第12話 第1章エピローグ:登録者数10万人突破
午後2時。
私の安息の地であるマンションの最上階キッチンには、優しく甘い香りが漂っていた。
「……完璧な焼き色だ」
私はオーブンの扉を開け、熱気を逃がしながら満足げに頷いた。
天板の上に並んでいるのは、人間用のスイーツではない。
国産の鶏ササミとヤギミルク、そしてカボチャのペーストを練り込んで焼き上げた、完全無添加の特製ドッグクッキーだ。
市販の粗悪な油分や保存料は一切使用していない。計算し尽くされた栄養価と、素材本来の甘みを引き出した、究極の犬用おやつである。
「キュゥン……」
香ばしい匂いに釣られたのか、足元から愛らしい声が聞こえた。
見下ろすと、生後2ヶ月半を迎えた柴犬の仔犬、チャイがいた。
たぬきのように丸みを帯びたフォルムのまま、短い前足を私のスリッパに乗せ、鼻をヒクヒクさせながら一生懸命に背伸びをしている。
「まだ熱い。冷めるまで待て」
私がしゃがみ込んで頭を撫でてやると、チャイはちぎれんばかりに短い尻尾を振り、私の指先を小さな舌でペロペロと舐め回した。
そして、わずか3秒。
チャイは「クゥ〜」と喉の奥で甘ったるい声を出しながら、コロンと仰向けに転がった。
無防備なピンク色のお腹を全開にし、前足を幽霊のように丸めて「撫でて」とアピールしてくる。完全に警戒心ゼロのヘソ天ポーズだ。
「……お前というやつは。野生で生きていく気はないのか」
呆れながらも、私はその柔らかいお腹を撫で回した。チャイは気持ちよさそうに目を細め、私の手にすり寄ってくる。
誰にでも3秒で懐くこの無防備な毛玉は、今や我が家の絶対的なアイドルであり、私の冷徹な探偵脳を溶かす暴君となっていた。
ピンポーン。
チャイとの甘い時間を切り裂くように、インターホンが鳴った。
モニターには、巨大な段ボール箱を抱えた岡本純と、その後ろで満面の笑みを浮かべる中野月子の姿が映っていた。
「開けるぞ。……チャイ、お前のうるさいファンクラブが来たぞ」
「ワフッ!」
チャイが起き上がり、玄関へとトコトコ走っていく。
「Qちゃん! 来たわよ! ついに届いたのよ!」
リビングに雪崩れ込んできた純は、土足で……いや、靴はちゃんと脱いでいたが、勢い余ってスリッパをすっ飛ばすほどの興奮状態だった。
月子がチャイを抱き上げてワシャワシャと撫で回している横で、純はダイニングテーブルにドサリと段ボール箱を置いた。
「どうした。またどこかの悪徳企業から内容証明でも届いたか?」
「違うわよ! これよ、これ!」
純が震える手でカッターナイフを使い、丁寧に箱のテープを切る。
中から現れたのは、黒い化粧箱。
そして、その蓋を開けると、眩いばかりの銀色の輝きが顔を出した。
「おお……! これが噂の……!」
月子が目を丸くする。
それは、YouTubeの『シルバークリエイターアワード』。
チャンネル登録者数10万人を突破したクリエイターのみに贈られる、通称『銀の盾』だった。
鏡面仕上げの盾の中央には再生ボタンのシンボルが輝き、その下には『JUN様チャンネル』の文字が刻印されている。
「10万……ついに10万人の証よ……!」
純はその盾を両手で持ち上げ、頬ずりをした。
彼女の目からは、大粒の涙が溢れていた。厚塗りのマスカラが少し溶けかけている。
「申請してからアメリカから発送されるまで、結構時間かかりましたねー」
月子がチャイを撫でながら笑う。
「今のチャンネル登録者数、もう30万超えちゃってますけどね」
「いいの! 今は数字がどうであれ、この盾は私がYouTuberとして認められたっていう勲章なの!」
純は涙を拭い、鼻をすすりながら盾を抱きしめた。
「ほんと、信じられないわ……。数ヶ月前、あの廃マンションで幽霊に襲われて、あんたに泣きついた時は、同時接続者数なんてたったの12人だったのに」
純の言葉に、私も小さく息を吐いた。
確かに、怒涛の日々だった。
私の安息の地であったはずの引きこもり生活は、あの夜を境に完全に崩壊したのだ。
ひったくり犯のバイクを月子が己の脚力で追い詰めた夜。
呪いの日本人形に仕込まれた盗撮カメラを暴いた夜。
廃病院で犯罪グループに囲まれ、氷の女刑事と共闘した夜。
家出少女を救うため、警察のデータベースとリスナーの目をリンクさせた夜。
地下道で音響兵器を食らい、DJの逆位相ノイズで反撃した夜。
悪徳弁護士の恐喝を、英国の氷の女帝が法的にねじ伏せた昼下がり。
山林で白骨死体を発見し、天才監察医が一瞬で凶器を見抜いた日。
そして先日の、VR空間での殺人未遂事件をハッキングで叩き潰した企業案件。
「店長、私たちすごいチームになりましたね!」
月子がチャイに顔を舐められながら笑う。
「……勘違いするな。僕はただ、鴨肉と極上のスパイスを買うための資金を稼いでいるだけだ。君たちを助けているわけじゃない」
「はいはい、そういうことにしておくわよ。素直じゃないんだから」
純が笑った。
実際、このチャンネルの急成長は「相乗効果」の賜物だ。
純という、体を張り、視聴者の感情を代弁する「顔」。
月子という、どんな状況でもブレない映像を届ける「目」と「機動力」。
そして画面の向こう側にいる、数万人の『特定班』による圧倒的な情報収集能力。
それに加えて、今では各分野のスペシャリストたちが、公式・非公式を問わず私たちのバックについている。
「アホイ! 銀の盾到着おめでとう! シャンパン開けましょ!」
ベランダの窓が開き、隣人のスロバキア人翻訳家、エレナ・ヴァルゴヴァが、モエ・エ・シャンドンのボトルを持って乱入してきた。
彼女の海外サイトの翻訳とオカルト知識には、何度も助けられている。
「おいエレナ、勝手に入ってくるな。それとチャイにアルコールを近づけるなよ」
「わかってるわよ。あらチャイちゃん、今日もいい子ねぇ〜」
エレナがしゃがみ込むと、チャイは彼女の豊かな胸元に顔を埋めるようにしてすり寄った。全く、誰に似たのか女好きの犬だ。
ピンポーン。
今度は正規のルートからチャイムが鳴った。
モニターを見ると、高級生花店の配達員が立っていた。
「お届け物です。『クロス法律事務所』のセシリア・クロス様より」
届けられたのは、見事な白の胡蝶蘭だった。
添えられたカードには、流麗な万年筆の文字でこう書かれていた。
『銀の盾の到着、おめでとう。私の優秀なリーガル・マネジメントと炎上対策の賜物ね。今後の顧問料のアップについて、近々話し合いましょう。 セシリア』
「あの女帝……お祝いの花と一緒に値上げ交渉してくるとか、ブレないわね」
純が苦笑する。
その時、純のスマホが震えた。
スピーカーにすると、重低音の効いたクラブミュージックのビートと共に、ナオミ・セント・ジェームズの陽気な声が響いた。
『Yo, 純! 銀の盾ゲットおめでとう! お祝いに、Qの「僕は安楽椅子探偵だ」ってセリフをサンプリングした特製のリミックス音源を作ったわ! 今夜のクラブで流すからね!』
「おい、やめろナオミ! 肖像権の……いや、音声権の侵害だぞ!」
『聞こえなーい! じゃあね!』
一方的に電話が切られる。
私はこめかみを押さえた。私の渋い声が、渋谷のアンダーグラウンドでダンスミュージックに乗せて流されているのかと思うと、頭痛がしてくる。
さらに、純のスマートウォッチが『ピピピッ』と警告音を鳴らした。
「え、なにこれ? ソフィア先生からメッセージ?」
画面には、天才監察医ソフィア・アンゲロプロスからの通知が表示されていた。
『純、バイタルデータを見ているわ。心拍数が120を超えている。興奮しすぎよ、交感神経が優位になりすぎて血管に負担がかかっているわ。深呼吸しなさい。……銀の盾おめでとう。お祝いに、あなたの内臓脂肪レベルを測定してあげるから、明日病院に来なさい』
「……ありがたいけど、一言一言が怖いのよあの先生!」
相変わらずの解剖マニアっぷりだ。
そして最後に、私のスマートフォンが短く振動した。
メッセージの送信者は、原田深美。
警視庁の、あの生真面目な氷の女刑事からだった。
『銀の盾が届いたそうだな。おめでとう、と言いたいところだが、これ以上目立って警察に迷惑をかけるなよ。……まあ、お前たちの情報網に助けられているのも事実だ。ほどほどにしておけ』
短い文面だが、彼女なりの精一杯のデレだろう。
全く、素直じゃない女だ。
胡蝶蘭が飾られ、シャンパンが抜かれ、私は冷ました犬用クッキーをチャイに与えた。
チャイは「サクッ、サクッ」と美味しそうな音を立ててクッキーを食べ終えると、満足そうに私の足元で丸くなった。
「店長、私たち次はどこを目指すんですか? 目指せ100万人?」
月子がシャンパングラスを傾けながら聞く。
「数字なんてただの結果だ。僕が求めるのは、退屈な日常を打ち破る至高の『謎』と、それを解き明かすカタルシス。……そして何より、快適な引きこもり生活を維持するための莫大な資金だ」
「出た、お金の亡者。……でもね、Qちゃん」
純が、真剣な表情で私を見た。
「私、本当に感謝してる。あんたがいなかったら、私は一生、誰にも見られない底辺配信者のままだった。……あんたの頭脳と、特定班のみんなの力があったから、私は今、ここに立ててる」
「……気持ち悪いことを言うな。酔っているのか」
私が顔を背けると、純は悪戯っぽく笑った。
「照れない照れない。……でね、セシリアからのお祝い、実は胡蝶蘭だけじゃないのよ」
「何?」
「ジャーン!」
純がバッグから取り出したのは、三枚のチケットだった。
「『銀の盾獲得記念・特別慰安旅行』! H県の山奥にある、超高級温泉旅館『紅葉館』の離れ・貸し切り宿泊券よ! セシリアがスポンサーで手配してくれたの!」
「……却下だ。僕は家から一歩も出ない」
私は即座に拒絶した。温泉だろうが高級旅館だろうが、外の世界は危険と疲労に満ちている。
「そう言うと思ったわ。でもね、この離れ……なんと『ペット同伴可』なのよ」
「……なっ」
「専用のドッグラン付き。源泉掛け流しの露天風呂。最高級の松阪牛のすき焼き。……チャイちゃんも一緒に、大自然の中で走り回れるわよ?」
「ワフッ!」
その言葉に反応したのか、チャイが私の足元で嬉しそうに吠え、尻尾を振った。
チャイのキラキラと輝く黒曜石の瞳が、私を見上げている。
『おでかけ、したいな』と、その瞳が語りかけているような気がした。
「…………」
私はチャイの無垢な視線と、純たちのニヤニヤした視線を交互に見比べた。
「……チャイの社会化訓練には、外の世界の刺激も必要かもしれないな」
「出た! 究極の親バカ!」
「店長、陥落早すぎです!」
純と月子が爆笑する。エレナも手を叩いて笑っている。
「うるさい。……だが、ただの慰安旅行で終わると思うなよ」
私は冷めたコーヒーを啜りながら、メインモニターに目を向けた。
実は先程から、私の監視システムが、ある奇妙なデータを拾い上げ始めていたのだ。
「H県の『紅葉館』。……偶然にしては出来すぎているな。この旅館、過去に何度か『行方不明者』を出しているいわくつきの宿だ」
「えっ……!?」
純の笑顔が引き攣る。
「行くぞ、純、月子。特定班にも告知を出しておけ。……次の事件は、湯煙の中で僕たちを待っている」
私の安息の地は、もはやこの部屋だけではない。
彼女たちと、モニターの向こう側にいる数万人の「目」が繋がっている限り、どこにいても私は安楽椅子探偵だ。
「さあ、次の謎解きだ。……特定班、スパチャの準備はいいか?」
私の号令と共に。
チームQの、新たな章が幕を開けた。




