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安楽椅子探偵はスパチャで謎を解く ~住所特定班と挑む心霊事件簿~  作者: 伊達ジン


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第13話 温泉旅行は殺意の香り(前編)

 H県の山奥にひっそりと佇む、創業百年の超高級温泉旅館『紅葉館』。

 その門をくぐった瞬間、私は深いため息をついた。


「……空気が美味いな。最悪だ」


 私はロケバスから降り立ち、肺を満たすマイナスイオンに嫌悪感を示した。

 私の安息の地である防音完備のタワーマンションから、直線距離で約150キロ。

 ここはWi-Fiの電波も微弱な、大自然のど真ん中である。引きこもりにとっては、まさに地獄だ。


「ワフッ!」


 私の腕の中で、生後2ヶ月半の柴犬・チャイが元気よく吠えた。

 彼にとっては初めての遠出だ。風に揺れる木々のざわめきや、土の匂いに興奮しているらしく、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。


「……お前が喜んでいるなら、まあいいが」


 私がチャイの頭を撫でてやると、彼は「クゥ」と甘い声を出し、私の指をペロペロと舐めた。

 この無防備な毛玉の『おでかけしたい』という視線に負け、私が外に出るという歴史的妥協をしてしまったのだから、後戻りはできない。


「ちょっとQちゃん! 突っ立ってないで荷物運ぶの手伝ってよ!」


 背後から、岡本純の明るい声が飛んできた。

 振り返ると、彼女はいつもより少し落ち着いた、秋らしいマスタードイエローのカーディガンに、ふわりとしたロングスカートを合わせていた。派手なメイクも今日は控えめで、どこか上品な大人の女性の雰囲気を漂わせている。


「僕はチャイの抱っこ係だ。力仕事は月子に任せろ」


「もう、相変わらずね。……ほら月子、あれとこれお願い!」


「任せてください! この程度の荷物、ウォームアップにもなりません!」


 中野月子が、自分より大きなボストンバッグと撮影機材の入ったジュラルミンケースを軽々と両手に持ち、スタスタと旅館のエントランスへ向かっていく。相変わらずのフィジカルモンスターだ。


「アホイ! 素晴らしいわ、この辺りの空気、スロバキアのカルパティア山脈を思い出すわね」


 隣人のスロバキア人、エレナ・ヴァルゴヴァも大きく背伸びをした。

 彼女の豊満な胸がタイトなニットを押し上げ、旅館の若い番頭が目のやり場に困ってオロオロしている。


「……なぜお前がここにいる。チケットは3枚だったはずだが」


「あら、私が自腹で追加手配したのよ。セシリアに直接交渉して、同じ離れの大部屋に相部屋させてもらうことにしたの。オカルトマニアとして、いわくつきの温泉宿を見逃すわけにはいかないでしょ?」


 エレナは悪びれもせずにウィンクをして見せた。相変わらずの図太さと行動力には恐れ入る。


「あの女帝が用意しただけあって、最高の部屋ね。ほら、行くわよ!」


 純に急かされ、私たちは『紅葉館』の離れへと案内された。


 離れは、本館から渡り廊下を進んだ先の、静かな林の中にあった。

 広々とした和室、源泉掛け流しの専用露天風呂、そしてチャイのための真新しいドッグランまで完備されている。


「うわぁ……最高! テンション上がる!」


 純が畳の上に大の字に寝転がる。


「店長! 私、ちょっと温泉街にご当地グルメ全制覇しに行ってきます! 温泉まんじゅうに、鮎の塩焼きに、飛騨牛の串焼き……全部食べ尽くしますよ!」


 月子は荷物を置くや否や、財布を握りしめて嵐のように飛び出していった。


「私はこの旅館の図書室に行ってくるわ。この土地に伝わる土着信仰や、昔の怪談の記録があるかもしれないし」


 エレナもまた、オカルトマニアの血を騒がせて本館へと消えていった。


「ワフ、ワフッ!」


 チャイは真新しいドッグランに放たれると、狂ったように芝生の上を走り回り、5分後には私の膝の上に戻ってきて、電池が切れたようにスヤスヤと眠りについてしまった。

 子犬の体力ゲージの増減は極端だ。


 結果として、広い離れの客室には、私と純の二人だけが取り残される形となった。

 静寂が下りる。遠くで鹿威しがコーン、と心地よい音を響かせた。


「……ねえ、Qちゃん」


 純が、畳の上で寝転がったまま私を見上げた。

 窓からの柔らかな光が、彼女の顔を優しく照らしている。


「せっかくだから、ちょっと外、歩かない?」


「……僕はチャイのベッドだ。動けない」


「チャイなら、そこに置いてあるふかふかの犬用ベッドに移せばいいでしょ」


 純は身を起こし、私の腕からチャイをそっと抱き上げ、ベッドに寝かせた。チャイは「ふにゃ」と鳴いただけで、そのまま深い眠りに落ちた。


「ほら、行くわよ」


 純は私の腕を引き、半ば強引に私を部屋から連れ出した。


 温泉街は、秋の風情に満ちていた。

 石畳の道を歩く浴衣姿の観光客。立ち上る湯煙。射的やスマートボールの遊技場から漏れる、レトロな電子音。


「……人が多い。帰りたい」


「ダメ。はい、これ食べるでしょ?」


 純は屋台で買った熱々の温泉卵を、私の口元に押し付けてきた。

 仕方なく口を開けると、濃厚な黄身の旨味が広がった。


「……悪くない」


「でしょ? あ、射的ある! Qちゃん、私あの上の段のクマのぬいぐるみ欲しい!」


 純に腕を引かれ、私たちは射的屋の暖簾をくぐった。

 コルク銃を構える純だが、何度撃っても弾は標的をかすめるばかりだ。


「あーもう! 当たらない!」


「……貸せ。銃床の当て方が甘いんだ」


 私は純からコルク銃を受け取った。

 狙うのは、標的の重心より少し下。弾の弾道を計算し、引き金を絞る。

 パァン、という乾いた音と共に、クマのぬいぐるみが後ろに倒れ、見事に落下した。


「すごい! Qちゃんかっこいい!」


 純が無邪気に喜んでぬいぐるみを抱きしめる。

 その笑顔は、普段の「崖っぷち配信者・JUN様」の仮面を脱ぎ捨てた、年相応の一人の女性のものだった。

 

 私たちは缶コーヒーを買い、温泉街を見下ろす高台のベンチに腰を下ろした。

 夕暮れが近づき、街にポツポツとオレンジ色の明かりが灯り始めている。


「……ねえ」


 純が、ぽつりとこぼした。


「あんたが本当に外に出てきてくれるなんて、思わなかった」


「……チャイの社会化訓練だと言っただろ」


「ふふっ、素直じゃないわね」


 純は私の肩に、こつんと自分の頭を乗せた。

 微かに、甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。


「私ね、あんたとチームを組んでから、毎日がすっごく楽しいの」


「命の危機に晒されてばかりだろ」


「そうだけど。……でも、一人ぼっちで底辺這いずり回ってた時より、ずっと生きてるって感じがする。あんたが後ろで見ててくれるから、私はどこにでも飛び込んでいけるのよ」


 純は顔を上げ、私の目を見た。

 その瞳は、いつになく真剣だった。


「だから……ありがとう、徹」


 ハンドルネームではなく、本名で呼ばれたのは久しぶりだった。

 不意打ちに、少しだけ心臓の鼓動が跳ねる。


「……礼には及ばない。僕はスパチャの分け前をもらっているだけだ」


 私が顔を背けると、純は「またそれー?」と笑って、私の腕を軽く叩いた。

 悪くない時間だった。

 このまま、ただの平和な慰安旅行で終わるのなら、それもいいかもしれない。


 ……だが、私の探偵としての直感が、この温泉街に漂う「違和感」を捉えて離さなかったのも事実だ。


★★★★★★★★★★★


 午後8時。

 離れの専用露天風呂は、岩造りの見事な設えだった。

 乳白色の湯が滾々と湧き出し、秋の夜風が火照った体を優しく撫でる。


「ふぁ〜……極楽、極楽……」


 純は湯船の縁に頭を預け、長い手足を伸ばしてとろけそうな声を上げた。

 彼女の白い肌は湯気でほんのりと桜色に染まり、湯に浮かぶ美しい鎖骨は、元モデルの矜持を感じさせる。


「本当ですねー。今日だけで温泉まんじゅう20個食べましたけど、お湯に入ったら全部消化された気がします!」


 月子もまた、豊かな黒髪を頭の上でお団子にまとめ、湯船に浸かっていた。

 実業団で鍛え上げられた彼女の肉体は、無駄な脂肪が一切なく、しなやかな筋肉のラインが美しい。それでいて女性らしい丸みも残しており、同性の純から見ても惚れ惚れするプロポーションだ。


「ツッキー、それただの錯覚だからね。……それにしても、セシリアの奴、仕事が忙しいとか言って結局来なかったわね」


「深美さんやナオミさんも『温泉より仕事』って言ってましたしねー。でも、ソフィア先生だけは『死体が上がったら呼んで』って物騒なLINEをくれましたよ」


「あはは、あの先生なら言いそう!」


 純と月子が笑い合っていると、脱衣所の引き戸がガラリと開いた。


「お待たせ。遅くなっちゃったわ」


 湯気をまとって現れたのは、エレナだった。

 スロバキアの魔女は、その圧倒的なプロポーションを隠すことなく、堂々と湯船へと入ってきた。


「うわぁ……相変わらずすごいダイナマイトボディね、エレナ……」


 純が思わず自分の胸元と見比べてため息をつく。


「あら、純だって綺麗じゃない。……それにしても、いいお湯ね。トオルが入らないのはもったいないわ」


「Qちゃんなんて部屋で犬と一緒に丸くなってればいいのよ。……あ、でもね」


 純は昼間の温泉街での出来事を思い出し、少しだけ頬を赤くした。


「今日、ちょっとだけ一緒に歩いたんだけどさ……あいつ、射的ですっごい命中率見せて、ぬいぐるみ取ってくれたのよね」


「えーっ!? 純先輩、店長とデートしたんですか!?」


 月子が湯船の中で身を乗り出す。


「デ、デートじゃないわよ! ただの散歩!」


「フフッ、トオルも案外隅に置けないわね。……でも純、気をつけて。あの男、優しく見えて、頭の中は常に『謎』のことでいっぱいよ」


 エレナが妖艶に微笑みながら、湯をすくって肩にかけた。

 ガールズトークに花が咲く。

 誰もいない貸し切りの露天風呂。聞こえるのは虫の音と、お湯の流れる音だけ。


 ――のはずだった。


「……ねえ」


 ふと、エレナが声を落とした。

 彼女の青い瞳が、露天風呂の奥――岩場と林が隣接している薄暗いエリアを見つめている。


「どうしたの、エレナ?」


「……あそこ。何か、おかしくない?」


 純と月子も、エレナの視線の先を追う。

 岩場の陰。

 乳白色の湯の表面に、黒っぽい「何か」が浮いていた。

 最初は、山から落ちてきた大きな落ち葉か、木の枝の塊かと思った。


 だが、それは違う。


「あれ……」


 月子が目を凝らす。

 湯気越しに見えたそれは。

 お湯の流れに乗って、ゆらり、ゆらりとこちらへ近づいてくるそれは。


 黒く長い髪の毛の束。

 そして、それに連なる、人間の腕だった。


「きゃああああああああああッ!!」


 純の悲鳴が、秋の夜空を切り裂いた。


「どうした、純!!」


 部屋でチャイの寝顔を眺めながら、ノーパソでダークウェブの掲示板を監視していた私は、インカムから飛び込んできた純の悲鳴に弾かれたように立ち上がった。

 ただの悲鳴じゃない。本物の恐怖を含んだ絶叫だ。


『Qちゃん! 露天風呂に……っ、人が! 死体が浮いてる!!』


「何だと!?」


 私はチャイが起きないようにそっとベッドにタオルを掛け、ノーパソを掴んで立ち上がった。


 ……ついに来たか。


 事前の調査で、この『紅葉館』が過去に行方不明者を出していることは把握していた。

 だが、まさか私たちの目の前に、こんな形で現れるとは。


「月子! 純とエレナを背後へ下がらせろ! 絶対に湯船の奥へ近づくな!」


『了解です! お二人とも、お湯から上がって!』


 インカム越しに月子の緊迫した声と、バシャバシャと湯から上がる音が聞こえる。


「……特定班、出番だ」


 私はノーパソを開いたまま、部屋の隅に設置しておいた配信用カメラを起動した。

 まだ正式な配信は始めていない。だが、私のもとにはすでに「待機」している数千人のリスナーがいる。


「緊急事態だ。H県の紅葉館。露天風呂で死体が発見された。……今から警察に連絡する。お前たちは、この旅館の過去の失踪事件に関する情報を洗い出せ」


 私の号令と共に、画面の向こう側の「目」たちが一斉に覚醒した。


 平和な慰安旅行は終わった。

 湯煙の中に隠された悪意の臭いが、私の探偵としての嗅覚を強く刺激していた。


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