第15話 深夜ラジオとストーカーの影
午後3時。
私は都内某所の高級スーパーマーケットで、深刻な後悔に苛まれていた。
「トオル! 見て見て、このピクルス、スロバキアの実家で食べてたやつにそっくり!」
「……大声を出さないでくれ。そして、腕を離せ」
隣を歩くエレナ・ヴァルゴヴァは、全く意に介さない様子で豊かな胸を私の腕に押し付けている。
今日の彼女は、体のラインがくっきりと出るボルドー色のタイトワンピースに、黒のトレンチコートを羽織るという、ただでさえ目立つ容姿をさらに強調するファッションだった。
すれ違う買い物客の視線が、エレナの胸元と、その隣で死んだ魚のような目をしている私に突き刺さる。
ことの発端は1時間前。
私の安息の地であるマンションの自室で、夕食の仕込みをしようとしたところ、愛用の特製パプリカパウダーが切れていることに気づいた。
ネットスーパーで頼めば明日には届くが、私の胃袋は今夜どうしても『本格的なグヤーシュ』を求めていた。
仕方なく、マンションから徒歩5分の場所にあるこの高級輸入食材店へ行こうと玄関を開けた瞬間、運悪くエレナと鉢合わせたのだ。
『あら、トオルがお出かけ? 珍しい! 私も行くわ! デートね!』
強引に腕を組まれ、引きずられるようにして外へ出た。
先日、慰安旅行で温泉旅館へ行くという歴史的妥協をしてしまったせいで、彼女たちの中で「Qはたまには外に出る」という誤った認識が定着しつつある。これは非常に由々しき事態だ。
「デートじゃない。僕はスパイスを買いに来ただけだ」
「ふふっ、照れ隠ししちゃって。……ねえ、これ買ってもいい? トオルが作るグヤーシュに絶対合うわよ」
「……勝手にかごに入れろ」
私はため息をつきながら、目的のパプリカパウダーと、いくつかのハーブを手にした。
外の空気はひどく疲れる。早く帰って、チャイのもふもふとしたお腹に顔を埋めたい。
午後11時。
私の部屋には、パプリカと牛肉が煮込まれる濃厚で甘辛い香りが漂っていた。
グヤーシュは完璧な仕上がりだった。エレナに押し切られた「デート」の疲労も、この一皿で幾分か癒やされた。
ソファーでは、純と月子、そしてエレナが、食後のハーブティーを飲みながらくつろいでいる。
……なぜ彼女たちが私の部屋にいるのか。
それは、純が「Qちゃんちの最新オーディオで、ナオミのラジオ聴こうと思って!」と、勝手に上がり込んできたからだ。
「始まるわよー! 今夜の『ミッドナイト・デシベル』!」
純がiPadを操作し、Bluetoothスピーカーに接続する。
重低音の効いたスタイリッシュなビートと共に、ナオミ・セント・ジェームズのハスキーでグルーヴィーな声が響き渡った。
『Yo, 眠れない夜を過ごしてるフクロウたち。調子はどう? DJナオミがお送りする、ミッドナイト・デシベル。今夜も極上のトラックと、アンダーグラウンドな噂話をお届けするわ』
ナオミは渋谷の地下にあるクラブを拠点に、週に一度、ネットラジオの生配信を行っている。
音楽とトーク、そしてリスナーからのリアルタイムな音声メッセージを紹介するスタイルで、コアなファンが多い。
「相変わらずナオミさん、声がかっこいいですねー」
月子が感心したように言う。
『さて、最初のコーナーは「Voice in the Dark」。みんなから送られてきた音声メッセージを紹介するわ。……今日も、常連の「ブラック・シャドウ」君から届いてるわね。先ほど届いたばかりのメッセージよ。ちょっと聞いてみましょうか』
ナオミの口調が、少しだけ硬くなった気がした。
スピーカーから、奇妙な音声が流れる。
『……ナ、オミ……。今日の、服……赤、似合ってる……。迎え、行く……から……』
「ひっ」
純が身をすくませた。
声のトーンは不自然に切り貼りされており、背後には「サーッ」というホワイトノイズが乗っている。
『……というわけでね。ブラック・シャドウ君、いつも熱烈なメッセージありがとう。でも、私の服の色、ラジオじゃ見えないはずなんだけどね。さて、次の曲は――』
ナオミは軽快に話を切り替えたが、私は違和感を覚えた。
私は即座にPCを開き、ラジオのストリーミングデータを録音ツールに流し込んだ。
「……Qちゃん? どうしたの?」
「純、ナオミの番組のチャット欄を見てみろ」
純がiPadを操作する。
『今の声キモすぎ』
『てかナオミの服の色知ってるって、スタジオ覗かれてる?』
『ストーカーじゃん』
「これ……完全にストーカーじゃない!」
純が声を荒らげる。
「ああ。しかも、ただの愉快犯じゃない」
私は別回線で、ナオミのスマートフォンに直接通話をかけた。
彼女はラジオのオンエア中だが、MCの合間に機材を操作しながら出た。
『……Q? 今オンエア中なんだけど』
「分かっている。単刀直入に聞くぞ。あの『ブラック・シャドウ』からのメッセージ、いつから届き始めた?」
『……2週間前よ。最初は私のプレイリストを褒めるだけだったんだけど、徐々にエスカレートしてきてね。「いつも見ている」とか「もうすぐ会える」とか』
ナオミの強気な声に、微かな焦りが混じっていた。
「なぜ警察に言わなかった」
『アタシのリスナーを警察に売るなんて、DJのプライドが許さないわ。それに、実害はないし』
「甘いな。奴は今日、君の服の色を当てた。スタジオの様子が見える位置にいるか、君のスマホがハッキングされている」
『マジで?』
「純、月子」
私は二人を振り返った。
「出番だ。今すぐ渋谷のナオミのスタジオへ急行しろ。……これ以上、ストーカーの好きにはさせない。君たちが向かっている間に、僕がこの音声データから奴の居場所を特定する」
「任せてください! 食後の運動に行ってきます!」
月子が立ち上がり、アキレス腱を伸ばすストレッチを始めた。
純も「友達のピンチなら行くしかないわね!」と立ち上がる。
エレナは「私はお留守番して、トオルとチャイの面倒を見てるわ」と優雅に微笑んだ。
純と月子が私の部屋を飛び出してから、約30分が経過した。
その間、私はナオミから受け取った音声の元データを解析ソフトにかけ、さらに純の配信チャンネルの「裏アカウント」を通じて、深夜待機中の特定班たちに指示を出していた。
『Qちゃん、着いたわよ。ナオミのクラブの入ってるビル。裏口から入るわ』
インカムから純の声が届く。
私は自室のモニター越しに、純のスマホカメラの映像と、ナオミのラジオの音声を同時に監視している。
「ああ、頼む。……さて、こちらもちょうど特定が完了したところだ。ナオミ、聞こえるか」
『聞いてるわよ。純たち、来てくれたのね』
「あの音声メッセージだが、背後に微かな環境音が混じっていた。低音域の周期的な振動音と、『踏切の警報音』、そして『地下鉄の走行音』だ。さらに、大型の室外機のモーター音」
『渋谷周辺で、踏切と地下鉄が同時に聞こえる場所……?』
「特定班が瞬時に絞り込んでくれた。代官山方面に抜ける道の途中、古い雑居ビルが立ち並ぶ路地裏だ。ナオミのクラブから、徒歩10分ほどの場所だな」
『……ビンゴね。でも、徒歩10分なら、とっくに着いてるんじゃない?』
「そこだ。僕は音声波形の最後の部分を拡大した。……『迎えに行くから』と言った直後、環境音が変わっている。ドアを開けて、外に出た音だ」
『……つまり?』
「奴はこの音声を送信した直後、つまり約30分前には既に部屋を出ている。……徒歩10分なら、とっくに君のスタジオの周囲に到着しているはずだ」
『なっ……!? じゃあ、アイツはもう……』
「ああ。奴はずっと、君のスタジオの近くの暗がりで潜伏していたんだ。自分の送ったメッセージがオンエアされる瞬間を待ちわびながらね。……そして今、まさにそれが読まれた。奴の興奮と妄想は最高潮に達しているはずだ」
私は防犯カメラのネットワークをハッキングし、渋谷の裏通りの映像を次々と切り替えていく。
「いたぞ」
クラブの裏口に通じる路地を映したカメラ。
そこに、黒いキャップを目深に被り、マスクをした男の姿が映った。手には、金属製の何か――バールのようなものを持っている。男は耳にイヤホンをつけており、先ほどまで壁の影に潜んでいたが、ラジオを聴き終えたのか、ゆっくりと動き出したところだった。
「月子! 犯人は君たちのすぐ近くだ! 裏口のシャッター前に潜伏していた男が、今、動き出した!」
『了解です!』
配信映像が激しく揺れる。
月子がスマホを持ったまま、裏路地を猛ダッシュしているのだ。
『……ナオミ。今日の、服……赤、似合ってる……。迎え、行く……から……』
不気味なメッセージが脳裏に蘇る。
男が、クラブの裏口のドアノブに手をかけた、その瞬間。
「お取り込み中失礼しまァァァす!!」
月子の元気な声が、夜の路地に響き渡った。
男が驚いて振り返る。
「な、なんだお前!?」
「ファンとの交流は、ルールを守って明るく楽しく! ですよ!」
男がバールを振り上げる。
だが、月子の動きはそれを遥かに上回っていた。
彼女はバールの軌道をスレスレで躱すと、そのまま低く沈み込み、男の軸足に向かって強烈なローキックを叩き込んだ。
「ぐはぁっ!?」
ゴキッ、という鈍い音がして、男の体が宙に浮く。
月子はそのまま男の腕を取り、背中側にねじり上げてコンクリートの地面に押さえつけた。
「はい、確保です! 純先輩、警察呼んでください!」
「お、オッケー! ツッキー強すぎ!」
純が息を切らしながら追いつき、スマホで110番通報する。
『フッ……見事な制圧だ。……ナオミ、終わったぞ』
私がインカムで告げる。
ナオミのラジオからは、ちょうど一曲目が終わるタイミングだった。
『……みんな、聞いてくれてありがとう。実は今、アタシの熱狂的なファンがスタジオまで会いに来てくれたみたいなんだけど……アタシの最強のダチが、そいつをぶっ飛ばしてくれたわ』
ナオミの声には、いつもの余裕と、心からの感謝がこもっていた。
『Q、純、月子。……あんたたち、最高にドープよ。今日の二曲目は、あんたたちに捧げるわ』
アップテンポなダンスナンバーが、渋谷の地下から発信される。
事件は、リスナーたちにとっては粋なラジオの演出として、鮮やかに解決された。
1時間後。
警察に男を引き渡し、純と月子が私のマンションに帰ってきた。
「ただいまー! いやー、今日のツッキーのローキック、マジで痺れたわ!」
純が興奮冷めやらぬ様子でソファにダイブする。
「えへへ、実業団仕込みの脚力ですから! 店長、お腹空きました! グヤーシュまだありますか!?」
月子が目を輝かせてキッチンを見る。
「ああ、保温してある。……自分でよそって食え」
私は疲れ果てて、安楽椅子に深く沈み込んでいた。
「トオル、お疲れ様」
エレナが、私の傍らに立ち、そっと私の肩を揉み始めた。
「……今日のデートの疲れと、事件の疲れで、クタクタみたいね」
「……誰のせいだと思っている」
私は目を閉じながら、チャイを膝の上に抱き上げた。チャイは私の指を舐め、すぐに丸くなって寝てしまった。
「でも、かっこよかったわよ。モニターの前で指示を出すトオルの横顔、すごくセクシーだった」
エレナが耳元で囁き、妖艶な笑い声を上げる。
「……君はオカルトだけじゃなく、人の神経を逆撫でする魔術も使えるらしいな」
「ふふっ。最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
深夜3時。
私の部屋には、スパイシーなグヤーシュの香りと、女性たちの賑やかな笑い声、そして静かなラジオの音楽が流れていた。
引きこもりの私にとって、外の世界はやはり危険で疲れる場所だ。
だが、この騒がしい安息の地を守るためなら……ほんの少しの外出くらいは、我慢してやってもいいかもしれない。




