』と雄弁に語っている。
「……無理もない。温泉旅館の芝生と違って、ここは排気ガスと騒音に満ちたコンクリートジャングルだ。さあチャイ、危険な外界の探索は終わりだ。帰って高級ササミを食べよう」
「店長、過保護すぎます! 犬は外で走ってなんぼですよ!」
私がチャイを抱き上げようとすると、中野月子が間に入って制止した。
月子はしゃがみ込み、少し離れた場所からチャイに向かって手を叩いた。
「チャイ! おいで! ほら、怖くないよ!」
チャイは私の足元と月子の顔を交互に見て、恐る恐る一歩を踏み出した。
トテッ、トテッ。
不器用な足取りで、アスファルトの感触を確かめるように歩き始める。
やがて、道端の植え込みにたどり着いたチャイは、見慣れない「アスファルトの隙間の草」の匂いを熱心に嗅ぎ始めた。鼻に枯れ葉がくっついているのがひどく間抜けで可愛い。
突然、秋風に吹かれて枯れ葉がカサカサと動くと、チャイは「ビクッ!」と驚き、ウサギのようにピョンと飛び跳ねて私のスニーカーの後ろに隠れた。
「……可愛すぎる。この臆病さは生き残る上で正しい防衛本能だ」
「もう、Qちゃんは本当に親バカなんだから」
純が苦笑いしながらスマホで動画を回している。
結局、15分ほど近所を歩いただけでチャイの体力ゲージは限界を迎え、帰りの道のりは私が抱っこして帰ることになった。
私の腕の中で安心しきってスヤスヤと眠る毛玉の温もりに、私の冷徹な探偵脳は完全に溶かされていた。
部屋に戻り、チャイをベッドに寝かせた直後。
「アホイ! 素晴らしいスパイスの仕入れができたわ!」
隣人のスロバキア人翻訳家、エレナ・ヴァルゴヴァが、両手に巨大な紙袋を抱えてズカズカと上がり込んできた。
「おい、土足……いや、靴は脱いでいるか。なんだその物騒な量は」
「今夜の配信の主役よ! 『エレナ特製・魔女の激辛地獄カレー』!」
エレナがダイニングテーブルに広げたのは、赤や黄色、毒々しいまでに鮮やかな色をした唐辛子の山だった。
ハバネロ、ブート・ジョロキア、トリニダード・スコーピオン、そして世界一辛いとされるキャロライナ・リーパーの乾燥粉末まである。
「ゲッ、何これ!? 匂いだけで目が痛いんだけど!」
純が顔をしかめて後ずさる。
「フフッ。純のチャンネル登録者数30万人突破の記念企画よ! この激辛カレーを純が完食できたら、私がスパチャで10万円投げてあげるわ」
「じゅ、10万!? や、やるわ! やらせていただきます!」
金に目の眩んだ純が、即座に死の契約にサインした。
私はため息をつきながら、換気扇を最大出力に設定した。
スパイスの専門家として、この致死量のカプサイシンをただ煮込むだけという素人の暴挙は見ていられない。
私はエレナから主導権を奪い、タマネギの甘みとトマトの酸味、そしてヨーグルトをベースにして、スパイスの暴力的な辛さの中にも確かな旨味を感じられる、極上の激辛カレーを作り上げた。
午後8時。
純のチャンネルで『激辛チャレンジ! 魔女のカレー完食なるか!?』という配信がスタートした。
『いっただっきまーす! ……んんっ!? 辛ッ!! 痛い痛い痛い!!』
一口食べた瞬間、純は涙と鼻水を噴き出しながら悶絶した。顔は真っ赤になり、大量の汗が噴き出している。
同接は一瞬で7万人を超え、コメント欄には草と高額なスパチャが滝のように流れ続けている。
「純先輩、お水飲んじゃダメですよ! 辛さが増しますからね! ……ん、これ美味しいですね! スパイスの奥に深いコクがあります!」
隣に座る月子は、平然とした顔で致死量の激辛カレーをパクパクと大盛りで平らげている。彼女の味覚はどうなっているんだ。
平和な配信風景。
だが、その裏で、私のデュアルモニターに表示されていた『マンション周辺の監視カメラ映像』に、奇妙なノイズが走った。
「……ん?」
私はキーボードを叩き、エントランス周辺のカメラ映像を拡大した。
そこには、黒いローブのようなゆったりとした服を着た、不気味な男女の集団が映っていた。数にしておよそ10人。
彼らはマンションの入り口を囲むように立ち、ただじっと上階――私の部屋の方向を見上げている。
「エレナ。ちょっと来い」
私は配信の画角に入らないよう、エレナを小声で呼び寄せ、モニターを見せた。
「……あら。あいつら、日本まで追ってきたのね」
エレナは青い瞳を細め、舌打ちをした。
「心当たりがあるのか」
「ええ。東欧を中心に活動している『真理の暁』っていうカルト宗教の連中よ」
エレナは自身の豊かな金髪をかき上げながら、呆れたように言った。
「私のこの容姿と、オカルト関係の翻訳で少し名が知れているせいでね。連中、私のことを『教団を導く東欧の聖女』だの『魔女の生まれ変わり』だの言って、勝手に崇拝してるのよ。過去にも何度か拉致されそうになって、スロバキアから日本に逃げてきたんだけど……どうやら居場所がバレたみたいね」
「……笑い事じゃないぞ。マンションのオートロックの前で、すでに数人が何やら機材を取り出している」
モニターの中で、信者の一人が電子ロックの制御盤に細工をしようとしていた。手慣れている。ただの狂信者ではなく、専門的な技術を持った実行部隊だ。
『ふんぬぅぅ……っ! もうダメ、ギブ! 牛乳! 誰か牛乳ちょうだい!』
配信画面では、純が白目を剥きながらリタイアを宣言し、月子が残りのカレーを嬉しそうに回収していた。
「……月子、カレーは後だ。仕事の時間だ」
私はインカムをオンにし、月子に指示を出した。
「エントランスに不審者の集団が来ている。エレナを狙うカルト教団だ。……奴らが中に入る前に、撃退するぞ」
「了解です! どうすればいいですか!?」
月子がカレーの皿を置き、立ち上がる。
「キッチンにあるスプレーボトルに、僕が作った激辛カレーの『上澄み油』を水で割って詰めろ。即席の暴動鎮圧用ペッパースプレーだ」
「なるほど! 目に入ったら地獄を見るやつですね!」
月子は手際よくボトルに赤い液体を詰め、玄関へと向かった。
「僕はオートロックを電子的に防御する。……そして、特定班を動かすぞ」
私は純の配信の裏回線を開き、数万人の『特定班』に向けて、モニターに映る集団の画像と、『真理の暁』という教団名を投下した。
「特定班。エレナのストーカー集団だ。この教団の日本支部の実態、教祖の本名、そして資金洗浄の証拠を洗い出せ」
『了解!』
『任せろQちゃん!』
『教団の裏垢特定した!』
『おい、この教団、裏で高齢者から詐欺でお布施巻き上げてるぞ!』
数万人の集合知が、わずか数分で教団の化けの皮を剥がしていく。
私はそのデータをまとめ、警視庁の原田深美のスマートフォンへ直接送信した。
同時にメッセージを添える。
『詐欺事件の決定的な証拠だ。今すぐ僕のマンションへ来い。お持ち帰り用のカルト信者が10人いる』
★★★★★★★★★★★
その頃、マンションの1階。
オートロックのガラス戸の前で、信者たちが苛立っていた。
「おかしいな……解除コードが弾かれる。誰かが内側からシステムを書き換えているのか……?」
「時間が惜しい。物理的に破壊しろ! 聖女様をお迎えするのだ!」
一人の信者が、ハンマーを取り出してガラス戸を叩き割ろうとした、その時。
ウィーン、と。
自動ドアが、内側から開いた。
「え?」
信者たちが呆気にとられる中、そこに立っていたのは、スプレーボトルを両手に構えた中野月子だった。
「深夜の訪問販売はお断りしております!!」
プシュッ! プシュッ! プシュッ!!
月子の手から、赤い霧が連続して発射された。
キャロライナ・リーパーとブート・ジョロキアのエキスを濃縮した、地獄の業火のごときカプサイシン・ウォーターだ。
「ぎゃあああああああッ!?」
「目、目がァァァァッ!!」
「痛い! 痛いいいいいッ!!」
赤い霧を浴びた信者たちは、武器を取り落とし、顔を押さえてその場にのたうち回った。皮膚に触れただけで火傷のような激痛が走る代物だ。目や粘膜に入れば、もはや立っていることすら不可能になる。
「さあ、お帰りください! まだまだたっぷりありますよ!」
月子がスプレーを構えて一歩前へ出ると、後方にいた信者たちは蜘蛛の子を散らすように悲鳴を上げて逃げ出した。
しかし、その逃走経路は既に塞がれていた。
「そこまでだ!!」
赤色灯を回したパトカーが数台、猛スピードでマンションの前に横付けされた。
中から飛び出してきたのは、警棒を構えた原田深美率いる警官隊だ。
「特殊詐欺および不法侵入の現行犯で全員拘束しろ!!」
深美の号令で、目をやられて身動きが取れない信者たちに次々と手錠がかけられていく。
鮮やかな一網打尽だった。
★★★★★★★★★★★
深夜0時。
騒動が片付き、私の部屋には再び静寂が戻っていた。
純の配信は「外が騒がしいので今日はここまで!」と適当にごまかして終了させてある。
「いやー、トオルのお手製スプレー、効果絶大だったわね」
エレナがワイングラスを傾けながら、妖艶に微笑んだ。
教団の教祖は、特定班が暴いた詐欺の証拠によって警察に本星としてマークされ、近いうちに逮捕される手はずとなっている。エレナへの執着もこれで断ち切れるだろう。
「……僕のマンションを戦場にするな。掃除の手間が増える」
私がため息をつきながらソファに座ると、エレナがすっと隣に腰を下ろし、私の腕に体を絡ませてきた。
「ふふっ。でも、私を助けてくれたんでしょ? 頼りになる騎士様だわ。……ねえ、ご褒美に何か欲しいものある?」
エレナの甘い香水と、先ほどの激辛カレーのスパイスの香りが入り混じり、鼻腔をくすぐる。豊満な胸の感触が腕に伝わってくる。
「……ご褒美なら、もうもらっている」
私が視線を落とすと、私の膝の上で、チャイが安心しきった様子でスヤスヤと眠っていた。
初めてのお散歩の疲れと、その後の大立ち回りの騒音など全く気にしていないかのような、無防備な寝顔。
この小さな命を守り、静かな引きこもり生活を維持するためなら、狂信者の相手くらい造作もないことだ。
「あら、犬にヤキモチ妬かされる日が来るなんてね」
エレナがクスクスと笑い、チャイの頭を優しく撫でた。
激辛な一夜は、愛犬の寝息と共に、甘く静かに更けていった。




